第1部第19章 変わらぬ空気
HORIZON annexでのあの夜の出来事。
里穂と田中以外は誰も知らない。
当然ジムの空気は変わらなかった。
翌日も、翌週も――
ジムの雰囲気は、あまりに「いつも通り」だった。
里穂は大学の休憩時間、ついひなたに「昨日ね、田中さんと……」と
言いかけて――寸前で口をつぐんだ。
(……違う。これは、二人だけの“秘密”)
それを話した瞬間、あの夜の意味が崩れてしまう気がした。
ジムでは、相変わらず男子とのスパーが続いた。
もちろん、負けることはなかった。
だが、勝ちにいくこともなかった。
変わったのは、スパーへの意識よりも――筋力トレーニングへの熱だった。
里穂は、より重いウェイトに挑みはじめていた。
フォームを崩さず、効率的に、最大限の力を引き出す。
気づけば、並の男性でも持ち上げられない重量を、彼女は難なくこなしていた。
それでも、身体は“筋肉質”には見えなかった。
長身でしなやかなプロポーション。
女性らしいラインを保ちつつ、内に秘めた強靭さ。
そのギャップが、また彼女を際立たせていた。
ランニングマシンでのトレーニングも続いていた。
1時間近く走っても息一つ乱さず、一定のリズムを保ち続ける姿に、
あるトレーナーが冗談めかして言った。
「森川さん、もしかしてフルマラソン狙ってる?」
「……それも、ありかもしれませんね」
笑ってそう返した自分に、少し驚いた。
一方、田中もジムの看板選手としての立場を保っていた。
次の試合――世界戦の前哨戦ともいえる大一番に向け、
着々と準備を進めているようだった。
あの夜のことを、誰にも語らず。
ただ、黙々と――それぞれが、自分の道を進んでいた。




