第1部第1章 動き出す春
春――。
東京大学の入学式を終えたばかりの森川里穂は、慣れないスーツの肩をほぐしながら、静かに息を吐いた。
見上げた空は高く、桜の残り香が風に舞っていた。
ここから始まる新しい生活に、期待もある。でも、それ以上に、自分の中の「なにかを変えたい」という気持ちが強かった。
自分の身体のことだった。
身長173センチ、体重70キロ。
女性としてはかなり大きめの身長。
ただ、世間的には“ややぽっちゃり”とされる体型で、特に豊かなバストが原因で上半身全体が太って見えることに、昔から少しだけ引け目を感じていた。
「服がきれいに決まらないの、嫌なんだよね……」
鏡の前で何度もつぶやいたその言葉が、大学入学をきっかけにようやく「行動」に変わろうとしていた。
きっかけは些細なことだった。
駅前のカフェで出会った大学配布のフリーペーパー。
そこに紹介されていた、大学近くの総合型トレーニングジムが目に留まったのだ。
「……ここ、行ってみようかな」
あくまで目的は、健康増進とダイエット。
別に運動が好きになりたいわけじゃない。
ただ、少しでも体力をつけて、体が軽くなればいい。
本音を言えば、自分の体とちゃんと向き合ってみたいと思った。
両親は快く了承し、お金も出してくれた。
小学生の頃、私に「運動をしなくていい」と言っていた母は「里穂もちょっとぐらい運動したほうがいいわよ」なんて言っていた。
数日後、彼女は入会手続きを済ませ、トレーニングウェアを買った。
向かったのは、大学から徒歩圏にある『HORIZON GYM』。
都内でも屈指の大規模施設で、フィットネスエリアだけでなく、総合格闘技用の専用エリアも併設されていた。
マシンの並ぶ奥には、リングがあり、汗まみれの声が響いている。
里穂にはこれまで全く無縁の世界がそこにはあった。
あの空間には、プロの選手も出入りしているらしい。
その中でも、このジムのホープとして知られるのが――
70kg級日本王者、田中遥輝。
日本を制した彼は、いずれ世界を目指すと言われていたが、最近はやや足踏みしているとも噂されていた。
里穂はその情報を耳にしても、特に心を動かされなかった。
「へぇ……そんなすごい人もいるんだ」
それくらいの、他人事だった。
まだこのときの彼女は、まさか――
その“すごい人”と、やがて拳を交えることになるなどとは、想像すらしていなかった。