第1部第18章 二人だけの秘密
静まり返るスタジオに、再び音が戻り始める。
田中は、ゆっくりと立ち上がった。
痛む頬に手を当てながら、ぼそりとつぶやく。
「……俺の、20年が……負けたのか」
19歳。格闘技歴1年。
まだ成人式すら迎えていない少女に、
20年格闘に人生を捧げてきた自分が倒された――
その現実は、あまりにも重かった。
「森川さん……君は、本当に強い」
それは、敗者の負け惜しみではなかった。
田中の目には、純粋な畏敬の念が宿っていた。
「俺、あのとき……1R目で、確かに“負ける”と思ったんだ。
でも、まさか本当にやられるとは……」
「田中さんは、もっと強くなれますよ」
優しく、でも真っ直ぐに。
里穂はそう言った。
それは、田中にとって少し残酷でもあった。
だが、彼女がそう言ってくれたことが、嬉しかった。
田中は深く息を吐いて、拳を握る。
「……もう一度、ここから出直す。
世界王座、必ず獲ってみせる」
そう言い切る田中の目に、迷いはなかった。
ふと、里穂が顔をほころばせる。
「今日の勝負、二人だけの秘密にしましょう。
ジムでは今まで通り。田中さんがHORIZONのエースなんですから」
「それと・・・私が普段、男性相手に手加減してるのも、秘密にしてくださいね?」
そう言って――
里穂は、ぱちんとウインクをした。
その仕草に、田中は思わずその顔に見とれ、そして笑ってしまった。
(こんなに可愛い女の子に、全く歯が立たなかった……)
胸の奥に、奇妙な感情が広がっていく。
敗北の悔しさとも違う、混乱とも少し違う。
ただ確かなのは――
(……俺、好きだ)
田中の中に、初めて明確に芽生えた“恋心”だった。
世界王者になって、彼女に告白したい。
その頃には、もう一度、彼女を越えられる自分でありたい。
それが、田中の新たな目標になった。
*
帰り道。夜風に頬を撫でられながら、里穂はひとり歩いていた。
(私……本当に、強くなっちゃったんだ)
あの田中さんに、勝ってしまった。
20年以上格闘技をやてきた田中さんに、まだ20歳にも満たない自分が。
ジムに通い始めてまだ1年、格闘技を始めて9月ぐらいの自分が。
全身に満ちる達成感と、自信。
自分はどこまで成長できるのだろう。
どこまで自分を高められるのだろう。
でも――ほんの少しの、空虚さもあった。
(強くなりすぎちゃったのかな……
強い女の子って、田中さんは、嫌いかな……)
ほんの少しだけ、胸が痛んだ。
それでも。
(私は、成長を止めたくない)
あの言葉も、あのウインクも、
全部、自分の“本気”の証だった。
誰にも言えない、ふたりだけの秘密。
それが、今は少しだけ――
嬉しかった。