第1部第17章 越境の一撃
HORIZON annex。
深夜、人気のないスタジオで――
ただの一戦ではない、特別なスパーリングが始まろうとしていた。
田中遥輝。現役70kg級日本王者。25歳。
そして、格闘技歴わずか1年の女子大生・森川里穂。まだ19歳。
だが今、リングに立つ二人の間に、「経験」という壁はほとんど存在しなかった。
それほどに、里穂はこのわずかな期間で急成長していた。
ラウンド数は3R。
形式はあくまでスパーリングだが、お互いに“手加減なし”で挑むという暗黙の了解があった。
【1R】
ゴングと同時に、田中が仕掛ける。
重く、鋭いローキック。踏み込みからのストレート。
「……強い」
前回とは段違いだった。里穂はすぐに理解する。
本気の田中は、やはり“別格”だ。
しかし、怖くはなかった。
すでに田中の動きは、映像で、スパーで、そして体感で叩き込んでいた。
頭の中で、反応が先回りする。
ステップで外し、角度をずらし、プレッシャーを返す。
あえて仕掛けない。打たない。誘う。
主導権は、静かに、確実に、里穂のものになっていた。
【2R】
田中の攻撃がさらに激しくなる。
上下に揺さぶり、強打を混ぜ、組みも狙う。
だが――
(この人、本当にすごい。でも……見える)
ギリギリの間合いで交わし、反撃の隙をうかがう。
ここでも、あえて決めにはいかない。無理に打ち抜かない。
“勝ちたい”という気持ちではなく、
“壊したくない”というブレーキが、無意識に里穂の拳を止めていた。
田中の中に、再び違和感が芽生える。
「……森川さん、やっぱり遠慮してるよね」
里穂の動きが一瞬止まる。
「僕に気を使わなくていい。そんな優しさは、僕にとっては残酷だ。
全力で来てほしい。本気で、勝ちに来てほしい」
その言葉に――里穂の心に、何かが灯った。
(……私は“対等”になりたかったんだ)
【3R】
ゴングと同時に、動いたのは里穂だった。
スピード。角度。連携。
すべてが、今までとは違っていた。
フェイントをかけて、ステップで前に出る。
田中のガードが動いた瞬間、鋭いミドルから右のストレート。
一瞬の隙を突き、左のアッパーが突き上げる。
田中の身体が、大きく後ろに崩れた。
――KO。
静かなスタジオに、音が止んだ。
里穂はその場に立ち尽くしていた。
全身が熱い。息が上がる。
拳が、まだ震えていた。
田中は、ゆっくりと身体を起こし、苦笑しながら言った。
「……これでいい。最高だったよ、森川さん」
その言葉が、なによりの称賛だった。
この瞬間、森川里穂は――
誰に気を遣うでもなく、誰の期待に応えるでもなく、
ただ「自分の意志」で、王者を越えたのだった。