第1部第15章 越えたくなかった壁
田中遥輝。
70kg級・現役日本王者。
格闘家としての経験も、実績も、圧倒的な存在だった。
その田中と格闘技歴1年の女子・里穂のスパーリングが始まった。
リングに立った瞬間、里穂の全神経が研ぎ澄まされていた。
一挙手一投足、視線の動き、呼吸のリズム。
“これまでの誰とも違う”ことは、一瞬で分かった。
だが同時に――
(……想像通り。想像以上じゃない)
その感覚が、里穂の中に静かに湧き上がった。
動きの質、スピード、パワー――
もちろんこれまでの相手とは格が違う。それでも、怖くはなかった。
何とかなる。いや、十分に戦える。
田中の攻撃は読み切れないほどではなく、
里穂のジャブや蹴りは、徐々に彼のガードを揺さぶっていた。
(……いける。勝てるかもしれない)
1R終了時点で、場内はざわついていた。
「互角だ……むしろ森川さんが押してる?」
それほどに、里穂は善戦していた。
2R開始――
田中が前に出てくる。
だが、里穂はその圧にも飲まれなかった。
(……これ、勝てる。いや、たぶん“もう勝ってる”)
そう確信した、その瞬間――
里穂の胸の奥に、別の感情が浮かんだ。
(でも――これでいいの?)
浮かんだのは、最初のスパーで倒した男性の涙。
“女に負ける”という現実を前に、何も言えず泣いていたあの姿。
(しかも今回は……田中さん……)
このジムの看板選手。
多くの人に尊敬されている存在。
そして、誰より自分を認めてくれた人――
(そんな人を、私が、壊してしまっていいの?)
迷いが、入った。
一瞬、ガードが下がった。
その隙を、田中は見逃さなかった。
「ッッ!!」
右ストレートが、里穂の頬を打ち抜いた。
リングに崩れ落ちる。
視界が、歪んだ。
スパーとはいえ、男子日本王者が女子をKO――
その場の空気が凍りつく。
田中は慌てて駆け寄り、
倒れた里穂の横で、うろたえながら言った。
「ご、ごめん……!大丈夫か!?女の子の顔に、俺……」
しかし――
「勝負ですから。気にしないでください」
里穂は笑った。
汗と涙が入り混じったその顔で、いつもの笑顔を作った。
「やっぱり田中さん、強いですね。全然、かなわなかったです」
そう言った自分の声が、どこか遠く感じた。
(……私、勝てたのに)
言わなかった。言えなかった。
ただ――
“越えてはいけない壁”を、自ら越えなかったことに、
少しだけ、胸が痛んだ。