第1部第14章 王者の拳、少女の挑戦
「次のスパー、森川の相手は田中」
その言葉に、ジム中が一瞬静まり返った。
田中遥輝――
HORIZON GYMの顔であり、70kg級の現役日本王者。
格闘歴20年。プロ戦績も圧倒的。
誰もが一目置く存在だった。
一方の里穂は、格闘技歴1年足らずの女子。
試合経験もスパーリング経験も乏しく、
本来なら“交わるはずのない二人”だった。
体格差も歴然としていた。
減量前の田中は74キロ前後。
対する里穂は、引き締まって65キロ前後。
10キロ近い差があった。
それでも――
ジム側はこのカードを“試してみる価値がある”と判断した。
男子相手の練習でも引けを取らず、
時に圧倒すらするようになった里穂に、
さらなる刺激と試練を与えるには、もはや田中しかいなかった。
***
提案を受けた田中も、最初は迷った。
「女子とスパー?……いや、いくらなんでも……」
だが、ここ最近の里穂のスパーを見ていると、
彼女が“明らかに遠慮している”のが分かった。
「男子相手でも物足りなそうだった。
だったら俺が、“男子の本気”を教えるべきだろう」
田中の言葉は、どこまでも真摯だった。
同時に――
「……あの子、強くて、頭良くて、しかもあの見た目だろ。
……そりゃ、ちょっと気になるよな」
田中も男だった。
強く、美しく、真っすぐなその存在に、
少なからず興味を抱いていたのも事実だった。
ただし、田中遥輝は“拳でしか語れない男”だった。
***
対する里穂は、ただただ燃えていた。
(田中さんとスパー……!)
ワクワクが止まらなかった。
男子とも互角以上にやり合えるようになってから、
ずっと何かが物足りなかった。
“本気を出せる相手”がいなかった。
でも――田中なら違う。
彼の試合映像を見返し、動きの癖、リズム、呼吸を解析する。
相手のスタンスと打点から逆算して、攻撃のパターンを予測する。
それはまるで、東大の入試問題に取り組む時のような集中力だった。
(あの人に、自分の全力をぶつけたい)
胸の奥で、拳が握られる感覚があった。
***
そして、試合の日が来た。
ゴングはまだ鳴っていない。
けれど――
リングに上がった瞬間から、
ふたりの勝負は、もう始まっていた。