第1部第13章 まだ越えていない壁
ジムに通い始めて、1年。
東大医学部の2年生に進級した里穂は、
学業でもトップクラスの成績をキープしていた。
「……ねぇ、いつ勉強してんの? あんだけジム行ってんのにさ」
ひなたが呆れたように言った。
「ちゃんとやってるよ。ランニング中も耳で講義聴いてるし、寝る前にまとめて復習もしてる。
……ていうか、ひなたこそ。衣装ばっか作ってていつ勉強してるの?」
「それは私の胸に訊いてください……って、ぺったんこな私にそれ聞く?」
笑いながらひなたが軽くツッコむ。
そんなやり取りにも、もう慣れた。
***
男子とのスパーリングにも、だいぶ慣れてきた。
あのスティーブに敗れてからというもの、
里穂は一層ストイックに自分を磨いてきた。
以来、男子相手でも負けることはなくなっていた。
――けれど。
「……私、ちょっと遠慮してるのかも」
心のどこかで、そう思い始めていた。
以前スパーで勝った男子選手が、
悔しさに耐えきれずに涙を流していた場面が、
未だに頭から離れなかった。
(……私に負けるのって、やっぱりすごく悔しいんだろうな)
まだ経験の浅い年下の女。
しかも、成績もよくて、見た目も整っていて――
そして何より、“女らしい”身体を持っている。
そういう相手に負けることが、
男子にとってどれほど屈辱的なものか。
それを考えると、どうしても全力を出しきれなかった。
実際、最近のスパーはドローが増えていた。
試行錯誤はするものの、積極的に仕掛けに行くことは少なかった。
(……これじゃダメだよね)
そう思っていた矢先。
ある日、トレーニング後に田中がふと言った。
「森川さん……ちょっと、遠慮してる?」
思わず息が詰まった。
「えっ……いや、そんなことないですけど……」
笑ってごまかしたつもりだった。
でも、田中の眼差しは鋭く、優しかった。
「……バレてるのかもしれないな」
そう思った。
田中遥輝。
70キロ級の日本王者。
ジム内では別格の存在。
パワーも技術も、圧倒的だった。
リングの中に入ると、まるで風景が変わるような重みがあった。
(……一度、田中さんとスパーしてみたい)
そう思う自分がいた。
遠慮を脱ぎ捨てて、全力でぶつかりたい。
負けてもいい。逃げずに挑んでみたい。
その気持ちが、確かに里穂の中で芽生えていた。
そして――
「次のスパー、田中と組むから」
そう、告げられた。
リングの向こう。
未だ越えたことのない壁が、
静かに、しかし確かに、待っていた。