第1部第12章 Ladyだからって
男子との合同練習が始まって以降、
里穂のトレーニングはさらに熱を帯びていた。
ウェイトの数値も更新し続け、
トレーニングノートの記録欄は、もうびっしりと埋まっていた。
それでも足りず、最近は筋肉の疲労具合や回復時間まで書き込んでいる。
東大医学部生の知識も、今や完全に実践に活きていた。
そんなある日――
「次のスパー、相手はスティーブだよ」
聞いた瞬間、少し息が止まった。
スティーブ。
190センチを超える長身。
かつて米軍に所属していたという、アメリカ人男性。
今は都内の外資系企業で働いており、
ジムには週数回、業後に顔を出している常連だ。
初めての外国人。
初めての“明らかに格上”の体格。
リングに上がった時、その圧力に一瞬たじろいだ。
(……でかい。リーチも、重さも、全然違う)
ゴングが鳴る。
最初の数十秒、完全に押された。
距離を詰めようとしても、ジャブ一発で弾き返される。
ステップもリズムも、日本人選手とはまるで違った。
(落ち着いて。パワーも、スピードも、私だって劣ってない)
冷静に見ていくうちに、反撃の糸口が見え始めた。
体格差の大きい相手ほど、動きにはわずかな“間”がある。
そこを狙って、カウンターを――
そう思った、その瞬間だった。
強烈な右フックが、顔面に入った。
(――あっ)
視界が一瞬、白くなった。
崩れる。マットに落ちる。
「ストップ!」
レフェリーの声とともに、スパーは中断された。
***
気づけば、控え椅子に座っていた。
頭はクリアになりつつある。
でも、心は……どうしようもなかった。
(……負けた)
自分の力を信じていた。
この半年で積み上げてきたものが、通用すると思っていた。
だからこそ、負けたことが、悔しかった。
気づけば、涙がこぼれていた。
こらえきれず、手で顔を覆う。
「Hey… are you okay?」
そっと声がかけられた。
見上げると、タオルを持ったスティーブがいた。
「You fought really well. I’m impressed.」(君の戦い方、とても良かったよ。感心した)
「Thanks… but… I lost.」(ありがとう……でも、負けた)
「Well… you’re a lady. You don’t need to beat a man to prove anything.」(君は女性だ。男に勝たなきゃ証明できないなんてことはないさ)
「But I wanted to win. I thought I could.」(でも、私は勝ちたかった。勝てると思った)
「You're beautiful, strong, and smart. Isn't that enough?」(君は美しくて、強くて、賢い。それだけで十分じゃないか)
その言葉に、里穂の中で何かが軋んだ。
美しくて、強くて、賢い。
――でも、“だから負けてもいい”なんて思ったことは、一度もなかった。
「That’s not the point. I don’t want to be strong *despite* being a woman.」(違うの。私は、女なのに強い――なんて言われたくない)
「I want to be strong, period.」(私はただ、“強く”ありたいの)
スティーブは少し驚いた顔をしたが、すぐに柔らかく笑った。
「Then keep going. I’ll be here anytime you want a rematch.」(なら続けるといい。またスパー、いつでも付き合うよ)
涙のにじんだ視界の中、
その笑顔がやけに優しく見えた。
***
控室の鏡の前。
顔にはまだ赤い腫れが残っていた。
でも――
(……負けたからこそ、わかることもあるんだ)
悔し涙を拭きながら、里穂は静かに、
もう一度拳を握った。