第1部第10章 越えてしまった境界
男子との合同練習、初日。
いきなりスパーリングが組まれた。
「森川さん、こっちの子と軽く2Rやってみようか」
そう言ってトレーナーが紹介したのは、里穂より一回り小柄な男性だった。
細身で色白、物腰は穏やかだが、格闘歴は5年以上あるという。
これまで女性相手にしかスパーをしたことのない里穂にとって、初の“男”との対戦だった。
(……あ、違う)
構えに入った瞬間、空気が変わった。
動きが鋭い。力強い。
パンチの軌道、ステップの速さ、体重の乗せ方――すべてが女子とは違う。
最初の30秒は圧倒されかけた。
それでも、冷静に分析を始める。
(でも……これ、私のほうが速い)
(力も、こっちが上……かもしれない)
そう気づいた時、無意識に距離が詰まった。
2ラウンド目――
一瞬の重心のズレを見逃さず、身体を預けるようにして投げを決めた。
「ストップ!」
トレーナーの声とともに、スパーは終了。
決着は明らかだった。
「ありがとうございました……」
頭を下げながら、里穂は軽く息を整える。
勝った――それは間違いない。
でも、勝ったという実感が、いつもと違う重さを持っていた。
相手の男性は、ゆっくりと立ち上がり、笑顔を作ってこう言った。
「いや、女の子なのに強いね。やっぱり体が大きいからかな」
笑っていた。
けれど、その笑いはどこか張りついていた。
彼はそのまま、早足でロッカールームへと消えていった。
……しばらくして、扉の向こうから、かすかなすすり泣きが聞こえてきた。
***
何も悪いことはしていない。
ルールの中で、全力を出しただけ。
なのに、胸の奥に残るこのざらつきはなんだろう。
(……男子にも、勝っちゃった)
それは、確かに“誇らしい”ことだった。
半年。
たった半年で、5年の経験者の男性に勝ったという事実。
それが自分の努力と才能の結晶であることも、頭では理解していた。
(……でも)
心は、すっきりとは喜べなかった。
“彼を泣かせた”のは、自分だ。
その現実に、どこか罪悪感のようなものがあった。
「これで良かったんだろうか……」
それは、“女である自分が、男に勝った”ことへの戸惑い。
自分が、今まで当たり前のように線引きしていた“境界”を、
気づかないうちに越えてしまったという感覚。
強くなりたかった。
もっと上を見たかった。
その結果、超えてしまった境界。
誰にも責められていないのに、
なぜか心が、痛んでいた。