第1部第9章 男女の障壁
関東大会での優勝を経ても、里穂の成長は止まらなかった。
相変わらず毎日のトレーニングに取り組み、女子クラスでのスパーリングも続けていた。
だが、ある時から、ひとつの感情が芽生えていた。
――物足りない。
「……またこのパターンで終わっちゃう……」
どの相手も、動きが読める。
攻められるより、かわして返す場面が多くなった。
里穂は、格闘技の世界が“男女で完全に分かれている”ものだと思っていた。
それが常識だし、まして自分から「男子とやらせてください」なんて言えるはずもなかった。
ジムの男子エリアには、筋肉の張った男性たちがサンドバッグを打ち込んでいる。
その音の重さと迫力に、さすがに気圧されることもある。
けれど、ふと視線をそちらにやると、
自分よりも小柄な男性会員が、フォームに苦戦しながらシャドーを繰り返していた。
(……この人たちと、本当にそこまで違うのかな)
実際、ウェイトもスピードも、平均的な男性を超えてきているのは分かっていた。
だけど、それでも“男子との練習”という壁は高かった。
自分がそこに混じれば、何を思われるか分からない。
そしてなにより――視線の問題があった。
トレーニングウェア越しでも目立つようになってきた体のライン。
胸元への露骨な視線や、小声の陰口も、聞こえてしまうことがあった。
「あんなん近くで練習されたら集中できねーよ」
「揺れてんの見えんだろ、あれ……」
聞いてしまった瞬間、喉の奥が詰まった。
“見せている”つもりなんて、まったくなかった。
でも、こういう空気がある以上、自分が男子の方に踏み込むのは――無理だ。
そう思いかけていたその時だった。
「森川さん、女子では物足りなそうだから、男子ともスパーさせてあげたら?」
突然、背後から聞こえてきた声に振り返る。
そこに立っていたのは、田中遥輝。
このジムのエース。70kg級の日本王者であり、世界挑戦も噂される男。
誰よりも努力を重ね、誰よりもストイックに鍛え上げられた身体が、静かに説得力を放っていた。
(……田中さん、私のこと、見ててくれたんだ)
それが、里穂の正直な感想だった。
驚きと、嬉しさと、少しの誇らしさ。
そして、心の奥にぽっと火が灯るような感覚。
田中の一言で、空気が変わった。
スタッフたちは驚きながらも協議し、その日のうちに方針が決まった。
里穂は、男子選手との合同練習への参加を許可されたのだ。
不安はあった。
怖くなかったわけじゃない。
でも、それ以上に――
「……私は、自分の“今”がどこまで通用するのか、知りたい」
そんな気持ちが勝った。
成長の先に何があるのか。
強くなった自分に、どこまでの可能性があるのか。
そしてなにより――
田中が開いてくれたこの“扉”を、自分の足でくぐってみたかった。