いってらっしゃい
僕のつまらない話は、河内近衛さんには届いていないようだった。表情も変わらなければ、瞳孔も開いたままだった。
それからどれぐらいたっただろうか。河内近衛さんの目は赤く染まっていた。
外では雨が降っていた。バチバチと壁をたたく音が響く。嵐の前の静けさを抜かしたかのような激しい雨だ。
「だって……」
小さな声だった。
「だってしょうがないじゃん」
今までが満開の桜なら、枯れた桜のような声だった。暗くて、どんよりとしていた、不思議と耳に残る。
表情も違っていた。塗りつぶしたキャンバスには、新しい絵が描かれている。瞳孔も口も全てが開いていて、頬も不自然な上がり方をしていた。品なんて言葉が似合わない顔立ちだった。
今までとは何もかもが違う。それなのに似合っていた。最初からそうであったかのように馴染んでいるのだ。
「あの人がいけないんだから」
髪をかきむしった。それだけだった。それだけで彼女が河内近衛であると疑う余地が消された。
「あの人は普通じゃいけないの。自然に逆らっていなきゃいけない人なの。誰よりも聡明で、誰よりも美しくて、誰よりも品があって。それが河内愛理なの」
子供がおもちゃを自慢しているようだった。
「それなのに! それなのに!」
地団太を踏み、髪をかきむしった。河内愛理を演じていた時の片りんはなかった。
「あの人は裏切った。私を裏切ったんだ!」
「……それが喧嘩の原因?」
河内近衛さん自身が言っていたことだ。美術室で言い合いになったと。
「そうだよ。凡人みたいに普通に恋なんかして、普通に恋人の話をしていた。だから私は言ってやったんだよ。『なんか普通の人みたいだね』って。そしたら愛理は『私は初めから普通の人だよ』って答えたんだ」
「だから殺したと?」
「殺した? そんなわけないじゃん。そんな理由で殺さないよ」
河内近衛さんは鼻で笑った。
「私が愛理を殺したのはね」
少しの間があった。そして河内近衛さんは不気味に口角を上げた。
「白髪があったからだよ」
「……白髪?」
殺した結びつかない単語に思わず僕は訊き返した。
「喧嘩した後に、私たちはすぐに仲直りした」
河内近衛さんは、その時の情景を思い浮かべるように語る。
「そして愛理はいつものように絵を描き始め、私はいつものようにその後ろ姿を眺めていた。でも、そんな風に眺めているときに見つけちゃったんだ。愛理の首筋に一本の白髪が生えているのを。初めはなんとも思わなかった。白髪なんて母親で見慣れていたから。だけど、白髪が愛理と一緒に揺れるたびに、私の中で今までにない落胆と激情が芽生えていった。自分の髪をむしりたいほどの痒みと熱が私を蝕んだ。気づいたら殺してた。この手で愛理を刺していた」
淡々とした語り口調だった。感情が微塵も感じられない。だからこそ余計に恐ろしく、臨場感があった。僕もその場で見ているような気味の悪さを覚えてしまう。
「嘘だと思うでしょ? でも、本当。だって許せなかったんだもん。仕方ないでしょ。愛理はね、完璧じゃないといけないんだから。白髪なんてあっちゃいけないの」
「……嫌いになったから殺したんじゃないんだね」
偶像崇拝に近いのだろう。いや、アイドルオタクに近いのかもしれない。自分の思い描く完璧なアイドルでなければ許せないのだ。そしてその完璧なアイドルは、恋愛もしなければトイレもしない。人間ではなくアイドルという個体としてしか見ていないのだ。
「嫌いになんてなってないよ。むしろ好きだよ。私はね、愛理の目が好きだったの。あの独特な黒い虹彩を放つ目が本当に好きだった。特に絵を描いているときが好きだった。私はいつもその目をなめてみたい衝動に駆られていた。……ああ、言っておくけど、私にそういった趣向はないから。私も中学の時は普通の恋愛をしていた。だけど、愛理といるときの高揚感には叶わなかった。愛理といるときだけ私も特別になれた気がした。こんな時間を永遠に切り取れないかった何度も思ったよ」
「だとしたら、破綻しているよ。君は好きな人間を殺したんだから。自分でその永遠を短くしたんだからね……それとも君は記憶の中が永遠だとかお花畑なことを思っているわけじゃないよね。記憶なんてのは、曖昧なんだよ。永遠なんかじゃない。ずっと覚えているって自分をだましているだけで、その記憶は虚像なんだよ」
「ははっ」
彼女は笑った。心底愉快そうに。そして……
「愛理が死んだ? 何言ってるの? いるじゃん、ここに」
彼女は自分自身を指さした。
「河内愛理は私自身なのですから」
日本語なのに異国の言葉を聞いているような気分だった。
「意味が分からないよね? 私も同じだった。でも、愛理がそう言ってたんだよ」
彼女は記憶ではなく思い出を語る様に回想を始めた。
「学校を抜け出し、夜の森を散歩する。それが私と愛理の日課だった。特に意味も意義もない散歩。月が見える日も見えない日も、私たちは散歩をした。たぶん私たちはそうやって夜の世界に馴染もうとしていたんだと思う。あの日は……そうね。今日と同じぐらいに月が綺麗な日だった。所謂満月ってやつね。満月と言えば、知ってる? 満月の日は殺人が増えるんだって。しかも猟奇的な殺人が増える。一説によると、月は私たちの精神を変容させる不思議な力があるのだとか。尤も愛理はそれを馬鹿らしいと笑っていたけど。愛理は満月の日の私たちこそが、本当の姿だと言っていた。つまり不思議な力ではなく、私たちにかかっているからだという不純物を薄めてくれるだけの光。本来の私たちに肉体が耐えられないの。そして愛理はこう言っていた。『満月の日に死ねば生まれ変わることができる』と。私は初め理解できなかった。でも、愛理の話を聞いているうちに納得できたのよ。だって私たちの本体は魂なのだから。肉体が死ねば、魂だけになる。そして魂は自由になる。生まれ変わる準備が整う。しかしこれではまだ不十分。この世界は肉体がなければ生きていると言えない。肉体を用意する必要がある。だからこそ満月の日でなければならない。満月の日ならば、私たちの肉体の強度は弱くなるのだから。そして器も重要。器は、似て非なるものでなければならない。完全に同じでは、生まれ変われないのだから。愛理は私こそが河内愛理であり河内愛理こそが河内近衛だと言っていた。確かにその通りだった。私と愛理は全然似ていない。何もかもが違う。でも、不思議と合っていた。それは波長が合っていたんだと思う。そしてそれこそが生まれ変わりに必要なんだって」
聞いているだけで頭がおかしくなりそうな話だった。聞き流そうにも、耳から入った声が外に出てくれない。永遠と頭の中を回っている。
「だから私自身が河内愛理。私たちは永遠」
「……同一の時間軸に同一の人間は存在できないよ」
僕は僕らしくない理を説いた。
「死に時間なんて関係ない。例え同一の時間に生きていようと、彼女は私の前世だし、来世。逆もまたしかり。私は愛理の前世で、来世」
「そんなのただの戯言だよ。誰かに変われる人間なんていない。なぜなら人は客観視によって存在できるんだから。どんな姿をしているかが重要で、そしてそれが他人にどう見られどう認識され、どう名付けられることこそが重要なんだよ。現に僕は君を河内近衛だと認識している。君がどんなに河内愛理を演じようとも名乗ろうとも、河内近衛としてしか、今この時間には存在できないんだよ」
「ですが、あなたは一時とはいえ、私を河内愛理と認識しました」
「それは僕が河内愛理さんを知らないからだよ。それとも君は、河内近衛さんと河内愛理さんを知らない人間だけが住む理想郷にでも引っ越すつもりなの? だとしても無駄だよ。例えネットがない場所に行こうと君は、河内愛理さんにはならない。だって河内愛理さんは、お嬢様なんだからね。何があってもそんな環境では生活をしない、生活をした瞬間に、君は河内近衛になるんだよ」
「それなら……河内近衛と河内愛理を知る人物を全員殺せばいい。試しにあなたを殺ししてみようか?」
「それはやめておいたほうがいいよ」
「あなたでも、死ぬのは怖いの?」
「怖いよ。ものすごく怖いね。僕はまだ死にたくない。でも、これは君のためだよ。君のために、君は殺人を重ねるべきではないと言っているんだよ」
僕が強がりで言っていると思ったのだろう。彼女は鼻で笑った。
「冗談よ。あなたを殺すつもりもないよ。その必要がないのだから」
彼女は椅子へ腰かけ、足をプラプラさせる。そしてなにかを悟ったように天井へ視線を向けた。
「さあ、警察を呼んで」
「警察? どうして?」
「どうしてって。……私を捕まえるためよ」
「なんで君を捕まえる必要があるんだよ」
「私が殺人を犯したからに決まってるでしょ」
「君は自分が殺人犯である認識があるんだね」
「馬鹿にしているの? あるに決まっているじゃない。後悔はしていないけど」
「馬鹿にしてないよ。純粋に驚いただけ。でも、それならよかった。いや、君からしたらよくないのかもしれないけど」
彼女は不思議そうに首をかしげる。僕は彼女の疑問を無視して、話を続ける。
「安心していいよ。警察を呼ぶつもりはないから。確かに警察は君を捕まえる理由があるかもしれないよ。でも、僕には君を捕まえる理由がない」
「……殺人犯を見逃すの?」
「見逃すんじゃないよ。裁くつもりがないだけ」
「それは見逃すのと同義よ」
「全然違うよ。僕らに個人で殺人を裁く権利はないんだからね。それに見て見ぬふりを罪じゃないよ。人間に許された一番の権利だ」
「……それならあなたは何がしたかったの? なぜ事件を解決したの?」
「事件は解決していないよ。君は捕まっていないんだから」
「あなたが謎を解いたせいで、私にかかっていた魔法は一時解かれた。何が目的なの? なぜ私を匿ったりしたの?」
「ただの自己満足だよ。それとも目的がないといけないの? そもそも目的を持っている人間のほうがまれだし、そういった人間は主人公みたいに日の光を浴びて生きているんだよ。生きている内に目的は生まれるものだろ。それと同じだよ。今回の僕に目的なんてなかった。ただなんとなくで君を匿ったし、なんとなくで事件に興味を持ったし、なんとなくで謎を解いたそれだけ。そこに意義や意味を求めるほうが無意味だよ」
目的なんて、死んでからもわからないんだから。考えるだけ無駄だ。
「ってことだから、この後は君の好きにすればいいよ。理想郷を求めるなり、孤独になるなり、河内愛理になるなり、好きにすればいい。僕はその邪魔もしないし、手助けもしないから」
彼女は疑心暗鬼だった。僕という嘘つきをどこか図りかねているのだろう。
僕は行動で示そうと、立ち上がり出口へ向かった。ドアを開き、美術室の外へ足を踏み出そうとした瞬間に足を止めた。そして振り返った。
「お節介ついでに一つだけ伝えておこうかな」
彼女は眉をひそめた。
「これはあくまで僕の私見なんだけど」
そう前置きをする。
「君がこれからの人生において、河内愛理として扱われることはないよ」
「しつこい。あなたの意見なんて聞いていない」
「まあ、聞いてよ。匿ってあげたせめてもの恩返しとしてさ」
彼女は不満そうだったが、聞く姿勢はとってくれた。
「もう一度言うけど、君がこれからの人生において河内愛理として扱われることはない。だって君はこれから――――として扱われるんだからね。例え何かを成し遂げようとも、誰かを救おうとも、歴史的発見をしようとも、君は――として扱われる。そしてそれは河内近衛も同じだ。君は河内近衛としても扱われなくなる」
僕は一拍おいてから話を続けた。
「さあ、果たしてそんな人間が河内愛理になれるだろうかね。断言するよ。なれない。絶対になれないよ。だって君は河内近衛ですらないのだからね。君が河内近衛でなければ、生まれ変わりなんてないし、河内愛理は永遠でなくなる。つまり死んだことになるんだ」
僕の話に対して彼女は何も言わなかった。話している間も、そして今も瞬き一つすらしていない。それが驚きのためなのか、自戒の念によるものなのか、はたまたくだらないという意思表示なのか、僕にはわからなかった。ただそれでも今日初めて彼女が見せる負の感情だということだけはわかった。
僕は足を美術室の外へ踏み出した。だが、右足だけ外に出して再び振り返った。
「ああ、もう一つだけ」
言い忘れていたことを思い出した。
「君は、美術室で声を聞いたって言ってたよね。自分と河内愛理さん以外の泣いているような声を」
彼女は声を出さなかった。代わりにゆっくりと頷いた。
「あの声の正体だけど」
僕は何でもないように言った。
「あれは――だよ」
「え?」
「そして君が――。答えはそれだけだよ」
僕はあえて多くを語らなかった。いや、語る必要はないのだ。彼女が一番それを知っているのだから。
「もしかしたら耳をすませば聞こえてくるかもね」
僕らしくないオシャレなセリフで去ろうとしたが、やっぱり似合わないと思い再び足を止める。
「いってらつしゃい」
僕はそう言って、今度こそ美術室を去った。