【高校一年生】
図書館棟から出て、二人で校門へ向かう。
隣の愛内が持っているスマホからたくさんの通知が来ていることがチラリと見えてしまい、僕は見ていないフリをするために自分のカバンから水筒を取り出した。
「楽しかったー」
愛内はスマホを閉じ、大きく伸びをしながら、くわーっと鳥みたいな声を漏らした。色気の欠片も無い。
それを見ながら、お茶をごくりと飲む。
「祐くんって、彼女いるの?」
僕は飲んでいたお茶をぶっと吹き出しそうになったが必死に耐えて飲み込み、すぐに咳き込んだ。胸の辺りをどんと拳で殴りつけられたような衝撃が走る。
冷静で、動じていないフリを必死に装いながら愛内を見る。
「いるように見える?」
「見えない」
「じゃあ聞かないでよ」
愛内はアハハと笑いながらスキップをし校門を抜けていく。
わざわざついていく理由なんてないのに、置いて行かれないように早足で愛内の隣まで駆け寄る。
「好きな子はいないの? 気になってる子とか」
横に立った僕に対し、愛内が問いかける。
「いないよ」
「彼女ほしいなぁとかは思わないの?」
「思わない」
少し強がりを混ぜた本音を言った。愛内は、そうなんだと特に驚く様子もない力のない返事をした。
よく男子同士の会話で、彼女がほしい、作りたい、と言った言葉を聞く。でも僕はそれに共感ができない。
僕は不特定の女の子を求めていない。
誰でもいいから、彼女がほしいなんて感情になったことはない。
周りの男子たちが言っている言葉は、食べられたら何でもいい、という言葉と同じなのではないだろうかと感じている。
それは人を『好き』というには当てはまらないのではないだろうか。
恋愛をしたことが無い僕だが、こうした自論を持っている。
僕にとって特別な子がいたなら、きっと好きになる。きっとその子を求める。
僕は、恋愛をする自分を求めているのでは無く、自分が好きになれる子を求めている。そんな女の子と出会えて、恋をする自分を待っている。
愛内はどうなんだ、とは聞けなかった。恋愛の話を苦笑いして聞いているのは、過去に辛い失恋をしたからなのかもしれない。もしかしたら、同性が好きなのかもしれない。実らない恋をしているからかもしれない。
妄想が得意な僕の頭の中で、たくさんの空想のストーリーが生まれる。
呑気に鼻歌を歌いながら、前を進んでいく愛内は、海に向かっていた。
そっちは行き止まりだ。海しかない。回り道しないと僕らの住む団地へは帰れないはずだ。
「どこ行くの」
「知らないの? こっちの方が早く帰れるんだよ」
愛内は自信満々に海の方へと歩いて行く。僕の方がこの町に住んでいる歴は長いんだぞと、疑いながら愛内の後ろをついて行った。
団地の目の前には、小さな漁港があって船が十隻ほど置かれている。それが動いているのは、一ヶ月に数回しか見たことがないけれど、関係者以外立ち入れないような空間だ。僕らみたいな制服の学生が立ち入っていい場所ではないはずだ。
コンクリートの低い崖を超えて、先へと進んでいく。今日も変わらず海の上にはたくさんの船があった。
どこに行こうとしているのかと、ぼっと愛内の揺れるポニーテールを見ていると愛内は急に、小さなヨットのような船の上をズカズカと歩きだした。
僕は思わず声を張った。
「何してるの。怒られるよ」
「大丈夫だよ。私、今日の朝、ここの人と仲良くなったから」
愛内が、早く早くと僕を手招く。
「は?」
「朝遅れそうで、ここ通れるのかなって降りてみたらおじさんたちがいて、この辺の、端っこにある船はもうほとんど使わないから通っていいよって」
嘘みたいな話に、僕は思わず鼻から笑いが漏れた。
「なにそれ」
目の前でぴょんぴょんと進んでいく愛内を見たら、なぜか笑いが止まらなくなった。
今日の朝、愛内はここを飛び越えて学校に来たのか。
というか、こんなところからよく行こうと思ったな。僕も橋さえあれば簡単に向こう側に行けるのに、と思ったことはあるけれども、実際に渡ろうとしたことは一度も無い。
久しぶりに、ツボに入ってしまって引きつるような笑いが止まらない。僕の喉からキュッキュッと変な音が鳴る。
きっとその場に降りたのが愛内じゃなくて僕だったら、冷たい目で見られていたんだろうなと思うと、余計に笑えてきた。
笑いながら、愛内の背を追うようにぴょんぴょんと船の上を飛んで進む。飛ぶ度に、自分の足裏が海に船が沈む。公園の吊り橋の遊具を渡っているときの足裏の浮遊感に似ている。
懐かしい感覚が楽しくて、さっきまでの引き笑いとは変わり、ふっと軽い笑いが鼻から漏れた。
「祐くんって笑うんだね」
船を飛び越え向こう側につくと、崖の手前で愛内が、なんとも物珍しいものを見る様子で僕を見ていた。
失礼すぎやしないかと、また笑えてきた。今の僕は、何に対しても面白いところを探してしまう機械みたいになっていた。
「僕のこと、何だと思ってるの」
立ち止まってぽかんとしている愛内に言いながら、愛内より先に階段を上って団地へと向かう。
後ろからついてくる愛内と団地のエレベーターに乗り込む。
あっけなく団地まで帰れてしまったことに、また笑いがこみあげてきた。
「いつまで笑ってるの!」
愛内がずっと笑っている僕に対して、プンスカとかわいらしい擬音がつきそうな様子で怒っている。
「いや、あんなところから行こうと思うなんて……。なんというかすごいね」
皮肉めいた言い方をした。
「もう通らせてあげないよ?」
「ごめんごめん」
笑いまじりに謝る。
少し笑いが残ったまま、また明日と言い残し、エレベーターを降りた。カタンと締まる音で振り向くと、ガラス越しに愛内が手を振っていたので振り返した。
家に向かって歩いている途中で、自分の足音がいつもより大きいことに気づき、足に意識を向けてひっそりと歩いた。
扉を開け家に入る。
「ただいま」
家に入ってその言葉を言った瞬間、自分がすっかり時間を忘れていたことに気がついた。気持ち薄暗いような家の中を歩き、洗面所で手を洗っていると、鏡に母さんが映った。まるでホラーのような展開に、思わずヒッと情けない声が漏れた。
「びっくりさせないでよ」
「遅かったね」
最近こればかりだ。
「勉強してたんだよ」
タオルで手を拭きながら、ぶっきらぼうに答えた。
「祐くん勉強得意じゃない」
「高校に入って難しくなったんだよ」
母さんは不満そうな目で僕を見たけれど、結局それ以上文句を言わず夕食を出す準備へ行った。
きっと、僕が学校でちゃんとやれているか心配してくれているのだろう。ただ、心配性が行き過ぎていて、最近は少し面倒になってきている。優しさも度を越えると、やっかいになってくる。
小さくため息をつきながらリビングに戻ると、テーブルの上にハンバーグが置かれていた。ハンバーグからはもくもくと湯気が立っている。
「いただきます」
椅子に座り、手を合わせる。目の前に座る母さんは、つけっぱなしのテレビを見ながら、ぼんやりとうつろな目をしていた。まるで濁った海みたいに、ゆらゆらしていて集中してテレビを見ている様子ではなかった。
白米の湯気を口の中で感じながら、テレビに映るプロ野球中継を見る。画面の奥の太った外国人が打った球は、コロコロとゆっくり土の上を転がっていく。諦めるようにその人は走らない。
「下手くそだなー」
母さんはぼそりとそう呟いてから、いただきますも言わずに自らが作ったハンバーグを口に入れた。
愛内なら、目を伏せていただきますと手を合わせるだろう。
凡打に終わってしまったテレビの中の野球選手に対して、「頑張れー」と笑いかけるだろう。少なくとも、母さんみたいな否定的なことは言わないだろう。
愛内のことを考えていると、不思議と船のことを思い出して笑いそうになった。あそこから学校に行こうと考える人がいるとは。
笑いをこらえながら、コップに注がれたお茶をごくりと飲み、白米によって温まった口内を一度冷やす。それからまた、白米の蒸気を口内で感じる。とてつもなく気持ち良い。この感覚が好きで、この行為を毎日行っている。毎日の小さな至福だ。
時刻が十九時になり、テレビの中では中途半端なところでいきなりアナウンサーが野球中継の終わりを告げた。そして、いつものバラエティー番組へと切り替わる。それが面白くて、僕はケラケラと笑っていた。母さんのさっきの不機嫌さも、気が付けば消えていて二人してテレビを見て笑っていた。