【高校一年生】
『あの時』のことはよく今でも明確に覚えている。
~~~~~~
高校に入学する直前の三月末、小説のネタが何も浮かばなかった僕は、気分転換に海沿いを散歩していた。
僕の住む団地の周りには、入り江がある。陸に海が浸食してきた地形の周りに団地があり、海を挟んだ向こう側に高校がある。家から学校は見えるのに、学校に行くのに二十分もかかる。距離は短いのに、道のりは長い。
そんな団地の近くのコンクリートの階段を登って、僕はよく海を見に行っている。ゆらゆらしていて、どこか知らないところに繋がっている海を見ると、頭を洗い流したかのように空っぽになり、ぱっと小説のネタが浮かぶことがあるからだ。
その日も僕は、コンクリートの崖の向こうを覗いた。夕食前で、赤い夕日が出てきていた時間帯だったのを覚えている。
その日、そこには小さな女の子が、裸足で立っていた。ゆらゆらと、白いワンピースを着ていて亡霊のように揺れていた。
その女の子はあと一歩で、海に飛び込めるところにいて、僕は反射的にまずいと思った。海の周りを歩いているからまずいと思ったのではない。その女の子のゆらゆらとした不安定な様子を見て、怖いと思ったのだ。
気付けば僕は走っていた。コンクリートの階段を駆け上り、女の子のもとへ一目散に走った。そして声をかけた。
「何してるの……?」
振り向いた女の子は、ぱっちりとした二重に、大福のような白肌をしていた。スカートから覗く、真っ白な足が今にも消えそうな氷砂糖みたいに頼りなく見えた。
彼女は笑うことも泣くこともせず、ただ僕をじっと見た。その目には光が無かった。そして何も考える間もなく即答した。
「死にたいんです」
僕よりも二歳ほど歳下に見える彼女は、僕に敬語で話してきた。その声には覇気が無かった。
夕焼けで海面は真っ赤に染まっていて、それが、今にも泣き出しそうに充血して揺れる彼女の目と似ていたのをよく覚えている。
僕は戸惑った。死というものを、初めて身近に感じさせられたからかもしれない。
「あぁ、そう」
だから言葉に詰まって、冷たい反応で返してしまった。でもそれが、彼女にとっては良かったみたいだった。
「アハハ」
彼女は冷たい僕に興味を示したのか、甲高い声で笑い、歩み寄ってきた。
「何笑ってるの」
「いや、面白いですね」
女の子はそう言い、僕の足下に置いてあった小さなローファーを取り、その中に丸めて入れいていた小さな靴下を取り出して履き出した。
「生きていれば良いことあるよ、とでも言うのかと思いました」
靴下を履いている彼女はどこか薄ら笑いを浮かべていた。片足立ちで靴下を履いていているので、今にもずっこけて海に落ちてしまいそうで見ていて心配になった。
「そんなの、本当に良いことがあるか、僕にわからないし。それに、もしこの先良いことが無かったとして、僕に責任取って、って言われても困るし」
「そんなこと言いませんよ」
その女の子は枯れた笑いを漏らした。さっきの甲高い笑い声とは打って変わって、鼻だけで笑うような失笑だった。
色々な笑い方をする子だなと思った。
「今日は帰ります」
そして、その女の子は僕がやってきた階段の方へと向かって行った。
”今日は”ということは、またここに来るのだろうか。不安な気持ちが膨らむ。
「大丈夫なの?」
僕は咄嗟に声をかけた。
「何がですか?」
自分を安心させたいだけの僕の問に対し、女の子は強いまっすぐな視線で僕を見てきた。華奢でか細い女の子のその視線に、僕はひるんでそれ以上言葉が出なかった。
怒っているでもない、泣いているでもない、純粋に何がと問うてくる彼女の目を、僕は怖く感じた。何が、という問に、答えは出せなかった。
それから、靴下を履き終えた彼女は小さなローファーを履いて、ふらふらと歩いて階段を登って消えていった。
二度と会いたくないなと思った。
~~~~~~
「あの日の人だよね……?」
一階と二階の間の踊り場で愛内にそう問われ、僕はゆっくり頷いた。
すると愛内は、自らのおでこを押さえるようにしながら頭を抱えだした。
「同じ学年の人とは思ってなかった……。同じクラスとか最悪、私より二歳くらい上かと思ってた」
「僕は愛内のこと、二歳下かと思ってたよ」
僕がそう言うと彼女は怒ったように、桜庭くんが老けてるんでしょと言い出した。
愛内のカバンからブーッと音が鳴る。彼女はスマホを取り出して画面を確認する。そしてそそくさと立ち上がった。
「もう行かないと。美奈ちゃんが待ってるんだった」
愛内はそう言って、小走りで階段を下りていく。美奈ちゃんなんて子、クラスにはいないはずだ。
もう違うクラスの人とも仲良くなったのだろうか。
愛内は、階段を下りた先でくるりと振り向いた。
「これから、よろしくね。桜庭くん」
愛内はにっと歯を出し、えくぼを作った。
海で見た笑顔ではなく、無理やり作られたぎこちない笑い方だった。まるで笑いという命令実行を受けた機械みたいに見えた。
無理に愛想笑いするから疲れるんじゃないの、と思ったけれど、そこまで踏み込んだ関係にはなりたくなかったからそれは口にせず、小さく頷いた。
愛内が外へ出たのを見てから、僕は二階へと上がった。