【高校一年生】
愛内にとって、『あの時』の出来事は忘れてほしいことなのだろう。そりゃそうだ。僕は彼女の笑顔の裏に隠している部分を知っているのだから。
教壇に立つ岡本先生が、名簿で教卓を叩きトントンと音を鳴らす。
「明日は委員会決めと教科書配るからなー」
岡本先生の話も聞かず、僕は机の下で軽く貧乏ゆすりをしていた。
今日の放課後、図書室へ行く予定にしている。
僕たちの高校の図書室は大きいことで有名だ。図書室だけが去年新設されて別の棟にある。三階建てで、自由に使える自習室、パソコンルームも完備してある。中学校の教室サイズの図書室に比べて、大学図書館並の大きさの図書室がある高校は珍しいはずだ。
そこで僕は、小説を執筆したい。環境も変われば、小説が書けるかもしれない。
そんな取るに足らない期待を膨らます。
「じゃあ明日も元気に。さようなら」
岡本先生の号令で一気に周りがざわめき出す。僕は誰にも別れを告げること無く、教室を飛び出した。
図書室へ行くには、一度玄関で外靴に履き替えなければならない。
階段をするすると降りて、靴箱に向かう。そして、まだ汚れていない真っ白で綺麗な上履きを靴箱に入れて、紺色の運動靴に履き替えた。
正門から一番遠くにある三階建ての建物が、図書館棟だ。
地面に落ちている桜の花びらを踏みつけながら、帰る人とは逆向きに足を進めた。
高校生になった実感はあまりない。中学校の三年間というプレイデータがリセットされ、再び同じ三年間が始まるような、そんな感じだ。学校の教室も、座る椅子も、先生の様子も、周りにいる人たちも、僕自身さえも、あまり何も変わっていない。変わったことといえば、図書室という設備ぐらいだろう。
早足で歩いて少し息が上がる。目の前には大きな建物。辿り着いた図書館棟は、異空間みたいだった。薄汚い教室のある校舎とは裏腹に、真っ白で綺麗だった。
まるで美術館みたいだ。
僕はドアをゆっくりと開けて、中へ入った。
入った瞬間、空気とともに僕の好きな紙の匂いが鼻をかすめた。
今は電子書籍が流通しているが、僕は本という存在が好きだ。電子書籍はページをめくる楽しさがなく、本を読んでいる実感が持てない。ページをめくるからこその高揚が、書籍にはある。
何より、書籍は物理的に存在するということが嬉しい。本の中に存在する一つの物語を、文字通りに抱きしめることが出来る。物語を大切にしている感覚を、紙媒体の本の方が実感出来るのだ。
たくさんの本を前に、まるでラジオ体操のように、何度も深呼吸を繰り返す。これだけで幸せだ。
図書室が予想よりすごいものだったので、胸にとてつもない興奮は走った。ショッピングモールよりも、ゲームセンターよりも、図書室が一番だ。
中に人の気配はない。昼までの授業だから、みんなそそくさと帰っているのだろう。人が少ない方が、周りを気にせずいられてありがたい。
読みたい本があるわけではなかったので、あたりを見渡しながら探索することにした。
これからここで、どんな小説を書こうか。
フィクションにしてしまえば、言えなかったことが言えたり、出来なかったことを経験できたりする。そんな、僕が僕自身の口で言えずにいることを、文字を通してだと言葉に出来る。僕が小説を書くことに理由をつけるとしたら、これが一つの理由だろう。
中学二年の冬から執筆を始めた。これから二作品目を作るつもりだ。受験期を終えて書き上げた一作目は、今、新人賞に応募している。一次審査が出るのは今年の六月。
初めて書いた十五万字にもおよぶ作品は、審査に通らなかったとしても、誰かに見てもらえたという事実だけで満足している。まぁ、実際はあわよくば賞に乗らないかななんて考えているけれど。
一階の一番奥まで行くと、透明で大きな壁で覆われたコンピュータールームが現れた。そこには、三十台ほど大きなパソコンが並んでいた。僕が家で使っているノートパソコンよりも遥かに大きいスクリーンのあるパソコン。まるで、テレビみたいな大きさだ。
今にも踊り出しそうな気持ちになる。
こんなところで小説が書けるなんて、大作が出来るかもしれない。
スキップするかのような足取りで二階へ上がろうと、入り口近くの階段へと向かった。二階と三階には、自習スペースがあるらしい。いったいどのような設備なのだろうか。
階段をカツカツと軽快に上っている途中、ガチャリと階段近くのドアが開いた。
誰かが入ってきた。
反射的に隠れる。僕は、一階と二階の狭間から顔を覗かせた。
あっ。
入ってきたのはクラスメイトだった。
愛内美波だ。
彼女は、入ってきて周りを見渡しては、僕がさっきしたのと同じように大きく深呼吸をし始めた。息を吸い込んだ瞬間に、彼女の目がぱっと明るくなる。キラキラしている。子供みたいにキラキラしていて、教室で見るよりも、彼女は何倍も幼く見えた。
まるで先生に挨拶をするかのように。まるで食事の前に手を合わせるかのように。愛内は当たり前のように、深呼吸を続けた。
僕と同じことをして、喜んでいる。
そのことに、心が動いていた。心が不規則な動きをしたのを、僕は実感した。
彼女は本が好きなのだろうか。それとも単に本の匂いが好きなのだろうか。
彼女の様子を茫然と見ながら、足下を見ずに階段を上ろうと足を上げる。
「うわっ」
しかし思っていたより階段の段差が高くて躓いてしまった。両手を地面につき、ぺたんという大きな音がそこら中に響き渡る。
最悪だ。
バタバタと足音が下から近づいてくる。僕は急いで立ち上がろうと手すりに手を伸ばした。しかし、逃げる前に見つかってしまった。
「待ってよ」
逃げようとする僕の手首を、愛内にがっちり掴まれる。愛内はぎこちなく笑いながら僕を見た。
あぁ。今日何度もされた顔だ
愛内の目から、彼女の言いたいことがわかった。
言わないでね。
そう言いたいのだろう。
それに気づいた僕は、彼女が何かを言うより先に言葉を発した。
「『あの時』のことなら、言わないよ」
僕がそう言うと、彼女はあっさり手を緩めた。