第5章 千人の人間を殺すでしょう
1
源永さんを死なせはしない。
呪いに呑ませはしない。
そのためなら巫女にだってなりましょう。
会うたびに記憶を取り戻してほしいと言われることに応えられない自分の不甲斐なさに絶望したのか、総裁はわたくしに申し入れをしてきた。
なんとかならないかと。
なんともならないのだけれど。
総裁――ガルツを連れ立って実敦さんの支部に行った。
ガルツと実敦さんを一対一で会わせるのと、源永さんの現状を告げるため。
事前にもう少し情報を入れておけばよかった。
ガルツは過去の人格と比べても尚純朴に、真っ白になってしまった。
見たことや言われたことを相手の善意も悪意も関係なくそのまま受け取ってしまう。
売り言葉に買い言葉で、短絡的な雅鵡良はガルツに手を上げた。
総裁に怪我をさせたことはわたくしの不注意の致すところ。
このタイミングでまさか雅鵡良が来るだなんて。
実敦さんを保護していたはずの事務員も加担していたとなるとわたくしが介入しないわけにいかない。
源永さんは、実敦さんのことを忘れてしまった。
ガルツ――浅樋律鶴雅が、源永さんを含めたすべてを忘れてしまったのと同じように。
二人は生き残るためにまったく同じことをした。
その点だけなら二人はとてもよく似ている。
本当に、お似合いの二人。
「あの、僕なんかと一緒でよかったんですか」実敦さんの眼が泳いでいる。
12時過ぎ。
空腹を訴えるわたくしの我が儘を叶えるために、支部の近隣のレストランに連れてきてもらった。
トマトとニンニクのいい匂いの立ち込める、落ち着いた雰囲気の店内。
わたくしはパスタ、実敦さんはピッツァを注文した。
「僕なんかなどと仰らないで? わたくしは実敦さんと一緒にお食事がしたかったの」
実敦さんが恥ずかしそうな困ったような表情になった。
「今日は本当にお疲れになったでしょう? せめてゆっくりできる時間をわたくしがサポートします」
わたくしが近くにいる限り何人も実敦さんの静寂を妨げさせない、という意味で言ったのだけど。そうは取ってもらえなかった。
「正直に言いますと、放っておいてもらえたほうが有難いです」実敦さんが言いにくそうに言う。
「ごめんなさいね。お食事くらいは付き合ってもらえる?」
「もう注文しましたし、それくらいは」
食器が接触する音。楽しそうに談笑する声。
実敦さんは本当に居心地が悪そうに座っている。
「込み入った話をしたいのだけど」実敦さんが興味を引きそうな話題で緊張をほぐすしかない。「場所を変えたほうがよろしければ仰ってね。黒のことです」
実敦さんの眼が大きく見開かれた。「どうして」
「わたくしの祖母が、かつて巫女と呼ばれていたの」
実敦さんは頭がいいのでわたくしが先月に話した内容を反芻している。
それでも思い当たらなかったようで。
「どういうことですか?」
いえ、思い至らなかったはずはないので敢えて知らないふりをしてわたくしの出方を見ている。ならば丁寧に説明するまで。
「わたくしの父と源永さんの父が兄弟だとお伝えしましたわね。父たちの母が巫女だったのです。そして、父たちの妹がそれを継いだ。わたくしは巫女の血を引いています」
「祖母が巫女だというのは聞いたことがあります」
「知るのはごく一部です。みだりに話すべきでないのはわかっています。でも、実敦さんは知っていたほうがいいと思って」
「ご存じなんですか?」実敦さんが瞬きもせずに言う。
「何をですか?」
知ったかぶりではない。
本当に知らない。
さねあつさんが何を知っていて、何を知らないのか。
「ええと、その」
料理が運ばれてきたのでそこで中断になった。
実敦さんは無言で口に入れる。わたくしは続けても構わなかったけど、実敦さんは一秒でも早く食べ終えてプライベートな空間に移動したそうだった。わたくしが食べ終わるのを、手持ち無沙汰を隠せずにただひたすらに待ってくれていたのが愛らしかった。
源永さんもそう。
行動が遅いわたくしをいつも待っていてくれる。
実敦さんがお手洗いに行っている隙に先に会計を済ませた。中学生に払わせるわけにはいかないし、奢らせてほしかった。
楽しい時間を過ごさせてもらったお礼に。
「ごちそうさまでした。ありがとうございます」
実敦さんは素直に好意に甘えてくれるタイプで嬉しかった。
少しは親戚らしいことをさせて?
「あの、このあとなんですけど」実敦さんが店を出てから改まった様子で言う。
「ええ、支部に入れていただけるのね?」
13時。
事務員を帰らせた事務所はがらんとしていた。誰もいないのでパーテションの席を使う必要はない。
実敦さんが紅茶を入れてもってきてくれた。
「いただきます」
客用に出すお茶を仕入れている店を知っている。あの事務員が揃えているのも知っている。
あの店は、源永さんが事務員に教えたんだから。
「不躾で申し訳ないですが」正面に座った実敦さんが言う。「さきほどの話からすると、母も伯母も」
「それはないのです」
「どうしてですか?」
「わたくしが継ぐからです」
「血を継いでいるのは間違いないんですね?」
「継いでいても、後継者になれるとは限らないということです」
支部はワンサイドミラーになっており、表通りがよく見える。
これなら外敵を一方的に発見して先手を打てる。
「僕は、納家最後の巫女と関わりがありました」実敦さんが静かな口調で言う。「その巫女は3年前、いままで納家が集めた呪いをすべてその身に封じ込めるため、自ら犠牲になりました。その後、巫女は生きてるとも死んでいるとも言い難い状態でいまも呪いを祓い続けています。なので、後継者というのはおかしいんです」
「そうでしたの」
「ですから小張さんがそのようなことをしなくても」
「どうか有珠穂と。大叔母というのはあんまりですから」
「有珠穂さん」
「はい! なんでしょう」
嬉しい。
実敦さんに名前を呼んでもらえた。
「巫女は継ぐ継がないではなくて、先代が亡くなった瞬間に次代に力が引き継がれるらしいので、納家最後の巫女があの状態になった瞬間に有珠穂さんに力が受け継がれていないのなら、後継者たりえません。なので」
「そうなの? 知らなかった」
「はい、安心して下さい」
「安心? どうして?」
「巫女は最後、呪いに呑まれて消えてしまいます。遺体も残らずに」
「時寧さんが亡くなったのは、そのことと関係があるのね?」
「あ、いえ」実敦さんが眼を逸らす。「おばさんは、その」
「言いたくないことなら無理に言わなくていいの。でも実敦さんが知りたいのであれば、わたくしが知っていることであればなんでも」
「後継者の話はどこから聞いたんですか」
さすがは実敦さん。
初手から最高の一手を放ってくる。
「そちらの会長です」
「祖父さんが?」実敦さんが意外そうな、そして納得したような顔になった。「あり得ますね」
「わたくしが継がなくてよいのなら、源永さんへの脅威もなくなりましたね」
源永さんを守れるのなら、それ以上に望むことはない。
温かい紅茶で口内を湿らす。
「時間を取ってもらってありがとうございました。お代わりはいかがですか?」
「まあ、もう一杯いただけるの? ありがとう」
美味しい。
茶葉がいいのは勿論のこと、実敦さんが淹れてくれたから何倍にも増す。
こんなにゆったりした時間は久しぶり。
決して白竜胆会が忙しないわけではない。でもあの場所ではわたくしはわたくしではない。
教祖の娘。二代目マチハ様。
「あの、もう一ついいですか」実敦さんが言う。
わたくしがティーカップを置くまで待っていてくれた。
「母のこと、大切にしてくれてありがとうございます」
ああ、あなたは。
どうしてそんなに優しい。
実敦さんの手を取る。
抱きしめたくなった衝動をそれで抑える。
「ええ、ええ。源永さんはね、わたくしの恩人なの。わたくしがいまここに生きているのは、すべて、源永さんのお陰。源永さんもいまの実敦さんみたいななんでも屋さん?をしていた時期があるの。ほんの短い間だったけど。そのときにね、雷が怖いから助けに来てってお願いしたことがあったの。そうしたら源永さん、そのとき入ってた依頼をすべて断って、わたくしのところに駆けつけてくれたの。どうして?て聞いたら、源永さん、なんて言ったと思う?」
「なんでしょう」実敦さんは困ったように苦笑いした。
「あんたの依頼が最優先だと思ったから、て。大真面目な顔で言うのよ。おかしいでしょう? 雷が怖いから傍にいて、なんてどう考えても最優先とは思えないのに。そうゆう人なの、源永さんは」
「おかしな人ですね」
「でもお陰でわたくしはその夜怖くなかった。雷も大丈夫になった。ぜんぶ源永さんのお陰」
実敦さんは置き場のなさそうな微妙な表情になった。
なぜ自分にそうしてくれなかったのか。羨ましい。そういった感情を誤魔化そうとしているようにも見えた。
「そろそろ戻りますわ。総裁も心配ですので」
「今日はありがとうございました」実敦さんが入り口まで見送ってくれた。
「こちらこそ。あの男のことは気にするなと言っても難しいけれど、極力視界に入れないことです」
「こちらが入れなくとも無理矢理ねじり込んでくるんです」
「そうね。早いこと消えてほしいですわね」
わたくしが巫女になったら、
雅鵡良を真っ先に消すのに。
2
いつだったか、源永さんの父親――KRE会長に呼ばれた。
納家が所有していた山。
会長はその山に住んでいる。
納家のことはそのときに聞いた。
代々女性が呪いを祓う役目をしている。
最後の巫女はすでに亡くなった。
次代の巫女を務めてもらいたい。
「君が継がなければ、源永がやることになる」会長は苦々しい表情で言った。
そんなこと言われたら。
わたくしがやるしかない。
やりかたはわからないけど。
それで源永さんが守られるのであれば。
でも、実敦さんの話からすると最後の巫女はまだ存在している?
誰に聞けば真実がわかる?
きっと実敦さんは会長に真実を確かめに行った。
とするなら。
15時。
帰りに経慶寺に寄った。
急に行って対応してくれるかわからない。けれど他に宛てがなかった。
「構わないよ。ちょうど手が空いている」住職は困惑する受付を制止しながら言った。
宿坊の空き室に案内された。
茶を出してくれた子坊主はわたくしの素性を知らないようだった。正体不明の小娘が訪ねてきたと思っているようだった。去り際までじろじろとわたくしの顔を検分していた。
「失礼をしたね。敢えて言って聞かせないけど構わないね」住職が静かに言う。
室内は冷房をつけたばかりでまだ熱がこもっている。
長方形のちゃぶ台の正面に座った。
「聞きたいのは呪いのことかな?」住職が言う。
「わたくしは、巫女たる資格がありますでしょうか」
「それは私にはわからんね」
「ではどうすれば巫女を継げますでしょうか」
「継ぎたいのかね?」住職は多少面食らったようだった。
「源永さんに継がせるくらいなら、わたくしが」
住職は茶を一口啜ってううんと唸る。
「わたくしでは不足でしょうか」
「確かに君は巫女の血縁ではあるんだが」住職が含みのある言い方をする。「適性があるかどうかは別の話だね。お嬢さん――私の孫だが、存在が消えたいまでも呪いを祓っていると聞く。誰に継がせるのかはお嬢さん次第なんだ。誰に継がせたいかはお嬢さんが選ぶんだ」
「先代に選んでもらえればよろしいのですね?」
「早い話はそうだが。そう単純な話でもないんだよ。なぜそんなに急いているんだね」
早くしないと。
源永さんに被害が及んでしまうのではと。
「モリくん――会長から聞いたんだね?」住職が言う。
「お見通しですのね」
「他に心当たりがないからね。なるほど。何か勘違いしているのかもしれないね。私から言っておこうか?」
「お願いできますでしょうか」
住職が話のわかる人で有難かった。
よかった。
これで源永さんを守れる。
「ただね」去り際に住職が言った。「存在が消えても尚呪いを祓っている孫が、いつ消えるともわからない。そのときどうなるかは」
やはり、
わたくしが継がなければならない。
決意を新たに、白竜胆会の本部に戻った。
17時。
総裁――ガルツの怪我は、首から下に大きな異常はないものの、顔面が痛々しいほどのアザになっていた。
雅鵡良の汚らわしい憎しみが浮き上がっているようで、気分が悪かった。
「業務遂行に問題はありません」ガルツが言う。
「でも皆さんが心配なさるでしょう? それが一番の問題です」
アザ自体をガーゼで覆っても、そこに怪我があることを消せるわけではない。
「ガーゼが取れるまで、極力皆さんの前に顔を出さぬよう」
地下にある総裁の執務室。
地下は、親族とわたくし以外は立ち入り禁止。
「なぜ浅樋さんは、私に暴力をふるったのでしょうか」ガルツが言う。本気で疑問に思っている。
「それを知るということは、源永さんの想いに応えることに他なりませんよ?」
覚悟があるのか。
覚悟ができたのか。
「応えたい気持ちがないわけではないのですが」ガルツが言う。「本当に私でいいのか、その一点のみが不安なのです。こんな私が社長に相応しい人物であるとは到底思えない」
総裁のデスクではなく、客用のソファに座っている。
その隣にわたくしが座る。
「源永さんを信じてくださいな。源永さんが認めた相手ですのよ?」
「でもそれは私ではない。私は」
朝頼ガルツ。
いまは亡き、白竜胆会教祖の養子。
「私は社長の想いに応えていいのか」
もともと自信がなく自己評価の低い男ではあったが、輪をかけて手が付けられなくなってはいまいか。
身投げをした際に自己存在の裏付けをすべて、暗く深い海の底へ置いてきてしまった。
いまさら拾ってきたところでもはや別人格のそれ。元通りには戻らない。
こちらも新たに獲得するしかない。
源永さんに悲しい思いをさせないために、わたくしがガルツを支えなければ。
これまでわたくしがガルツを支えたことで源永さんに悲しい思いをさせていた。でもそれは過去の話。源永さんはそんなことでわたくしを嫌いになったりはしない。
「あなた自身はどう思っていらっしゃるの? 源永さんのこと」
「素敵な方です。私なんかには勿体ないほどに」ガルツが言う。
「もう少しお近づきになってはどうなの? デートなどしてみるだとか」
「誘われてはいます。日程さえ合えば」
「日程は合うものではなく、合わせるものです。ちなみにいつですの?」
第一候補は過ぎていた。
第二候補は今週末。
「行ってきてくださいな。すぐに連絡を」
「この顔を見せるなと先ほど」ガルツが自分の顔を指差す。
「顔のことはわたくしからも伝えます。なのですぐに連絡を。顔に怪我をしたのでもよければ、と」
ガルツにその場でメールの返信をさせた。
他愛のないメールの返信すら溜めていたことが発覚した。
「ガルツさん。お返事には誠意をもつように」
「申し訳ない。心がけます」ガルツが塩らしく言う。
源永さんの返信はすぐに来た。返信を待ち焦がれている姿が眼に浮かんで微笑ましかった。
今週末のデートに喜びを隠し切れていないのが文面から見て取れた。
源永さんが時間と場所を指定してきてくれた。ガルツ相手には手を引いてリードをしたほうがいいことをよくわかっている。
「さて、ここまでの準備で足りないものがありますのよ」
「降参です。考えが及ばない」ガルツが白旗代わりに両手を挙げる。
「お洋服です。早速揃えに行きますよ」
18時。
馴染みのお店だったのでガルツの顔の怪我にはノーコメントだった。事情を汲んでくれる気配りが店の格を裏打ちしている。
衣裳は揃った。
あとは週末を待つだけ。
源永さんから連絡が入っていた。
20時。
すぐに返信した。
約束の時間が待ちきれなくて早めにその場所へ行った。
21時。
「ごめん、急に呼び出して」源永さんがドアを開けてくれた。
「いいえ、源永さんこそ。どうなさったの?」
「入って」
源永さんの家。
この家に引っ越してから呼ばれたことはない。
初めて。
お世辞にも片付いているとは言えないけど、源永さんの忙しさを考えたら仕方がない。
家事や雑事などわたくしが代行して差し上げたい。
「遅くにごめん。どうしても直接言いたいことがあって」源永さんがカフェオレを淹れて持ってきてくれた。
受け取る。
「なあに?」温かい。
「あの、えっと」
「なあに? なんでも仰って?」
「納家のことって知ってる?」源永さんが真剣な眼差しで言う。「そこの巫女ってのを、あんたがやることはないのよ?」
「いいえ、わたくしが継ぎます」
「どうして?」
そんなの。
一つしかない。
「源永さんに消えてほしくないからです」
沈黙。
源永さんが返答に困っているようだったから。
「わたくしに任せて? 源永さんに幸せになってほしいの」
なんで?どうして?
源永さんの口がそうやって動くのを見ていた。
「あんたは、いつも私のことばっかり。あんただって幸せになる権利くらい」
「わたくしの幸せは、源永さんの幸せを見届けることですの。わたくしを助けたいと思うなら、まずはご自身を幸せにしてくださいな」
源永さんがわたくしの手を取った。
ああなんて。
か弱い。
「あんたも一緒に幸せになるの。そうじゃなきゃ許さない」
「そう言って下さるだけで、わたくしは救われますわ。ありがとうございます、源永さん」
「そんなこと言ってないでしょ? あんただって幸せになってよ。白竜胆会にいたくないならウチに来たっていいし、誰か好きな人がいるなら応援するし。どうなの? 我慢したりしてない?」
なんて優しい。
どうして?
どうしてはこちらのほう。
いつだって源永さんは他人ばかり気にする。
「結婚したいとかないの? 相手とかいたりするの?」
「源永さんの結婚を見届けてから考えますわ。だから今週末、楽しみにしておいてね」
「やっぱり、あんただったのね」源永さんがぎゅうと強めにわたくしの手を握る。「ありがと。楽しんでくる」
なにか。
嫌な予感が掠めた。
気のせいだと思いたいし、気のせいってことにしたいけど。
タイミングが最悪だ。
「どうしたの?」源永さんが言う。
「そろそろ帰りますわね。ご用件はお済みですかしら?」
「そう、そっち。そうだった。巫女になんてならなくていいから。わかった?」
「でも誰かがならないといけないのなら」
「いま、伊舞に調べさせてるんだけど、父さんも私も、別に納家の血を引いてないのよ。あんたのとこは?」
「祖母が巫女だったと」
「他に巫女を継げそうな人っていそう?」
「誰かに押し付けるくらいならいっそわたくしが」
「だから、あんたが犠牲になることないって言ってるの。誰か他の」
「源永さん。わたくし以外なら誰が犠牲になってもいいと思っていらっしゃるんでしょう? 気持ちはありがたいのですけれど、それでは解決になりませんわ。わたくしね、巫女になったら真っ先にやりたいことがありますの」
「何?」
「秘密ですわ。でもわたくしたちにとって素晴らしいことであることは間違いありません」
「変なことしないでしょうね?」
「安心して下さい。わたくしが源永さんに嘘をつけますかしら?」
「それもそうね。まあ、あんたが危なくないならそれでいいけど」源永さんが言う。「あ、でもやっぱり巫女になるのよね。なんとかできない? 誰に相談すればいいと思う?」
「現巫女にお願いするとかどうかしら?」
「死んだって聞いたんだけど」
「いいえ、そうでもないみたい」
実敦さんによれば。
いまも生きているとも死んでいるとも付かない状態で呪いを祓い続けている。
「その現巫女がどこにいるかって聞いてんのよ」
宛てがありそうなのは。
実敦さんはご存じだろうとして。
住職か会長か。
「あ、ちょっと待ってなさい」源永さんが電話をかけた。「夜分遅くにすみません。ちょっとよろしいでしょうか」
「今日は本当に来客というか、訪ねてくれる人が多くて嬉しいことだね」住職だろう。
通話をスピーカにした。
「巫女のことです」源永さんが言う。
「だろうね」住職が言う。
「現巫女はどちらにいるんでしょうか」源永さんが訊いた。
「実敦くんに聞いたらどうだろう」
「誰ですか?」源永さんが言う。
「君の息子だよ。何を言っているんだい」
「私に息子はいません。住職こそ何を仰っているのか」
「そこに誰かいるかね?」住職がわたくしに話しかける。
「ええ、わたくしがいます。小張有珠穂です」
「このまま話して大丈夫かね?」
「なんのこと?」源永さんがわたくしの顔を見る。「誰よそれ」
まずい。
「住職、話はここで」
「待ちなさい。父さんも言ってたけど、誰なのそれ」
「わかった。あとは任せたよ」住職が電話を切ってくれた。
電話が切れたときの音が室内に響く。
源永さんが通話ボタンを切った。
「ちゃんと説明して。その実敦ってのは」
「源永さん、つらかったら仰ってね」話すしかない。「あなたには息子がいます。源永さんは忘れてしまって、源永さんの中ではいないことになっている、可哀相な息子です」
「いないっていってるでしょ? だから息子なんて、私には」
源永さんの両手を握った。「いるの。いますのよ。岐蘇実敦。それが源永さんの息子の名前」
「父さんも、住職さんも、あんたも。なんでみんなおんなじこと言うの?」
「それが事実だからですわ」極力穏やかな声で言った。「あの男のことは思い出さなくていいの。でも実敦さんのことはどうか思い出して? 実敦さんは何も悪くないの。ただ源永さんに愛されたくて必死に生きてきたあの子のことを」
源永さんの表情と両手の力の入り具合に注意を傾けていた。
「ツルとの子じゃないの?」しばらくの沈黙ののち、源永さんの口がやっとそれだけ紡ぎ出した。
「調べることもできますけれど」
「なに、それ。え? じゃあ」
「源永さんには実敦さんという息子が」
「イヤ。イヤよ、ツル以外の男との子なんて」
まずい。
わたくしでは上手く伝えられない。
でもここまで開示したなら。
「落ち着いてください。源永さん、大丈夫ですわ。あの男はわたくしが巫女になって真っ先に消します。ですからあの男は存在しません。源永さんには息子がいらっしゃるだけ。あの男はそもそも存在しない。源永さんはガルツと結婚して幸せになるの。それを必ず叶えます。ですから」
震える源永さんを抱き締めた。
あなたは、
必ずわたくしが。
あの夜のご恩を忘れたことはただの一度たりともありません。
「息子って、え、いまいくつなの?」源永さんがしゃくり上げながら言う。
「中学三年になったはずですから、15歳でしょうか」
お誕生日は確かすでに迎えられたはず。
「ウソ。15歳って、そんなに経ってるの?」源永さんが言う。
「お元気に過ごしておいでですよ? KREの鎌倉支部の支部長を務めて」
「写真とかある?」
「いま手元にはありませんけど、直接会って差し上げたら?」
源永さんがわたくしの顔が見える程度の距離を返してくれた。
「一緒に行ってくれる?」
「ええ、もちろん。ええ、ええ。嬉しいですわ。源永さんと一緒に実敦さんに会えるだなんて」
これで。
うまく、
いったの?
ざわざわと耳の後ろが騒がしい。
まだなにか。
なにかを取りこぼしている?
「よろしければいまからでも」
「さすがに遅すぎるでしょ」源永さんが笑った。「明日出直すわ。明日よ。善は急げって言うでしょ? まだ実感ないけど本当に息子がいるのか確かめに行きたいしね」
「源永さん」
ああそんな日が。
そんな日がやって来るだなんて。
実敦さんのことを忘れていたって、思い出してくれなくたって。
もう一度。
何度でも結び直せばいい。
ガルツだってそうするつもり。
だって、
源永さんの魅力に夢中にならないはずないもの。
22時。
「源永さん、そろそろお暇しますわ」
「そうね。ありがとう。来てくれて」源永さんが満面の笑顔で見送ってくれた。
だから、まさか。
あんなことになるなんて。
思いもよらなかった。
こんなことなら源永さんのところに泊まるべきだった。
3
有珠穂が帰ってからお風呂に入った。
夏でも湯船に入りたいので半身浴でゆっくりする。
まだ実感はない。
私に息子がいるなんて。
父さんはそのことを言いたかったんだ。
私以外は全員知ってたんだ。
実敦。
唱えても全然遠い国の言語のよう。
だからきっと父さんが名付けた。
私の代わりに。
私の代わりに育ててくれた。
15歳って言ったらもう自分のことは自分でできる。
鎌倉支部の支部長も務めてるって。
父さんや私がやってたなんでも屋さんのことだろう。
噂も聞こえてきているんだろうか。
役に立っているんだろうか。
明日会いに行ったらわかるだろうか。
でも。
あの男って誰?
思い出しちゃいけない。
そっちはただの深い黒い闇。
決して開けちゃいけない箱。
ちょっとだけ。
ちょっとだけなら。
だって、
私にも知る権利くらい。
駄目だ。
引き返せ。
この先は。
知らない。
知らないほうがずっと怖い。
教えて。
その真っ黒に塗り潰された顔の下は。
ああ、
黒い。
黒と黒と黒が。
溢れてきて。
止まらない。
溺れる。
息ができない。
遠くで。
住職の声がした。
「助けてあげよう。ただし、私の役に立ってもらえるかな」
そこで意識が黒で塗りつぶされたから私がなんて返事したのかはわからない。