2
意識を手放していたのは数分か、数時間か。そんな時間の感覚がなくなる程度には気絶していたようだ。
村で感じるような不快な悪意や敵意のない、感じたこともないはずなのになぜか懐かしささえ覚えるぬくもりを感じて気がついた。そのぬくもりに惹かれるようにゆっくりと目を開くと、うろの入り口近くに作られた簡易的な焚き火がてらてらとその中を照らしていた。
そんな焚き火のそばには自分よりも少しばかり年上に見える中性的で儚げな美しい人がいた。
「あぁ、気が付いたのか。」
鈴を転がすような、透き通った声を持つ彼女はこちらに優しく語りかけた。綺麗だな。と思ったのも束の間、気を失うさらに少し前に自分が何者かに追われていたのを思い出した。
「あ、あの化け物は?あなたは誰?ここにはあれは入ってこないの?」
矢継ぎ早に投げかけられた私の質問に対して怒鳴るでもなく、困るでもなく、彼女はただ柔らかな表情でこちらを見つめ、私を落ち着かせるためか隣に座れと言うかのように自身の隣の地面を優しく叩いた。
そんな優しそうなこちらの警戒心を和らげるような雰囲気を纏う彼女を見て、ふうっと軽く息を吐き、無意識に入れていた全身の力を抜いて、のそのそと隣へと移動した。
そんな私を見て、どこか満足げな表情を見せ、彼女は話しかけてきた。
「よし。少し落ち着いたかな。私はリンネア。この森に住んでるっていうのが一倍近いな。君は?」
普段なら村の子供たちや大人とも話したりなどはしないのだが、こちらを思って優しく語りかけてくれた彼女からの問いかけに、なにも答えないのはなんだか良くない気がした私は、いつのまにか溜めてしまっていた息を吐き出し、少し微笑みながら答えた。
「私はアリス。このすぐ近くの村に住んでる。でも、私もほとんどはこの森の奥にある私のための場所ですごしているわ。」
そう答えた私に彼女、リンネアは不思議そうな顔をして問いかけた。
「どうして住んでいる村からこんな日に森にでてきたの?ここに隠れているところを見ると死にたいわけではないだろうし。」
私は正直彼女の質問にどう答えるのがよいのかが分からなかった。あの化け物たちがどの
ような存在かも正しく理解しているとはいえない状況で、彼女に正しく答えられる自信
が私にはなかったのだ。
「もし話しにくければいいのだけれど。あぁ、さっきの質問を私が答える方が先かな。」
どのように話したものかと悩んでいる私を見て、気を利かせてくれたのだろう。彼女は、一番初めに私が混乱して質問したことについて、私が知る範囲だけだけれど。と前置きをして話してくれた。
「君のいう化け物は普段はヒトの住む場所には基本的に姿を見せないし、危害を加えることも少ない者なんだ。そうだな、よく知られている名前で言うと妖精とか、精霊とかそんなところだよ。まぁいまこの辺りにいる者は比較的獣に近いものが多いから、一概には何ともいえないのだけれど。」
危害を加えることが少ない者。そんなものに追われていたのか。でも私には彼らは襲ってきているように見えたのだが、それは比較的獣に近い。ということが原因なのだろうか。「多分アリスが追われていたのは、彼らは遊んでもらっているくらいの感覚だったんじゃないかな。まぁ、彼らにとっての遊びっていうのは、相手を怪我させたとしても反撃しなかった方が悪い。っていう物騒なものだけどね。」
「えっと、あれは彼らにとっては追いかけっこみたいなものだったってことですか?捕まったら噛みつかれそうだったけれど、あれも逃げるものを捕まえようとしていただけってことですか?」
「おそらくはね。だからこそヒトは彼らが近づく時には可能な限り家からは出ないようにと言われるんだ。もちろんそれ以外にも理由はあるけどね。」
彼らにとっての遊びでこちらが被害を受けるのはたしかに厄介だし、傍迷惑な話だから家から出ないようにという先人たちの知恵は正しいな。と納得しつつ、さらに質問を続けた。
「それ以外の理由っていうのは、人ではないものが人の領域に入れないと言われていることに何か関係があるんですか?」
「あれ、そんなことも知ってるんだ。博識だね。」
家に居場所がないから、一人で時間を潰せてかつ面白いと思うからといって、本や物語に
のめり込んでいたことによる副産物的な知識があるだけで、役に立ったことのない知識ばかりが蓄積されていることを考えると素直には喜べず、苦笑いを返してしまった。
「まぁそれは置いといて、アリスが知っているように彼らはヒトの生きる領域には足を踏み
入れることはできないことになっている。まぁ抜け道はあるんだけれどね。それは今は関係ないから置いておくね。」
「とにかく、彼らが何なのかはわかりました。ありがとう。もしかしてリンネアはこの木のうろに住んでいるの?」
「そんなところだよ。だから私の領域であるこのうろの中には彼らは入って来られない。」
だから安心していいんだよ。と言ってリンネアは此方に笑いかけてくれた。私はそんなに不安そうな顔をしていたのだろうか。
「心配させてしまってごめんなさい。私がこの森に出てきたのは家からも村からも逃げるためなの。」
「逃げるため?」
「そう。逃げるため。私は両親と同じ色を受け継がなかったから。」
そう言って合わせていた目を背けて明かりを見つめ、指で自分の髪を引っ張ってみせた。
「あぁ、そうか。赤い髪に緑の瞳。物珍しいものを疎ましく思う者は多いからね。」
「まぁそういうこと。妹は両親と同じだったから余計に気味が悪いってことで村の大人の人
たちには避けられて…。」
「そんな大人を見た子供は君を無邪気な悪意で君を仲間外れにした。というところかな。」
「まぁそんなところです。」
そう。そんなところなのだ。言葉にすれば単純で、幼稚で、そして仕方のないことなのだ。私がただ耐えられなくて、ただつらいと思ったから距離をとったのだ。救いを求めることだって可能であったにもかかわらず救いを求めることはせず、ただ己の力のみで可能な範囲で距離をとったのだ。
勿論、ただ仲間外れにされただけではなかった。正確に言えば子供の悪意による仲間外れではなかったからだ。子供の正義感による仲間外れだったからだ。私の立場に立つことのない彼らにとって、私は自分の両親や親戚、他の村の大人たちが気味が悪いと距離を取る程忌み嫌われる私は気持ちの悪い化け物だったからだ。そんな化け物に石を投げることは彼らにとって正義であり、正しい行いであった。
「私は、残念ながら旅ができるほど強くもなければ、石を投げられる苦痛に耐え続けることができるほど自分以外のものに無関心でいられなかったんだ。」
暗くなりすぎないようにと自嘲気味に笑いながらどうでもいいことを話すように、今まで誰にも話したことのない胸の内を打ち明けた。
「まぁ、放っておいてくれるほど大人でない者も居るだろうからね。そんな環境ならば逃げてしまいたくなるのも納得できるよ。」
私の話からなんとなく感じ取ったのであろうよくない感情を霧散させるかのように、彼女は柔らかくそして優しく微笑んだ。
「そう言ってもらえると助かるよ。」
踏み込んで欲しくない柔らかいところには踏み込まずに話を聞いてくれる彼女との焚き火がパチパチと弾ける音を聞きながらの対話はとても心地よく、だからこそ何故彼女のような少なくとも私には欠点などないように思える彼女が、こんな森の中に一人で住んでいるのかがどうしても気になって仕方がなくなってしまった。
「リンネアはこのうろに住んでいるって言っていたけれど、その、もし本当に嫌でなければどうしてここに住んでいるのか教えてくれない?」
どう見ても私と同じくらいの年齢に見える彼女が一人で生活する理由なんてものは私の
想像できるものは全て不愉快極まりないものであり、それを説明させるのも悪い気はしたものの、自分の中に芽生えた好奇心に抗うことはできずに質問してしまっていた。
申し訳なさそうに聞く私を見て不思議そうな顔をした彼女は、少し考えるそぶりを見せた後、私が想像していることを吹き飛ばすように笑い、笑顔で答えた。
「申し訳なさそうにしなくていいよ。アリスが想像しているよりもくだらないことが理由だし、そもそも君が驚くだろうからと思ってきちんと自己紹介をしていなかった私のほうが悪いからね。」
何が面白いのか、爆笑しながらそんなことを言い出した彼女を不思議そうな顔で見つめる私に対して、彼女は居住まいを私は正し、そして改めて自己紹介をしてくれた。
「私は、彼らヒトならざる者に育てられた人間。リンネア。この森に彼らの住処への入り口が開いている間住んでいるよ。」
彼女は何を言っているのだろう。あまりの驚きに一瞬思考が止まってしまった。
彼女の言葉を鵜呑みにするならば、彼女は人間でありながら、おとぎ話に出てくるような妖精たちの住処で育ち、そことこの森が繋がっているから気まぐれに一時的になんとなく住んでいるということになるのであろう。
しかし、それはあまりにも
「非現実的すぎて信じることができないかな?」
考えていたことを言い当てられ、困惑しつつもこくこくと頷いた。そもそも、人間であることが真実なのであれば、なぜ妖精の住処で生活する必要があるのかもわからない。
しかし、彼女がヒトならざる者についてかなり詳しい知識を持っていることに対する説明がつくのも事実なのだ。
「仮にリンネアが本当にヒトでない彼らの元で育ったことが真実だとして、リンネアの人間の両親は今どこで何をしているの?」
私のそんな質問に少し困った顔をした彼女は少し考えるそぶりをして、かつ私の顔色を伺うようにしながら答えた。
「うーん、物心つく前に生みの親の元を離れたからあんまり詳しくはわからないんだ。でも妖精の住処はいろんなところに繋がるから、まだ生きていることはわかってる。」
だから安心して?と、すこし不安そうにこちらに微笑みかけた彼女は儚く、そして美しかった。そんな彼女に、今しがた抱いた違和感には目を背けて、そうなんだ。と自分が聞いたことなのにも関わらず無難に流し、何にも気になってないとでもいうかのように明るく冗談めかして私も行ってみたいな。なんて笑った私に彼女は
「じゃぁつれていってあげようか。」
と、悪戯を思いついた小さな子供のように無邪気に笑った