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なぜこんなことになってしまったのだろう。
私はただいつものように人の目から逃げて逃げて逃げて。生き物の気配のない方へただひたすらに逃げて、そうしていつもの、私だけの場所へ行きたかっただけなのに。
そういえば今日はいつもとは何か空気が違った気がする。
いつもなら私しか通らない場所に偶然家の宝物が迷い込んで、宝物に手を出したのだとあの人たちに怒鳴られた。気がすむまで怒鳴られ、殴られ、そして放り出された。まぁそれはちょっと運が無かっただけで、いつものことだったから気にも留めなかった。
だけれどあの地獄に等しいあの村も、怖い大人や子供たちも今日は放り出された私に痛い視線や嫌な言葉をかけることなく家から出てくることもなかった。それなのにどこか明るい空気を感じて、私には向けられることのないその空気がどこか恐ろしくて、彼らがなぜ今日ばかりは外へ出てこないのかを考えることなく森へと駆けてしまった。
私は何か、よくわからない生き物からただただ全速力で逃げていた。人ならざるものと私たちの境が曖昧になる時があるらしい、というのを昔本で読んだのを必死に走って逃げながら思い出していた。おそらくは今日がその日だったのだと思う。彼らはときに悪戯に人を攫ったり、外にいるものを盗んで行ったりするらしい。そういうものと交流のできる者が街や村を渡り歩きながらその危険をその村に伝えるために渡り歩くのだ。数日前に珍しく旅の人が足を運んでいたことを思い出し、家から出てはいけないということを大人たちから教えられなかったことに今更ながら悔しさを感じながらも、私のための場所へと走り続けた。
本によれば、彼らは人の領域には許可がないと立ち入ることができないらしいのだ。ルールに縛られた者たちなのだ。と、本には書いてあったけれど、今の私には人が彼らから逃げるために作られた縛りなのではないかと感じられた。それほどに私を追ってくる見たこともない化け物である彼らを恐ろしく感じていたのだ。
「だ、だれか、だれか助けて」
息も絶え絶えに、助けてくれるものなど居ないことをどこか理解していたのにもかかわらず私が助けを呼んでしまったのがいい証拠だ。
森の木々の根に足を取られながらも走り続けた。走り続けるごとに縮まる何者かとの距離。ついぞ捕まってしまうのではないか。というほどまでに距離が縮んだその時、足を踏み外すように勢いよく木のうろに転がり込み、腰を強かに打ちつけた。あまりの痛みに顔を顰め、そして何かに追われていたことを思い出す。すぐさま息を殺して耳を澄ますも、彼らの足音は聞こえなくなっていた。
「はぁっ。こ、怖かったぁ。」
そんな間抜けな声を上げながら、転がり込んだうろの中で荒くなった呼吸を整えた。憶測になってしまうが、彼らがこのうろに入ってこなかったところをみると、このうろの中も人間の領域という認識になっているのだろう。もしくは、視界から突然私が消えたことで彼らの興味が他の何かへと移ったか。どちらにせよ今はここで少しの間時間を潰す必要があるだろう。と判断した。正直なところ、あのような化け物がいる森の中をまたさまようのは嫌だからという理由も大いにあるが。
どうもこのうろはずいぶん広いようで、木の根を天井に広い穴を何年もかけて掘り上げたかのような奥行きがあり、さらには私が立ち上がっても腰を曲げる必要のないないほどには高さに余裕もあった。暗く湿った落ち葉が地面に積もり、外のものよりはいくぶんか柔かな感触が足の裏から伝わってくる。身長以上の高さのあるうろに落ちたにしては痛みが少ないと思ったが、この落ち葉たちのおかげだったようだ。
こんないい隠れ場所があったなんて、怪我の功名とはまさにこのことだな。と、苦笑いをしたところで、外から何かがこちらへ歩いてくる音が聞こえた。
瞬間、私に生まれた心の余裕はどこかへと消え去り、脳が警鐘を鳴らした。心臓が頭の中にあるかの如く鼓動がうるさいほどに響き、生唾を飲み込んだ。うろの奥へと足音を殺して後ずさる。けれども足音は迷いなくこちらに近づいてくる。うろの壁に背中が当たる。あの入り口のほかにここから出る方法はない。
あぁ、これは私死んだわね。
そう悟るとともに膝の力が抜け、しゃがみ込んだ上に恐怖から目を閉じてしまった。そんな私が次の瞬間感じたのは想像していたような痛みや恐怖などではなく、
「おまえは、誰だ?」
私がここにいることに対して、酷く困惑しているのがありありとわかる、聞き覚えのない美しい女性の声だった。
そしてそんな彼女を困惑させたとうの私はその声に安心したのか緊張の糸が切れたのか、そっと意識を手放した。