聖女の涙雨
「あっ、そうそう」
監視の役人はわざとらしく思い出した様に1枚の書類を取り出すと私に見せ付ける。
「ビュイック侯爵家から絶縁状が届いていたぞ」
そこには、ご丁寧に名前を『スカーレット=ビュイック』から『サラ=オサリバン』に直され、過去に遡って養女を取り消すと記載されている。
ビュイック家の事情は判るわ。お義父様の思惑もこの絶縁状の意味も。サラ=オサリバンに戻れるのは良いけれど、少し遅かったみたい
オサリバン夫妻はきっと私が偽聖女として処刑されれば悲しみ、王都行きと養子縁組を認めた事を悔やむだろう。
きっと生涯、自分自身を許さないに違いない。
愛する養父母の考えそうな事は容易に想像出来た。
ここまで来てしまっては、どう足掻いても死刑が覆る事は無さそうだ。となるとせめてサラ=オサリバンとして死刑にはなりたくなかったわ。
「王侯貴族なんて勝手だよな」
自身を巡る様々な事を考えていると、それを断ち切る様に役人は目を合わさず呟く様に言った。
「なぁ、今のあんたはサラとスカーレット、一体どっちなんだ?」
「ビュイック家の養女になった時にサラ=オサリバンという娘は居なくなりました。それにビュイック家から絶縁状が出ている以上はスカーレット=ビュイックでもございません。ですから今の私は何者でもありません!」
毅然と言い放つ。せめてもの意地だ。
実際の所、法的に現在の私はサラなのかスカーレットなのか私にも判らないのが本音だけど。
「あんたは平民出身なんだろう? それを気にした王太子との間に溝が出来て、王太子はマクレーン伯爵令嬢に熱を上げて、あんたが邪魔になったって噂が有るが本当なのか?」
「1つだけ間違っています」
「そうなのか?」
「王太子がどの様な理由でマクレーン伯爵令嬢に熱を上げているのかは知る所ではございませんが、私と王太子とは溝が出来たのではなくて、最初から仲は壊滅的でした!」
言い終えた私はスッキリした表情を浮かべてやったわ。
「しかし困ったな。死刑を執行する場合は名前の確認をするんだが、あんたが何者なのか確定しないと刑の執行が出来んな」
役人はニッと頬を緩ませる。何か楽しい企みを抱えている子供の様な眼で私を見つめている。
「だから、逃げるんだよ!」
「えっ?」
予期せぬ言葉を監視すべき立場の人間から投げ掛けられ、戸惑うしかなかった。
「逃げる?私が?」
「他にいるかい?」
「何故あなたがそんな事を?」
意味有り気に微笑むこの中年男の役人、何を考えているのかと窺っていると彼は遠い目をして語り出したわ。
「俺はダミアン=オースティン。見ての通りの木端役人だ。聖女は嫌いと言ったがそれは娘を見殺しにした今の王妃の事なんだ」
それはさっき聞いたと言いたいが、その言葉は飲み込んでおく。エチケットよ。
「だが、あんたは本物だって判っている。あんたは孫の命の恩人なんだ!」
「私がお孫さんの?」
でも娘さんはお亡くなりになった筈だと思っていると、察したのか監視は説明してくれた。
「亡くなったのは俺の長女でな、助けてもらった孫ってのはその弟である長男の子供なんだ。俺と孫とで出掛けた時に荷車の下敷きになってしまってな。俺は亡くなった娘の事が頭を横切って何も出来ずにいた時だった。颯爽と現れたあんたがあっという間に、助からないと思っていた孫の怪我を治してくれたんだ!」
「あ、そうですか」
正直言うと覚えていない。失礼かも知れないけど治癒した人の数など多すぎて覚えてはいられない。国中回ったし。
「覚えてないのならそれで良い。俺達にとってはそんな特別な事を覚えていないって、あんたには普通の事なんだろう」
熱っぽく語るダミアンの言葉に自然と目から涙が溢れてきた。自分のしてきた事を認めていた人が居た喜びを感じていたら止まらなくなった。
「誰が何と言おうと、聖女はあんたなんだよ!」
「ありがとうございます」
それ以上の言葉を発せなかった。涙で。
まるで私の涙が合図であったかの様に、王都に土砂降りの雨が降ってきた。
聞いた話だけど、後に王都の人々はこの日降ったこの雨を『聖女の涙雨』と呼んだらしい。