ある悪魔と冒険者の話
ある所にそれはそれは仲睦まじい冒険者の夫婦がいた。その二人は同じ村出身の幼馴染であり、小さな頃からお互い冒険者になる事を望み共に旅に出た関係だった。二人は共に研鑽を積み、互いを支え合いながら一緒にその道を歩んでゆく。やがて信頼は愛情へと変わり、程なく男女の仲になった後も沢山の冒険をこなし続けた。
やがて遂に二人は子供を授かることとなる。身重の身体を気遣って、夫は妻を冒険者から引退させることにした。そして夫は妻のため、そして産まれ来る子供のために一層奮起してクエストに挑む。
そして夫は新たなパートナーとして、駆け出しの頃よく一緒につるんでいた知人の男冒険者と組むことにした。その男は今や領主お抱えの腕利きであり、夫は信頼に値するその男とならばより稼ぐことが出来ると意気込む。
だが。それは、若き妻の美貌に目を付けた領主の策略であった。領主はかねてよりこの夫婦を手下を使って監視させており、夫が一人になった所を部下であるその男を近づけさせ、パーティを組ませたのだ。その男もまた妻に密かな恋心を抱いていた。それすらも利用する領主は、男がひた隠す恋慕の情を煽り、夫を欺き油断を誘わせる行動を取らせるに至る。
そして、とうとうダンジョンの奥深く、男は夫を罠に嵌めて瀕死の重傷を負わせる事に成功したのである。夫がダンジョンで生死不明となったと聞き、妻は狂ったように泣き叫んだ。思いつめた妻は産まれたばかりの子を友人に預け、再び剣を取り夫が行方知れずとなったダンジョンへと挑んでしまう。ブランクも長く、また慣れない単独行動でのダンジョン探索。それは致命的なミスを招き、格下の魔物に不意を打たれ重傷を負ってしまう。そこに偶然通りかかったあの男が救助するのだが……無論、それもまた領主の策略の内であった。助けられた妻は男の手で治療院へと運び込まれ、一命を取り留める。しかしながら子供の養育費と、自分の怪我の莫大な治療費。蓄えも少なく、稼ぎ手である夫も失った妻は瞬く間に困窮してしまう。そこで声を掛けたのが、あの男。夫の冒険者仲間であり、自分とも知己の仲である男だった。男は雇い主の領主の好意だと嘯きながら、妻を屋敷へと招く。そうしてすっかり傷が癒え、子供も育ち手が掛からなくなりだした頃に……遂に領主はその牙を剥いた。
一方その頃、夫はダンジョンの奥深くで生死を彷徨っていた。そんな死に体の夫に近付いたのは一匹の異形。それは人間の嫉妬や憎悪、絶望といった負の感情を糧にする強い力を持った悪魔だった、妻と子を残して倒れた自分の不甲斐なさ、失意の中で息絶えようとする夫に悪魔は手を差し伸べた。もちろんそれは善意などではなく、男が抱く負の感情を目当てにしたものだった。その悪魔は極めて悪辣であり、狡猾であった。その気になればすぐにでも夫の傷を癒せる力を持ちながら、夫に気付かれないようにしながら、何年も掛けて夫の傷をゆっくりと治してやったのだ。何も知らず悪魔に感謝する夫に対し、悪魔は対価をその場では求めなかった。お前がこれから抱く感情が、私の糧となるからなと言いほくそ笑みながら。
やがて傷が癒えた夫に対し、良いものを見せてやろうと悪魔が嗤う。悪魔の力で領主の館の前へと瞬間移動させられた夫は、突然の事に驚き、そして訝しみながらも何気なく館の窓へと目を向ける。果たしてそこには、あの何よりも誰よりも愛すべき妻が、自分よりも二回りは年嵩の醜く肥え太った領主に良いように貪られ、あられもない声を上げる姿があった。
目の前の事が何一つ理解出来ず呆然とする夫。この時の夫の感覚ではダンジョンで倒れてから数日という所であったのだが、実際にはそれから5年もの歳月が経過していたのである。好きでもない相手に体を求められるだけの妻、しかしそれがいかに不本意な事であったとしても、残酷に無情に過ぎゆく時の流れは、妻の体を心をすっかりと諦めさせるに至っていた。そしてそれ故のこの嬌声なのであった。すっかりと肉欲に身を任せ蕩けた笑顔を浮かべる妻。もちろんそれは心から望んでの物ではない、けれども夫を亡くして早幾年月。そんな中飽きもせず自分の身体を求め続け、その対価にと自分と子供を庶民からすれば贅沢、裕福と言える境遇において養ってくれる領主。それに妻が絆されてしまうのも無理からぬ事であったと言える。
ふと、夫と妻の目が合った。今にも声を上げ泣き出しそうな顔の夫を見止めた妻は、最初はそれが誰なのか分からなかった。そしてそれが夫だと気付いた瞬間、驚愕に目を見開く。次に喜びの色を浮かべ……すぐさま、顔を大きく歪めた泣き顔へと変わる。震える唇は、生きて帰った夫への、実に多くの感情をない交ぜにした声無き言葉を紡いだ。どうしてここに? と。
……日は変わり、うららかな昼の陽が注ぐ領主の館の庭の先で。またしても悪魔の計らいで引き合わされた夫と妻。その様は、陽気な空模様に似つかわしくない、まるで土砂降りの雨模様。あの時のままの恰好の夫、簡素ながら高級感を醸す寝間着を纏う妻。それはそのまま、二人の間に流れた時の差を表すものであり。そしてもはや、再び交わる事のない二人の立場を示すものでもあった。
一緒に逃げようと言う夫の言葉を遮り、かぶりを振って涙に滲む瞳で微笑む妻。私はもう、貴方と共に歩む資格はない。分かたれた時はあまりにも長く、この体は既に余すところなく領主のモノとなってしまったから、と。子供も領主に懐いているし、もう貴方の事を父だとは思わないでしょう、とも。
そしてなによりも……と。妻は自分のお腹をとても優しい手つきでそっと撫でつつ、そこに新たな命を宿している事を告げたのだ。その言葉の意味を理解したくもない、けれども否応に察してしまう夫は慟哭し俯いて耳を覆う。そんな夫を哀し気に見たあと、自分のお腹を見つめる妻の瞳には母としての確かな慈愛が満ちており、柔らかな唇が語る言の葉には領主への慈しみさえ滲み出ていた。未だ夫を強く愛する妻だけど、けれども今、その深い情は領主にさえも向けられているのだった。
そんな二人の様子を伺う悪魔は、二人が発する感情を甘美な美酒と言わんばかりに喜びながら深く深く堪能する。そして悪魔は夫の耳元で謳うのだ、愛しき妻をその手に取り戻したくはないかと。領主から奪い返せるだけの力を、我こそが貸してやろうと。
再び愛する者を失う妻の感情を、そして同時に、領主の感情をも喰らう為に。
そして、その後の彼らを知る者は誰も居なかった。ただ、人の悪感情を喰らう悪魔が、今でもダンジョンの奥底で、高笑いをあげる様だけが恐ろし気に伝わり、語られるのみであったという。