夕陽の魔術
僕はカイル。
ロンドンにある音楽プロダクションAZC社の幹部をしている。
だが僕は、音楽プロデュースや、DJをしたりして、現場で働く方が好きだ。CEOのアンジーにスカウトされて、ここで働き始め、彼女の抜擢で幹部になった。
だがそれは、彼女への愛の代償として過去の世界を捨て、振り返らずに、一から新しい人生を築くといいう僕自身の挑戦だった。
今日は、予てから交渉を重ねていた、AZC社とイクシズ社とのM&A契約の日で、入念な準備の甲斐あって、予定より1時間早く終わった。そこで皆でランチに行って懇親しようとアンジーが提案した。イクシズ社は音楽に合わせてホログラム動画を制作でするベンチャー会社で精巧な技術を開発していたが、資金不足で経営不振に落ちいっていた。
イクシズの副社長のマイクは、会社温存のため、かなり好条件でAZCにM&Aの話を持ち掛けてきた。そのホログラム技術のデモンストレーションは完ぺきで、一つ返事でCEOおよびボードの決済が下りた。契約もお互いに和やかに運んだ。
近くのなじみのイタリアンレストランで、張り詰めた緊張感から解放され、イクシスの役員と打ち解けて話をした。CEOのアンジーはイクシスの5人の幹部を前に、得意な社交の手腕を発揮していた。彼らは契約時の彼女の冷静沈着なやり手ビジネスウーマンからの変身を驚いてさえいた。彼らは、新体制についての不安を、希望や挑戦に変えることができた。
そうして穏やかな雰囲気をつくりながらも、彼女は新しい曲の着想が湧いたようで、時折、携帯に書き込みをしていた。イクシズの幹部に微笑みながら言い訳をした。
「ごめんなさい。インスピレーションはいつ来るかわからないの。書いておかないと忘れてしまうのよ。」
そして彼女はそれを熱いうちに形にしたくて、後を幹部に託して、僕と中座した。
彼女の着想が鮮明だったので、スタジオでの作業は、思ったより早く終わった。
「なんか今日は早起きしたせいで、何でもうまく流れていくような気がするね。これからどうしようか、カイル?」
彼女は嬉しそうに僕の目をうかがった。
僕は彼女をドライブに誘った。
「アンジー、夕陽を見に行かないか?」
「いいね。そういうデートも。久しぶりだわね、カイル。」
僕らはポルシェを郊外まで出して、前にも行ったことのあるビーチで夕陽を堪能した。
夕日のまばゆい光の変化は僕の気持ちを高揚させ、大胆にした。
かつて、アンジーと二人で夕陽を見にきたときに諦めたことを、勇気を出してもう一度チャレンジしてみようと思った。
それを口にしようとしたとき、彼女に先を越された。
「ねえ、カイル、今夜、コヴェントガーデンのオペラコンサートに招待されているの。一緒に行かない?」
「ROHかい?そうだね、オペラなんて生で見たことないんだ。行ってもいいよ。何やるの?」
「ラ・ボエーム。今夜は、超、洗練されたコンサートなんだけど、大丈夫?」
「どのくらいフォーマルなの?」
「まあ、ちゃんとフォーマルよ。久しぶりにいいんじゃない。行かないつもりだったけど、夕陽見たら、何かあなたと、夜もゆっくりしたいなって気がしてきて。」
「いいねえ、じゃ、行こう。何時から?」
「9時からよ。」
カイルは腕時計を見た。6時過ぎだ。
「じゃ、急がなきゃ。着替えとか間に合うかな?」
「このまま、ブティック行って着替えれば間に合うわよ。」
なんか面白い展開だ。
彼女はM&Aの成功で気持ちが高まっているらしい。僕も気持ちがのってきた。
「ねえ、アンジー、君にドレス買ってあげたいんだけど。」
「えっ、カイル、本当?、そんなの初めてよね?うれしいな。」
「本当?どのブランドにする?」
「じゃ、あなたのスーツは私が買うわね。楽しいね。こういうの。」
彼女は少女のように顔をほころばせた。
「僕のは、自分で払うよ。それじゃプレゼントにならないじゃない。どこがいい?」
「時間に余裕みるために、コベントガーデンのDORはどう?メンズもあるから。カイルの服は私が買いたい。」
「アンジー、君は僕の言うことなんていつも無視だよね。言い争わないよ。じゃ、わかったから。君のはすっごく高いのにしてくれよな。」
「わかったわ、カイル。」
何かの映画を見ているようだ。僕がDORで買い物?そんな展開。
彼女はなぜか今日は凄く軽快だ。
彼女は車からDORに電話した。
「アンジーですけど。お久しぶりです。皆さんお元気?フィリップいますか?」
支配人のフィリップが出た。
「アンジー様、マイプリンセス、お久しぶりですね、お元気でいらっしゃいますか?」
「とっても元気よ、フィリップ。急で申し訳なんだけど、今夜のROHのコンサート用のドレスと男性スーツ1式、今から伺うので、揃えておいていただけるかしら?そちらで着てそのまま行きたいの。ごめんなさい、時間がギリギリなので。」
「かしこまりました、マダム。コンサートは9時ですよね。いつ頃お見えでしょうか?そして本日のドレスのお好みは?」
フィリップは心得たものだ。台本でも読んでいるようにすらすらと話が進む。
「そう、9時だから8時までにスタンバイしたいわね。今から1時間くらいかかるかな。7時までには、道が混んでいなければ着くと思うわ。バレットサービス出来るわよね?」
「かしこまりました、マダム。今思いつきましたが、プリンセス・アンジーのお好みの白のイブニングが入ったばかりです。それと、ミッドナイトブルーのドレスも。きっとお気に召しますよ。殿方のサイズは?」
「ありがとう。カイル、あなたのサイズは?」
携帯を僕に向けて、アンジーは嬉しそうに微笑んでいた。
僕が自分のサイズを告げると、品のいい男性の声が返ってきた。
「かしこまりました、カイル様。長身で、細身でございますね。髪のお色は?」
「ブルネット、巻き毛気味。」
「承知いたしました。ドレスに合わせて2タイプセットしておきます。何かお好みはございますでしょうか?」
「ああ、すべて任せるので、よろしく頼みます。」
携帯をアンジーに渡す。
「フィリップ、アンジーよ。」
「アンジー様も全てお揃えですね。お着換えは、特別室でございます。すべてご用意してお待ちしております。それで、お車の車種と色は?」
「赤のポルシェよ。ではよろしくね。本当に助かるわ、フィリップ。では後ほど。」
アンジーはいつもになく嬉しそうだった。なぜだろう?
「カイル、フィリップがどのくらい完ぺきに準備するか楽しみね。すごくワクワクするわ。まるで映画みたいね。こういうの初めてだわ。」
「僕もだ。着替えていくって、シャワーはどうするの?いい服着るのにさっぱりしたいよ。」
「大丈夫。何故あの店を選んだかというと、特別室にはシャワーがあるのよ。VIP用の。もちろん下着も高級なのがそろってるわよ。」
「へえ、そうなんだ?勉強になった。」
車がブティックの前につき、フィリップがドア口に待ち構えていた。アンジーと固いハグをして、僕には握手をした。中年だが、いまだに若さとハンサムさを維持している上品な男だった。
まずは、4階に上がり、ドレスだ。二組のドレスはどちらもアンジーに似合っていた。
「カイル、どちらがいいと思う?」
「どちらもすごく似合ってるけど、白はどう?」
「私も、今日の気分はホワイトかな?カイルはこちらがいいと思うけど。」
「仰せのままに、マダム。」
「フィリップ、完璧よ。では着替えをするわ。お支払いは、私のドレスはカイルに、彼のスーツは私に。楽しいでしょ、こういうの?念のためおいくらかしら。そしてこれはコンフィデンシャルで。」
「かしこまりました、マダム。」
僕は勘定書きを見ても驚かなかった。彼女への初めてのプレゼントだ。宮殿でも構わない。
フィリップが微笑みながら言う。
「スタッフに元美容師がおりますが、髪も調整いたしましょうか?」
「助かるわ。」
「私は敬虔なる、美の僕でございます。」
そういってフィリップはその完璧な容貌に本物の喜びを表していた。
着替えが済んで、鏡の前に二人が立つと、フィリップはさらに満足気に微笑んだ。
「カイル、何か私たち花嫁と花婿みたいじゃない?」
彼女は悪戯っぽく微笑んだ。
「確かに、そうも見えるね。」
「カイル、あなた似合ってるわよ。」
フィリップは僕のスーツの襟に赤いバラを付け、アンジーの髪に白いバラのコサージュを差して言った。
「言葉に言い尽くせないほど、アンジー様、お美しいです。何か、不足があれば何なりと。」
「そうね、写真を撮ってくださる。プライベートでこんなことあまりないので。」
「かしこまりました。でもコンサートホールで注目の的ですよ。お披露目ですね。お二人の。」
「お店の宣伝になればいいわね。ねえ、フィリップ、今日は本当にありがとう。今度カジュアルにランチでもいかが?」
「もちろん、アンジー様。楽しみにしております。」
そういって上品に微笑んだ。
目と鼻の先だったが、ROHの前にポルシェを付けたとたん、フィリップの言った通り、僕たちはパパラッチの的になった。
「ねえ、カイル、いつもは私はこういうのは避けるのだけど、今日は映画のように楽しまない?
パッパラッチは、いつになっても慣れないわよね。今日は、付き合ってるのもばらしちゃおうか?。」
僕は、いつもになく楽し気なアンジーに驚いた。
「今日は、君って大胆だよね。どうしたんだい?僕は構わないんだけど。」
「服のせいかもよ。こんなの素敵な服を着てると、フィリップが言ったようにプリンセスの気がしてきたわ。」
「そう見えるよ。本当にきれいだよ、アンジー。じゃ、僕も俳優モードで、恋人のバロンかなんかで。」
アンジーはうなずいて、金の粉をあたりにまき散らすように嬉しそうに笑った。
夕陽の効果はまだ続いていたようだ。僕たちは夕陽の魔法にかかったようだ。
ホールの大理石の階段を上るときは、彼女の白の肘上までの手袋の腕をとって組んだ。
そう、まるで僕たちは秘密の結婚式をしているようだと思った。彼女もそんな気分でいるようだ。
僕が夕陽を見ながら、言いかけて言わなかったこと、それはもう一度プロポーズをすることだった。
彼女はそれを察したのだろうか?
それともこれは、夕陽で眼を射られてから続く幻想だろうか?
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かつて、僕はアンジーに結婚を申し込んだことがあった。彼女は指輪を受け取らなかった。
「結婚すると、カイルを苦しめるのはわかってる。そういう不幸な未来は選ばないわ。あなたは私をよく理解しているでしょう。……あなたに言ったでしょう?私が一人の男を愛せないことを。」
僕のチャレンジを、いとも残酷に、一撃でかわしてしまうアンジー。
「わかってる、アンジー。でもこれは、僕の本当の気持ちを知ってほしかったから。だから、駄目元で。」
「カイルは最高のボーイフレンドよ。あなたが私を嫌いになるまでは。」
「この命尽きるまでと願ってる。この魔法を解かないでくれ。」
「本当に、ごめんなさい」
彼女は言って、突然、僕の胸に顔をうずめて泣いたのだった。
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アンジーと2階脇のボックス席で、僕にとっては初めてのオペラ「ラ・ボエーム」を、二人とも涙を浮かべて楽しんだ。僕は彼女との関係の切なさを、重ね合わせて見ていたのかもしれない。
そして、今ここにいるアンジーとの、この時しかないかもしれない幸福に満ち溢れた空気を、胸いっぱいに吸った。この一瞬が永遠に続くようにと願って。
そして帰りの階段も彼女と腕を組んで降りた。彼女は僕の体に、その体重をあずけていた。DORの白薔薇の香りがした。彼女を見ると、その笑顔はまるでウェディングの花びらのシャワーをくぐっている花嫁のように輝いていた。だから僕も微笑んで、彼女とそのシャワーをくぐることを想像した。
帰りの車の中で、アンジーは言った。
「カイル、今日は本当にありがとう。私の気持ち伝わったかしら?愛してるわ。」
「ああ、僕も永久の愛を誓うよ。ありがとう。」
「これしかできなくて。ごめんなさい。でも私たちよくできたわよね。」
「わかってる、十分だ。僕もすごく愛してる。夕陽の魔法だね。この記憶を消したくない。」
「私もよ。大事な二人の秘密にしましょうよ。」
「そうだね。」
二人で企らんだファンタジー。最高の日。明日からまた日常にもどる。でもそれでいいと思った。
僕たちはいつでもこういうファンタジーを創れるし、その中で生きられる。アンジーとなら。