沈まぬ太陽
○カナダ・エルズミア島
北極圏から800キロの地点
○ベルザホテル・104号室・中
福原智子(37)がテント、寝袋、撮影機材、地図、ノート、防寒具一式をチェックしている。
○永久凍土の平原
三脚にカメラを設置して構える智子。カリブー皮の膝のあたりまでくる長靴をはている。手袋はビー バーの毛皮の大きなミトン。赤狐の皮の帽子を被っている。
智子は慎重に獲物を探す。ファインダーの中に一頭の白いオオカミが見える。そのオオカミは、うね で盛り上がって小高い氷原の上に立ち、凍てついた景色を見下ろしている。智子は凍えそうになる手 を必死で押さえ、シャッターを切ろうとする。望遠レンズの絞りは最大にしてある。シャッター速度 は三十分の一秒にセットしている。ファインダー内の白いオオカミの目は特徴的なアーモンド形の目 をしている。智子は息を殺し、指をスローモーションでシャッターを切る。
○ベルザホテル・ロビー・中
ロビーのソファの近くに撮影機材一式を置き、ソファに座り一息ついている智子。智子の側にクリスティン・ミグ(52)がやって来る。
ミグ「やぁ、トモ。調子はどうだった?」
智子「一枚だけ。ホッキョクオオカミ」
ミグ「ほんとかい?おいおい、まだ一日目だぜ、もうホッキョクオオカミかよ」
智子「たまたまよ」
ミグ「どんな奴だった?」
智子「そうね。目がアーモンド形だったわ」
ミグ「ほんとかい?じゃあ、そいつは”バスター”だよ」
智子「バスター?」
ミグ「あぁ、群れのリーダーだよ。俺たちはそう呼んでる」
智子「じゃあ、運が良ければその群れを追えるわね」
智子、窓の外に広がる見渡す限りの氷原を見つめる。
○同・ベルザホテル・最上階のバー(夜)
ミグが仕事仲間のジョンとカウンターでさけを飲んでいる。
ミグ「前から少し気になってたんだけど、トモってどうしてホッキョクオオカミにこだわるんだろ?」
ジョン「さぁ、白くてキレイだからじゃないか?」
ミグ「まさか」
ジョン「冗談だよ」
カウンターの中で、グラスを磨いているバーテンダーが
バーテンダー「あれ、ご存知なかったんですか」
ミグ「何を?」
バーテンダー「いえ、智子さんがオオカミ追ってる理由」
ミグ「しってるの?」
バーテンダー「えぇ、まぁ。人づてに聞いた話ですけど」
ミグ「聞かせてもらえるかな?」
バーテンダー「私からきいたって言わないでもらえます?あまり話が広まちゃっても」
ミグ「もちろん。お前もだろ、ジョン?」
ジョン「あぁ、誰にも言わない」
バーテンダーは磨き終えたグラスを棚にもどし、改まって
バーテンダー「何年くらい前かは定かじゃないんですけどね」
ミグ「うん」
バーテンダー「襲われたんです」
ミグ「えっ」
バーテンダー「クマに。撮影中、ホッキョククマに」
ミグ、ジョンじっとバーテンダーを見つめる。
バーテンダー「夢中になってたんでしょうね。その時はトナカイを撮ってたそうです。そう、スピッツベル ゲン。後ろの方で大きな音がして、気付いた時にはもうテントがぐちゃぐちゃで。もうダメだって腹をき めたそうです」
ミグはウイスキーを一口飲む。
バーテンダー「その時何かがクマに襲いかかった。オオカミです。オオカミの群れです。さすがにクマも群れで来られちゃたまらんです。さっさと逃げていったそうです」
ジョン「ほう、じゃあ命の恩人ってわけだ、それでオオカミを追っているのか」
バーテンダー「いや、これが後日談がありましてね。この事を智子さんがある専門家の方に尋ねたんだそう です。そうしたら、その専門家はこう言ったそうです ”あなたの気持ちは分かりますが、そのオオカ ミの群れはたぶんあなたを助けた訳ではないはずです。ようするにあなたは、オオカミ達にとっても獲物 だったのです。その獲物がクマに横取りされようとしていたので、クマを追い払おうとした。それだけで す。第一、人馴れしていないホッキョクオオカミが人間を見て仲間だと思いますか?助けますかねぇ。 まぁ、オオカミとしては比較的おとなしい種類ではあるものの、人を助けるなんて・・・” っていう事で」ジョン「でも、助かったんだ。ラッキーだよ」
ミグ「うん。そうだな(何か浮かない顔)」
○ベルザホテル・104号室・中(夜)
使った機材のチェックを終える智子。手にデジカメを持ってソファに座る。デジカメの写真をチェッ クする。ホッキョクオオカミが写っている。アーモンド形の目をしている。智子、その写真を見つめ る。
○ベルザホテル・外(朝)
止めてある全地走行用の四輪駆動車 ”スズキ” に、詰め込めるだけの機材等を積み込んでいる智子 とミグ。
ミグ「トモ。今日はホッキョクオオカミの巣の近くまで行ってみよう。そしてできるだけ近い所にテントを 張るんだ。オーケー?」
智子「パーフェクト」
○平原
うねや、氷山をバックに永久凍土の平原を走る ”スズキ” の全景。
○野営地
到着した車が止まる。智子とミグが車から降りる。
双眼鏡で巣を探し始める。
ミグ「トモ。あったぞ」
智子「どれくらい?」
ミグ「だいたい400メートルぐらいかな」
智子「ちかすぎない?」
ミグ「昨日、トモがバスターを撮れたと聞いた時に思ったんだ。奴はあまり警戒してなかったんじゃないか と。北極圏の生き物はもともと人間に対してあまり警戒してないとはいえ、そう簡単に撮れるもんじゃな い。上手くいけば群れ全体の風景が撮れる」
智子「そうね」
智子とミグはナイロン製のテントを、巣が観察しやすい、うねの盛り上がった小高い場所に組み立て る。智子はテントの外にカメラをセッティングしてファインダーのなかを覗く。
辺りは真っ白い静寂に包まれている。智子は鼻をファインダーに近づけすぎ、鼻息がかかった瞬間に ファインダーが白く曇り、一瞬のうちに厚さ1.5ミリ程の氷の膜になってしまう。智子がそれをこす り取ろうと手袋をはずそうとした時、ミグがそれを制する。
ミグ「外で手袋なんてぬいだら、あっというまに指が凍傷になっちまうぜ」
ミグは食事用のプラスチックのスプーンの柄でファインダーの氷を削り取る。
○テント・外(夜)
光が氷原を照らしている。水平線ギリギリの所を移動するだけの沈まない太陽。智子は双眼鏡で巣を 見続けている。
○テント・外(朝)
智子、全く同じ姿勢のまま巣を観察している。
大人のオオカミが6頭巣に戻ってくる。智子は双眼鏡を置き、カメラのファインダーを覗く。シャッ ターに指を掛ける。巣から3頭の子供のオオカミが出てくる。大人のオオカミが口から吐き戻した肉 片にかぶりつく子供達。智子はシャッターを切り続ける。大人のオオカミ達の白い顔は、獲物の血で 赤黒く染まっている。
大人のオオカミ達は各々居眠りを始める。子供達は食べ終えるとしきりにじゃれあっている。
○テント・中(夜)
携帯用のコンロで湯を沸かし夕食の準備をしている二人。
コンロの火をみつめながらミグが独り言のように呟く
ミグ「なぁ、トモ。あまり答えたくないならいいんだけど。その」
智子「何」
ミグ「オオカミにこだわるのは、何でだろうなっておもって」
智子「ふふっ。きいたのね」
ミグ「いや、別に詮索しようってんじゃないんだ」
智子「いいのよ、別に。隠してるわけじゃないもの」
二人、少し間沈黙。
智子「そうねぇ。あの時、確かに何かを感じたの。あれは私を助ける行為だったと。もちろん、専門家に言 われた事だってわかるわ。私だってこの仕事をしていて動物には多少詳しいもの。
でもね、あの場に居た人間から言わせてもらうと、あれは絶対に・・・。
だから私、確かめたいの。どう言ったらいいのか。あの、オオカミ達の心の動きを撮りたいの。ただの白 いオオカミとしてじゃなくて」
ミグは暫く黙ったあとで
ミグ「そうか。きっとトモなら写せるよ、そのオオカミの心ってやつを」
智子「ありがと。さっ、食べましょう、そして少し休みましょう」
ミグ「そうだな」
○テント・(翌朝)
智子とミグは撮影機材全てを ”スズキ” に積み込んだ。
ミグ「ここからはもっと危険になる。今までのようにただ待っているだけじゃ済まない。オオカミのハン ティングを追っていくんだ。へまをすると俺たちも襲われるぞ。オオカミだけじゃない、追われるジャコ ウウシの群れが俺たちに向かってくるかもしれない。どうする?」
智子「”行かない” って言うとおもう?」
ミグ「だろうね」
車に乗る二人。”スズキ” は時速約10キロでオオカミの群れを驚かせないように追跡して行く。
永久凍土の平原(夜)
ジャコウウシの群れが口にある牙と蹄を使い、凍った土地を掘り起こしコケやシダ類を食んでいる。 体中に長さ1メートル程の毛がびっしり生えている。智子はなるべく近づこうと距離を縮めていく。
オオカミの群れがジャコウウシの群れに近づいてゆく。ジャコウウシが防御体制を作る。
皆外側を向き、円陣を組む。円陣の中には子供のジャコウウシを入れている。オオカミ達は様子を見 ているだけでまだ襲わない。睨み合うオオカミの群れとジャコウウシの群れ。
近づきながらシャッターを切り続けている智子。1頭のジャコウウシが智子に気付き群れを飛び出す 後ずさる智子。オオカミ達は大人のジャコウウシに襲い掛かる。円陣を崩すジャコウウシ。バラけた 大人のジャコウウシには目もくれず、中にいた子供のジャコウウシに噛み付く。ほかのオオカミ達も 一斉に子供のジャコウウシに襲い掛かる。オオカミ達は子牛がまだ生きているまま食べ始める。
シャッターを切り続ける智子。
○平原
氷の平原を走っている ”スズキ”
○車の中
ミグ「どうだった?今回の仕事は」
智子「うん、どうかな」
ミグ「おいおい、あれだけのハンティングの瞬間が撮れたんだぜ」
智子「そうなんだけど・・・」
ミグ「例のものは写せてない、と」
智子、何も言わず窓の外の流れてゆく景色を眺めている。
智子「あっ、ちょ、ちょっと止めて」
ミグ「どうした?」
ゆっくりと止まる車。車内から双眼鏡で獲物を探す智子。
智子「トナカイだわ」
そう言うとカメラを片手に素早く車から降りる智子。
ミグ「おいおい、仕事熱心だねぇ」
智子はカメラを抱え、一歩一歩トナカイに近づいていく。トナカイは一頭だけで、じっと智子のほう を見ているが、微動だにしない。近づきながらシャッターを切り続ける智子。
車の中からそれを見ているミグ。
ミグの視界の中に何かが写る。”クマ”だ。
ファインダーを覗いている智子の100メートルほど離れた所にいて、ゆっくりと智子のほうへ近づい ている。
ミグ「トモっ!!」
ミグは叫んだ。そして車の中に置いてあったライフル銃を手に取り車を降りた。
ファインダーを覗いていた智子がホッキョクグマに気付いた。トナカイもクマに気付き勢いよく走っ て逃げていく。ライフルを構え、智子のほうへ近づこうとするミグ。
智子「だめよ!止めて!」
ミグは立ち止まる。ライフルでホッキョクグマを狙っている。
クマと智子の距離がどんどん近づいていく。30メートル程の距離になった時ミグはライフルの引き金 に指を掛けた。その時、遠くの方から何かに鳴き声が聞こえてくる。
鳴き声「ウォーーン」
遠吠えだ。最初の鳴き声に反応し、四方八方から続々と遠吠えが上がった。だが、オオカミ達の姿は 全く見えない。智子とホッキョクグマはその距離を保ったままで、遠吠えが辺りに鳴り響いている。
クマはゆっくりと踵を返し、智子から一歩一歩遠ざかって行く。
智子のもとに駆け寄るミグ。
○エリーカ・サウンド・定期航空路
○同・ツイン・オター(小型飛行機)
機内に全ての機材を積み終わり離陸を待っている智子。ミグが話しかける
ミグ「お疲れ様。次はいつ来れるんだい?」
智子「まだわからないわ。でも、近いうちに絶対くるわ」
ミグ「そうか。楽しみだな。準備しとくよ」
智子「ありがと。いつも感謝してるわ」
ミグ「そうだ、トモ。えーと、例の事なんだけど、俺も、その、何か感じた気がしたんだ。口じゃ上手く言 えないけど、動物の心の動きってやつかな」
智子「気のせいじゃない?」
ミグ「おいおい(笑)」
智子「今回も写せなかった。もしかしたら動物達は、まだまだ私達人間に心を見せるつもりなんてないのか しら」
ミグ「どうだろう」
智子「でも撮り続けるわ。それしか方法がないんだもの。そして、いつかきっと」
ミグ「そうだな。でも、一つだけ約束してくれ」
智子「何?」
ミグ「死んじゃダメだ」
智子「そうね。気をつけるわ(笑)」
○同・ユリーカサウント・定期航空路
飛行機が離陸する。上空から見た北極圏の景色は、氷原と永久凍土だけの平原。
その中に一つの小さな白い点を智子は見つける。双眼鏡を取り出し焦点を合わせる。”バスター”だ
氷原の上に立ち、上空の飛行機に向かって遠吠えをしている。
智子は慌ててカメラを用意し、機内の窓からバスターに向かってしゃったーを切る。
氷の世界が徐々に遠ざかっていく。智子は座席のシートベルトを締め直した。
○北極圏の空
水平線ギリギリの所を移動する沈まない太陽が、遠く小さくなってゆく飛行機を照らしている。
<おわり>