承
「カニ汁って、カニのお味噌汁なんでしょ? なんで二つもあるの?」
リサはイシガニの味噌汁を味わった経験は持っているから、二種類あるというのが不思議でたまらないらしい。
イシガニはガザミと形状も味もよく似たカニで、ガザミほど大きくはならないが、茹でても味噌汁にしても美味い。
スーパーで見かけることは無いけれど、昔ながらの鮮魚店には一盛り幾らで並んでいる事もある。
実は、シロウトでも捕まえるのは、そう難しくなく、夜の海で垂直護岸や防波堤の際を懐中電灯で照らすと、海中の壁にくっついて見える事がある。
夏になって水温が上がった頃に、懐中電灯とタモ網を手にして水辺を散歩している人は、イシガニハンターである事も多いのだ。
「待って、リサ。お汁だからって、味噌汁だとは限らないよ。」リカは頭を巡らせて、別の可能性を考えたようだ。
「アサリだって味噌汁以外に、お吸い物にする事もあるよ? ねえ、お父さん。モクズガニのカニ汁は、お味噌汁とお吸い物の二種類でしょ。違う?」
「ブ~!」私は両手でバツを作り、リカに不正解を告げる。「両方とも味噌仕立てだから、お澄ましではないね。ヒントをあげると、一つはリサが考えた通りの、モクズガニをそのまま鍋で味噌汁にした物だ。……さて、もう一つは?」
リサには次の一手を考案する事が既に難しいらしく、半ば降参状態で「おねえちゃん、がんばれ!」とリカの応援に回った。
ちょっと前に姉を出し抜こうと、こっそりシオマネキ説を出したのは忘れたみたいだ。
リカは両手を組んで、しかめっ面で呻吟していたが、急にガバッと立ち上がると
「神よ! なにとぞ知恵をお授け下さい!」
と叫んで、両手を上げて腰を振るという、奇妙な踊りを踊った。
これって、なに?
アニメか少女小説の影響か? 世間では今、こんなのが流行っているのか?
「リカ。大きな声を上げちゃ、駄目でしょう!」
台所から顔を出した嫁が、小規模な雷を一発見舞う。
私は嫁に「あの踊り、流行ってるの?」と、とりあえず訊いてみる。
子供というのは、妙な所で変な事を覚えて来るから、知らない可能性もあるけれど。
嫁は母親の顔から妻の顔になって「ああ、貴方は『あれ』を見るのは初めてなのね。」と、うなづいて
「学芸会の創作演劇でやったのよ。邪馬台国の時代の話って。」
私はプラント建設という仕事がら、長期出張する事が多く、学芸会には顔を出せなかった。それどころか、その前後には日本から遠く離れた場所で仕事をしていたから、娘がそんな創作演劇をしたことも知らなかったのだ。
いや……そう言えば、確かにエア・メールには、そんな事が書いてあったような気もする。
動画でも送ってくれたら良いものを、と一瞬は考えたが、近頃は個人情報保護がうるさいし、子供を対象にした犯罪も多いから、撮影はさせてもらえないのに違いない。
「へ~ぇ。リカは卑弥呼役でもやったの?」それならば、堂々の主役級だ。まあ、その他大勢の踊り子役だったって良いじゃないか。
親馬鹿と言われるかも知れないが、リカは頑丈なだけが取り柄の私に似ずに、切れ長で涼やかな目をしているから、巫女役にはハマっていると思う。
「壱与役。」
「卑弥呼の後継者か。それでも、重要な役どころじゃないか。」
「まあね。親の目を抜きにしても、結構、上手かったよ。」
嫁は学生時代、演劇に燃えていて、私もよく公演チケットを複数枚買わされた。
私も時間の許す限り、期間中は観劇に通ったものだ。
主役を張る事は無かったけれど、味のある良い役者だったと思う。
彼女は卒業後も劇団を続けるのだろうと思っていたのだが、劇団は役者間の愛憎の縺れが激しくなったとかで空中分解し、彼女はそれを機に演劇を卒業したのだ。
「さて、続き、続き。」嫁はそんな事を言いながら、また台所に引っ込んだ。
彼女が作ろうとしているのは「鯛のオムレツのパイ包み焼き」という奇妙なコンセプトの創作料理で、味は出来てみてからでないと判らない。
せっかくの良い鯛を無駄にしてしまいそうな気もするのだが、彼女は色々とセンスが良いから、意表を突いた名品になる可能性もある。
一方、居間の舞台上では壱与の神降ろしが佳境に入っていて、リカはバタリと床に倒れた。
おねえちゃんの応援団になったリサは、壱与の前で平伏している。
「どうだった? おねえちゃん。」上体を起こしたリサが、姉に首尾を確認する。
リカは一旦、大の字になってからムクリと起き上がり
「ダメだぁ。何も降りて来ないよ。」と両手で自分の頭を叩いた。
「なんだ。全然ダメじゃん。」掌を返したリサが、おねえちゃんを非難する。「もうパパに答えを教えてもらうしかないよ。」
「リサ、もうちょっとだけ待って。お父さんも、まだ話しちゃダメだからね!」
おねえちゃんは手の素振りで妹を制すると、私にはビシッと人差し指を突き付けて、台所に向かった。神ならぬ母に、知恵を授かりに行く心算なのだ。
「おねえちゃん、ママに教えてもらうつもりだよ?」リサが私に不満を漏らす。「なんだかそれって、ズルくなぁい?」
「分からない事に出会ったら、先人の知恵を借りるというのは、賢い方法なんだ。別にズルとは言えないね。」
「先人って何?」
「年上の人とか、昔の人・お年寄りっていう意味かな。自分よりも道の先に進んでいるって事だね。」
「ママ、年寄り?」
話が妙に短縮されて、私が嫁を『年寄り』扱いしているなどと伝達されたら、投げっ放しジャーマンを喰らってしまう。
「おねえちゃんよりもママの方が、料理に詳しいって意味だと考えてごらん。」
慌てた声に聞こえないよう、トーンを落としてユックリ話す。
子供というのは敏感なもので、大人の焦りを簡単に見抜く。
焦った処を見せたら「ママには黙っておいてあげるから、アイス食べたい。」なんて事を言い出すのだ。
「そうかぁ。おねえちゃんは、料理できないもんね。……でも、ママはときどき、変な料理を作るよ?」
妻よ、娘からこんな事を言われているぞ。
「時々そんなものが出て来るのは、ママが料理に詳しくて、いろんな工夫をするからだよ。世界にはいろんな料理があるからね。」
「例えば?」
「中国ではサルの脳味噌を食べたりするね。」
「えええ! おサルの脳みそ食べちゃうの?」
「逆に、海の無い国の人は、日本人がカニを食べているのを見て、驚くんだそうだ。」
「ほんとう? カニ、おいしいじゃない。」
「なんだかね、おっきなクモに見えるんだって。」
「タラバガニはクモの仲間だから、間違ってないかもね。」
リサは、おねえちゃんから仕入れた知識を、もう活用している。子供の吸収力は活発だ。
「お父さん、謎が解けたよ。」
名探偵が、台所から再登場する。腰に手を当てて、自信ありげだ。
「おねえちゃん、知ってる? おサルの脳みそって、食べれるんだよ!」
『ら』抜き言葉に対する批判は、重々承知しているが、勢い込んで話すリサのセリフを聞くと、この場合『食べられる』とするよりも、イントネーションが滑らかに感じられる。
颯爽とした登場に、横合いから水を差された体のおねえちゃんは
「知ってるよ! 3回くらい食べた事があるよ。」と言い放つ。
おねえちゃん……その場の勢いとはいえ、ウソは良くない。
「パパ! おねえちゃん、食べた事あるんだって。」
リサのこの発言は、姉の言葉を疑って発せられたものではなく、自分が食べた事の無い物を何故姉だけが経験しているのか、という私に対する非難だ。
「実はパパは食べた事が無いんだ。ちょっと怖い気がするからね。」
この後どういう展開になるのか興味があるので、卑怯な私は自分の態度を保留する。
「おねえちゃん、パパは食べた事無いんだって。いつ食べたの?」
検察官のように追及するリサ。
「給食で出たんだよ。」
一方、名探偵から詐欺師にジョブチェンジしたリカは動じない。
「どんな味だった?」
「……プリンみたいな味だったよ。でも、怖くて食べれない子も居たね。私も一口だけ食べて、後は残したよ。」
このまま姉妹対決を放置すると、あとあと面倒な事に成りそうなので、私は事態の打開のために介入する事にした。
「おねえちゃんは、普通のプリンをサルの脳味噌って騙されたんじゃないかなぁ。サルの脳味噌って、とっても値段が高いらしいんだ。給食には出せないと思うんだよ。」
私の発言に勝ち誇ったリサは
「おねえちゃんは、だまされたんだよ。まだまだだね!」と、強気に出る。
さあ、どうする? 更にウソを重ねるのか。あるいは矛を収めて、名聞の立つ内に不利な条件での講和に甘んじるのか。
「……騙されちゃってたのかな? わたし……」
よし。良く決断した。妹に負けるのは悔しかろうが、ウソを押し通すよりも、余程小さい傷で済む。
ここは一つ、おねえちゃんの立場が無くならないように、支援の手を出すとしよう。
「まあ、それまでに食べた事の無い料理だからね。知らない物をそうだって言われたら、信じちゃうよね。お父さんも、サザエのソテーをエスカルゴって騙された事があるんだ。」
「パパもだまされた事があるの?」リサが私の顔を、ちょっとビックリした目で見つめてくる。
「そうなんだよ。エスカルゴって言うのはデンデンムシの仲間なんだけど、サザエをそのデンデンムシだって出されて、デンデンムシのくせにサザエと同じくらい美味しいなぁって、思ったんだ。」
「おねえちゃん、パパだってだまされるくらいだから、食べ物でだまされるのは、しかたがないね。」
妹側も勝者の余裕か、あるいは食べ物で騙されるのは我が家の血筋だと受け取ったのか、寛大に和解に応じる。
「なんだか、そうみたいだね。お父さん、エスカルゴは本当はどんな味がするの?」
「知らないんだ。結局、エスカルゴは食べた事が無いまままんだよ。だって、でんでんむしむしカタツムリ、だろ?」
姉妹が声を揃えて笑い、脳味噌事件は取りあえず一件落着する。
「そうそう。それで、リカの出したモクズガニのもう一つの味噌汁の答えは、何なんだい?」
私が話しを振ると、おねえちゃんも本来の話題を思い出し
「カニを、味噌汁にする前に、火であぶるんじゃないかなぁって!」
ナルホド、そう来たか。
「確かに、魚介類を味噌汁にする時には、先に軽く炙っておくというのは、香ばしく仕上げる一つの方法だね。悪くない着想だと思うよ。」
「お父さんが、そういう言い方をするって事は、ハズレかぁ。」
リカの表情は、出した言葉に比べると、それほど残念そうではない。
カニを炙るという答えには、一定の自信が有ったにせよ、それが正解ならば凡庸な結論だと感じる処があったのだろう。
「おねえちゃん、もういいよね。答えを聞こうよ!」
妹の提案に、姉もうなづく。
「まず、生きたカニを出刃包丁でバラバラにする。次に擂鉢と擂粉木で、細かく潰すんだよ。潰したカニを笊で濾す。」
「殻しか残らないんじゃないの?」この工程に、リカは不満そうだ。
「ザラザラだよね。」リサもおねえちゃんに同意する。「砂ばっかりのアサリみたいになるよ?」
「お味噌汁にするのは、垂れてきた下の液体部分だよ? 笊に残った殻の方は使わないのさ。」
「えー! なんだか勿体無くない?」カニ娘のリカには、信じられない所業のようだ。
「そこが贅沢味噌汁のスゴイところさ。」私は太鼓判を押す。
けれどリサには、液体のみで具が無い味噌汁は、物足りなく感じられるようで
「下のドロドロだけを、お味噌汁にするの?」
「まあ、慌てずに聴きなさい。生の時には只のドロドロだったカニの汁だが、熱が通ると次第にフワフワに纏まってくる。―――そうだなぁ。ちょうど中華の卵スープか、淡雪みたいなカニ玉の感じだ。そして味わいは、正にカニそのもの。」
『食べたぁい!!』姉妹の声がユニゾンでコダマする。