起
リサを膝の上にのっけて、絵本の「さるかにがっせん」を読んで聴かせていたら、お姉ちゃんのリカが話に割り込んできた。
今度の休みには、皆で潮干狩りに出かけようと盛り上がっていたのだが、あいにくの雨で子供たちは少しタイクツしているのだ。
「サルは何で、カニを食べてしまわなかったのかなぁ。」
まず、リカが問題を提起する。
リカは小学4年生になったのだが、リサと同じくらいの時には、この絵本が大好きだった。
ちなみに、その当時に彼女が好きだった登場人物は、臼である。
理由は、「大きくて重いところ」だそうだ。
リサも、お下がりのこの絵本を気に入っている。
「おねえちゃん。サルはカニから、おにぎりをもらったんだよ。」と、その理由を考察する。
彼女に好きなキャラを訊いたことは無いけれど、牛のクソが出て来るたびに愉快そうに笑っているから、たぶんそいつなのだろうと、私は推測している。
二人の父親としては、将来彼女たちが交際相手として「臼」や「牛のクソ」を連れて来たら、絶対に認めないと密かに決意はしているのだが、どうしてもと強い意思を示されたら、最後まで反対を貫けるかどうか、自信は無い。
(素性はともかく、臼も牛のクソも、非力なカニの子供に見返り無しで肩入れするイイヤツだからね。)
「そうだね。お腹が空いて困っている時に、おにぎりをくれたカニさんを、食べてしまったら悪いよね。」
私はリサの気持ちを忖度して、彼女の発言を補強したのだが、それはリサの意図したところとは違っていたようで
「そうじゃないよ、パパ。おにぎり食べたら、お腹がいっぱいになるから、カニまでは入らないよ。」
と主張する。「それにカニは、おにぎりをくれたんじゃないんだよ。柿の種と交換だよ。」
なかなかシビアな見解だ。
「だからさ、サルまずカニを食べたらいいんだよ。おにぎりは、持っていけばイイじゃん?」
おねえちゃんの意見は、リサの見解に輪をかけて非情だ。
本来ならばリカの情操に頭を痛めなければならない処ではあるけれど、彼女は無類の甲殻類好きだ。
回る寿司を食べに行った時には、エビ・カニばかり狙っている。
なので、カニを食べずに見逃す事には抵抗があるのだ、とも考えられる。
以前はそれほどカニに執着する事のなかったリカだが、家族旅行で海辺の宿に泊まった時に、新鮮で大きな「ガザミ」の塩茹でを三杯酢で食べてから、カニ大好き少女に変わってしまった。
その後ズワイガニや毛ガニを食べさせても、美味しいとは言うけれど、彼女の中での不動の一位はガザミらしい。
確かに上物のガザミは、間人ガニのようなブランド・ズワイに負けず劣らず、圧倒的な美味を誇っている。
どのくらい美味いかの一例を挙げれば、『半七捕物帳』の作者である岡本綺堂は、怪談小説の名手でもあるのだが、その中の一篇に『蟹』という作品が有り、綺堂は登場人物の口を借りてガザミの美味さを熱弁している。
ガザミLoveのリカだが、安く売っているワタリガニには、そこまでの感動は無いようで
「ガザミとワタリガニは同じ物なのだよ。」
と分類学的に正しい知識を教えても、「そうなんだ。」と表面上の納得は示すけれども、心の底では別物だと考えているフシがある。
まあ、旬の時期の闇夜に採れた、大きくて部の厚いガザミは、香りも豊潤、味も鮮烈だから、スーパーで安く売っている身の細ったワタリガニが、同じ種類だと思えないのも分からなくもない。
話がそれた。
今重要なのは、ガザミがいかに美味しいかという事ではなく、サルがなぜカニを食べずに見逃したのか、という件だ。
あくまで「カニは食べておくべきだ」と主張するリカに対して、リサが反撃に出る。
「このカニが、食べれるカニかどうか分からないじゃない? パパどう思う?」
―――リサよ。『食べれる』じゃなくて『食べられる』が正しい。
瞬間的にそんなセリフが頭をよぎったが、今問題なのはそこではない。
「よし、じゃあ、このカニが何ガニなのか考えてみよう。」
娘二人が、真剣な表情で頷く。
二人とも、相手には負けたくないのだ。
「柿の種を植えて、柿の実がなる場所にまで移動できるカニだから、海の中にしか住めないカニではない。……これは良いかい?」
「うん。」と同意を示したリサは、「おねえちゃん、ガザミは海にしかいないよね。」
「……まあね。」と妹の指摘に、少し忌々しそうなリカ。「ズワイガニも毛ガニ・クリガニも違うね。」と海のカニを付け加える。
少し調子に乗ったリサは「タラバガニでもない。」と得意気だが、これは不味い発言だった。
直後に、おねえちゃんから「タラバガニは本当のカニじゃないんだよ。クモの仲間。」と指摘を喰らう。
生意気な妹を黙らせた処で、リカは「真水に住むカニだったら、サワガニかなぁ? お父さん、サワガニって美味しい?」
日本に住む純淡水産のカニはサワガニだ。
「お父さんは食べた事が無いけれど、殻のまま唐揚げにして、塩を振って食べることは出来るらしいね。」
本当の事を言うと、食べた事がある。カリカリした食感に野趣が感じられて楽しい。
けれども、そんな風にサワガニの食感を褒めたら、リカは絶対に捕まえに行こうと騒ぐのに違いない。
渓流でサワガニを探すのは楽しいものだが、小4のリカはともかく、保育園の年長さんでしかないリサには、ちょっとリスクが大き過ぎる。
山の天気は変わり易く、水量変化の激しい渓流での川遊びは、砂浜での潮干狩りよりも、水に流されたり深みに嵌ったりという危険性が高いのだ。
「けれどリカ、サワガニは小さいんだ。サワガニのハサミも、とっても小さい。柿の種を持って歩くことが出来るかな? もし柿の種が持てても、オニギリを持つのは難しいかもしれないよ。」
仮にサワガニに握り飯を与えたら、食べはするだろうが、ご飯粒を一粒ずつしかつまめまい。
まあ、他の種類のカニに試みても、カニという生き物の口自体が小さいから、同じような結果になる事は目に見えているが、最低限の条件として、ミニサイズの握り飯程度は持つことが出来る大きさのハサミは備えていて欲しい処だ。
「じゃあ、真水の所にも住めるカニで、サワガニよりも身体も爪も大きいカニじゃないと、いけないのか。……どんなカニがいるのかなぁ?」
リカは居間から走り出して行ってしまった。子供部屋から、図鑑を取ってくるつもりなのだろう。
お昼ご飯の支度をしている嫁さんが「走るなぁ!」と叱っているのが聞こえる。
「おねえちゃん、ママに怒られたね。」リサは少し嬉しそうだ。「パパ、シオマネキは違うかなぁ?」
潮干狩りに行く予定だったから、リサもリカも『河口や砂浜の生き物』は予習している。
シオマネキは「海と川の水が混じり合う所 汽水域」に登場するカニだ。
オスは片方のハサミだけが大きく発達し、独特のアクションでメスを誘う。
この仕草が満ち潮を呼び込んでいるように見えるから、シオマネキという名前が付いたのだ。
「シオマネキは河口の干潟にまでは住めるけど、柿の木が生えている所までは、登って来ないね。だから、シオマネキは違うと思うなぁ。」
「そうかぁ。」リサが残念そうに口を尖らせる。
策士の妹は、おねえちゃんが居ない内に、決着を付けてしまう作戦だったものと見える。
「でもパパ、シオマネキは食べれるの?」
「食べ『ら』れるよ。シオマネキを殻ごと砕いて、塩辛にしたのが『がに漬け』っていう食べ物だよ。」
「おいしい?」
「そうだねぇ……子供の歯しか生えていないリサには、硬くて食べづらいかもしれない。大人になって、お酒が飲めるようになったら、美味しさが分かるかもね。」
「じゃあパパ、リサが大人になったら、お酒を飲んで『がに漬け』を食べよう。」
「よし。決まりだ。」
急ぎ足の忍び足で戻って来たリカは「お父さん、これ使っても良い?」と私のタブレット端末を掲げて見せる。
図鑑を取りに行ったのではなく、ネットで検索するつもりなのか。
周辺情報も併せて俯瞰的に調べてみたいのであれば、ネット検索よりも図鑑の方が勝っているようにも思えるのだが、ピンポイントで結果を知りたいのなら、検索機能は確かに手っ取り早い。
「いいよ。何が出るかな?」
キーワードの設定の仕方で、いくつか出てくる答えの予想は付くが、リカの導き出した答えは『サワガニ』と『モクズガニ』だった。
まあ、予想の範囲だ。商業利用されている川のカニといえば、主にこの二種だから。
私はサルと戦うことになったカニは、水辺から多少遠い所にまで離れても行動可能なカニという点から、アカテガニかベンケイガニもしくはその亜種であろうと思っている。
殊に、アカテガニは随分と陸上生活に適応しているので、一種だけを選べと言われたら、そいつを候補に挙げるだろう。
リカがキーワードに、『川』『カニ』だけでなく、『陸上に適応』か『乾燥に強い』あたりを入れておけばヒットしたかもしれないが、『川』と『カニ』だけでは検索上位には登場できまい。
今すぐ指摘しても良いのだが、モクズガニの生活について調べたら、水中にいるかほとんど水辺から離れない事が分かるだろうから、それをリカが気付いてからでも遅くないだろう。
リカが出したモクズガニは、ヅガニ・ツガニ・川ガニ・モクゾウガニなどの地方名があるカニで、美味で高価なカニとして有名な上海ガニの近縁種。
最大成長時に、大きさが上海ガニに比べて若干小さい事を除けば、姿形も味もほとんど同一だ。
養殖物の上海ガニは、抗菌剤や成長ホルモンに防腐剤など薬漬けの物があり、薬害が問題になったりしているから、食べようと思って手にいれるのならば、上海ガニよりモクズガニの方が安全。
しかも値段もリーズナブル。
「モクズガニだって。……美味しいカニみたいだよ。お父さん、モクズガニ食べたことある?」
リカの興味は、まず食味に集中する。
「塩茹で・カニ飯・カニ汁は食べたかな?」
「カニ飯って?」塩茹ではガザミ他で既に経験しているから、リサはカニ飯が気になるようだ。
「カニの炊き込みご飯だよ。タケノコご飯とか鶏飯みたいな、味付けご飯。」
「モクズガニはどんな風に入れるの。」リカは料理法も気になるみたいだ。「カニ寿司にするズワイガニより小さいみたいだね。殻ごとぐちゃぐちゃに潰して、ご飯と混ぜるのかなぁ?」
リカの頭の中でカニ飯は、どの様に映像化されているのだろうか。それでは殻が邪魔で、食べづらいだろう。
「甲羅を外してから、身と甲羅の両方ともお米に乗せて、だし汁で炊き上げるんだよ。モクズガニはカニ味噌が濃厚で美味いんだ。カニの身を味わうというよりも、カニからにじみ出る旨味を吸い込んだご飯を味わう料理かな。」
「お父さん、ずるーい!」
「パパ、ずるーい!」
期せずして、二人の娘から同時に非難を受ける。
「なに言ってるんだよ。お父さんが食べたのは、ずっと昔々のオマエたちが生まれる前の話だよ?」
「じゃあさ、じゃあさ、カニ汁は? パパ、カニ汁は?」
なんだか、リサは凄くエキサイトしているようだ。おねえちゃんとは違って、リサはリカほどカニに執着してはいなかった筈なのに。
おねえちゃんの方は、顔を真っ赤にして私を睨み付けている。
どうして、こう成った?
「いやぁ、お父さん、忘れちゃったなぁ。とっても前のことだから。」
「ウソだ。ぜぇーったい、ウソだ。」リサは容赦が無い。
「お父さん。本当の事を話して。本当は美味しかったんでしょ?」
おねえちゃんも、本当の事を話すまでは許してくれそうもない。
これでは、浮気がバレたダンナの様ではないか。
「仕方がないな。それでは本当の事を話してやろう。……けれど、お前たち。この話を聞いても、後悔するんじゃないぞ?」
二人が真剣な目をして、コクリと頷く。
「まず始めに言っておくと、モクズガニのカニ汁は、二種類ある。」
余りの驚きに、大きく見開かれる二人の眼。