09
雪さんは大きなため息をつくと、ゆっくりと俯いた。
「……私が殺した従兄は、『心臓麻痺』で死んだことになった。私以外の誰もが、そう認知していたわ。――私が、それを望んだから。けれど、人の命を奪った対価は大きかった」
「対価……」
「――従兄の家から泣きながら帰宅した私にね、妹はこう言ったの」
『……あなたは誰ですか?』
僕は目を見開く。雪さんは、その日のことを思い出しているようだった。足もとに生えている茶色の草を見ながら、話を続ける。
「初めは、精神的にまいった妹が、一時的に記憶をなくしているのかと思った。けれどね、違うの。妹だけじゃなくて私の父も、友達も、親戚のおばさんも、近所のおじいちゃんも、仕事先の人たちも、皆。――皆、私のことを覚えていなかった。行く先々で言われるのよ、『あなたは誰?』って」
誰も、自分のことを知らない世界。
自分の過去が、人との繋がりが、消えた世界。
「――それはね、『存在を消された』のと一緒なの。殺されたような、もの」
「それが、見殺しを選んだ対価……」
「まさか」
彼女は笑う。影の目立つ、その笑顔。
「そんな生ぬるいものじゃない。――前に言ったでしょう? 私は不死身だって。あれも、『見殺し』を選んだ対価のひとつ。自殺権の放棄どころか、私は死ねない身体になった。年もとらない。不死身じゃなくて、不老不死というべきだったわね。――従兄を殺したのは、今から三十年前。その時からずっと、私の容姿は変わらないの。……何度も首を吊ったし、電車にも飛び込んだし、高層ビルから飛び降りたこともある。けれど、どれもこれも意味がなかった」
「……そんな」
「それに」
彼女は僕の顔を見て、笑った。
「新しい人間関係を築くことも、できないの。皆すぐに、私の存在を忘れてしまう。私はずっと、この世界から『存在を消され』続けるの。――誰も私のことを知らない世界で、私は永遠にさまよい続ける。それが、見殺しの対価よ」
「……けれど僕は、あなたのことを」
「それは君が、私のお客様だったから」
僕の言いたいことを察したのか、彼女は悲しそうに笑った。
「――何故かはわからない。けれど、……従兄を殺してから、かな。私には、『蘇生』したり、『記憶を操作』する能力が与えられた。そして、蘇生屋として誰かと関わっている時だけは、人と繋がっていられるの。――お客様だけは、私の存在を忘れないから。ただしそれも、お客様の時だけよ。……きっと君ももうすぐ、私の存在を忘れる」
倒れている小村の方を見ながら、雪さんは微笑んだ。
「君は蘇生を選び、契約は無事に完了した。……君はもう、私のお客様じゃない。だから」
もうすぐ僕は、雪さんのことを、忘れる……?
遠くの方から、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。その音を聞いた彼女が、ゆっくりと立ち上がる。僕はその姿を見つめ続けた。――絶対に、忘れないように。
彼女は、そんな僕を見下ろし笑った。
「私はまた、誰とも繋がっていない世界に戻る。……森野君。君もこれから、大変な道を進むことになる。けれど君ももう、『自ら死ねない』身体になっちゃったから。償い続けて。人の命を奪った、その重さを。――死ぬまで」
「……雪さん!」
歩きはじめていた彼女に、僕は叫んだ。彼女は立ち止り、顔だけをこちらに向ける。
「もしも。――もしも僕が、『見殺し』の道を選んでいたら。それでもあなたは、契約を結んでいましたか? 自分と同じ境遇の人間を、……『この世の誰とも繋がっていない人間』を増やすことになる。それでも、あなたは」
僕の言葉に、彼女は微笑んだ。
「――さあ?」
はぐらかすような口調でそう言うと、彼女は闇の中へと、消えた。
救急車の中から、担架が運ばれてきた。赤いランプが断続的に、河原を照らす。僕はその様子を、呆然と見ていた。救急車に乗せられた小村は、ちゃんと息をしていた。
小村の腹に刺さったナイフを、僕は見つめる。
あれが、全ての始まりだったのだと。
「あなたが彼を発見したんですか?」
救急隊員に声をかけられ、僕は首を振った。
「……僕が。僕が、彼を刺しました」