06
だだっ広い敷地。庭に並ぶ、立派なゴールドクレスト。大きな犬小屋の中にいるクリーム色のゴールデンレトリバーは、僕に向かって吠えもしない。番犬としては役に立たないだろうけど、眠たそうな目でこちらを見上げている犬は、妙に可愛かった。
小村の家は、僕が想像していたよりも豪邸だった。……僕に金をせびる理由なんて、なかったはずだ。僕の住んでいるボロボロの平屋を、小村に見せてやりたい。
「別荘みたいな家ねー」
雪さんが、感心したような声を出す。そんな彼女の左手には、空になった牛乳瓶が握られている。……捨てる場所がなかったらしい。僕は苦笑しながら、雪さんに話しかけた。
「雪さん、僕はね。小村にいつもお金を要求されてました。……どうですか、この家を見て。お金に困窮してるように見えますか」
「――さあ?」
『そんな風には見えないね』と返してくれると思いこんでいた僕は思わず、「え?」と声を漏らした。雪さんは吠えないゴールデンレトリバーを見ながら、
「森野君が納得するように考えれば? 私は何も言わないよ」
どこか突き放すように、そう言った。
……僕が、納得?
違和感を、僕は振り払おうとする。ここで迷ってちゃだめだ。
小村は『金持ちのボンボン』で、『何の苦労もなく生きて』きて、――なのに『暇つぶしのために僕に金をせびってくる』ような、『他人に悪い影響しか与えない人間』なんだ。
そうだ、だから。こいつが死んだって、問題ない。
僕がこいつを殺したって、誰かが困るわけでも、地球が爆発するわけでもない。
いやむしろ、こいつが生きていたせいで困っていた人間はたくさんいたはずだ。僕みたいに。
そうだ。僕がやったことは、間違えてなかった。
これから選択することだって、間違いじゃないさ。
「雪さん、僕は……」
そう言いかけたところで、小村の家の扉が開いた。心臓が早鐘を打つ。その音とは対照的に、僕はゆっくりと後ろを振り仰いだ。
振り仰ぐと、そこには、
そこには、やつれた中年女性が立っていた。
こけた頬。土色の肌。乱れた髪。落ちくぼんだ、目。
その姿が、働きづめで疲れきっている母の姿と被って、僕は言葉に詰まった。
女性の横に立っていた二十代の男性が、僕に気付いて軽く会釈した。それにつられて、僕もお辞儀をする。小村のお兄さんだと思われるその男性は、僕の制服を見て、困ったように笑った。
「……もしかして、仁志のクラスメイトかな? ごめんね。今からちょっと出かけるから――」
「あ、はい……」
「仁志? 仁志が帰ってきたの!?」
男性の隣にいた女性が、ひときわ大きな声を出す。驚いている僕に向かって飛びかかろうとする女性を、男性が必死になって引きとめた。
「母さん!! あれは仁志じゃない!! 仁志は――」
「嘘!! 仁志が帰ってきた!! 仁志、仁志が」
女性、……いや、小村の母親はそこで言葉を切ると、子供のように声をあげて泣き始めた。
「――ごめんね。今日はちょっと……」
小村の兄は気まずそうにそう言うと、扉を閉めた。――それでも。隙間から漏れ聞こえる、悲鳴。小村の名前を呼び続ける、声。
突き付けられる、現実。
僕は、小村仁志を、殺した。
人の命を、奪った。
『森野君が納得するように考えれば?』
そう。僕は、僕を納得させようとしていた。
あいつを完璧な悪者に仕立てあげて、あいつが死んでも悲しむ奴なんか誰もいないって思いこんで、心の中で手を合わせて、――それだけで終わらせようとした。
病死なら、丸く収まると思っていた。けれど。病死だろうが殺人だろうが、
人が死ぬという事実は、同じだ。
仁志、仁志と名前を呼ぶ声が止まらない。
僕の心臓の、音も。
『守はね、お母さんにとって大切な子なんだ。だからどうか、どうかこのまま……』
――死なないで。
「……雪さん」
終始無言だった彼女に、僕は声をかける。扉の向こうを見ていた彼女は、僕の方に顔を向けた。――笑って、いなかった。
「雪さん。僕は……」
小村の名前を呼ぶ声。呼び続ける、声。
「僕は、生きて償います。死ぬまで償います。……『あいつ』に、殺されちゃうかもしれないけど。それくらいのことをしたんだ、僕は。――だから」
僕は力なく笑う。思い浮かぶ母の顔。けれど、僕は。
「雪さん。小村を、……小村を、生き返らせてください」