01
人を殺した。――ひとを、ころした。
ナイフを抜かなければ、助かったんだろうか。
奴の傷口からあふれ出る血を見ながら、僕の手の中にある真っ赤なナイフを見ながら、そんなことを思った。
ピクリとも動かない奴の身体を、つま先で蹴ってみる。けれどやっぱり反応がない。恐る恐る、奴の首に手を当てて、脈拍を確認した。――いや、確認できなかった。
「……死んで、る」
耐えきれなくなった僕は物陰に移動し、激しく嘔吐した。
――どうして。どうして、こんなことになったんだろう。
「大丈夫?」
背後から急に声をかけられて、僕はとび跳ねんばかりに驚いた。口元を拭いながら、ゆっくりと振り返る。――そこには、見知らぬ女性が立っていた。二十五、六歳だろうか。長い黒髪が、風のリズムに合わせて揺れている。
彼女はうっすらと笑みを浮かべ、こちらを見ていた。……まるで、幽霊みたいに。
僕は死体の方に目を向けないよう注意しながら、頷いた。
「……だ、大丈夫、ですから」
「見てたよ、全部」
僕は目を見開く。……見てたって、それは、僕が、
「人を殺したでしょう。ナイフで」
そう言われて、僕はもう一度、胃の中のものを吐きだした。
「よお、森野。またちょっと金貸してくれよ。二万でいいからさあ」
放課後、捕まらないようさっさと帰ろうとしていた僕の前に、小村が立ちはだかった。学年で一番背の低い僕にとって、小村は巨漢だ。一歩後ろへ下がる僕を見て、小村は笑った。
「いいよなあ?」
小村の家は、お金に困っているわけではない。むしろ困窮しているのは、僕の家の方だ。父は身体が弱く、今は入院している。母は毎日、朝から晩まで休みなく働いて、それでも苦しいくらいなのに。
貯金していたお年玉は、すべて小村に吸収された。中学生の小遣いなんて、高が知れている。二万円なんて、用意できない。母の財布からお金を抜くなんて、そんなことは……。
「――もう無理だよ」
「ああ!?」
小村に胸ぐらを掴まれて、一瞬息ができなくなる。「ぐっ」と声を漏らす僕を見て、小村は声をあげて楽しそうに笑った。僕の胸ぐらを力任せに引っ張り、顔を近づけると
「二万だぞ。いつもの場所に持ってこい。夜の九時だ。遅れたら殺すからな」
そう言い放ち、僕の鳩尾に蹴りを食らわせた。
小村を殺す。そんなことを考えていたのは確かだ。
だからこそ僕は、約束の場所――人気のない河原――にお金は持っていかず、代わりに果物ナイフを持っていった。
――違う。本当はただ、ナイフで脅すつもりだったんだ。
「これ以上金を要求してくるな」って、そう言えたらよかった。
「なのに小村君が突っ込んできて、揉み合ってるうちに刺しちゃったわけだ」
胃液まで吐きつくした僕を見て、見知らぬ女性は腕を組んだ。口元は笑っていて、けれど楽しそうではなかった。苦しむ子供を見守る保護者のような、目。
僕は女性の姿をもう一度確認する。嫌な言い方になるが、ぱっとしないグラビアアイドルのような顔だ。丈の長い茶色のコートに、黒のブーツ。……身長は、百六十センチほどだろうか。それでも、チビの僕からすれば大きく見える。
「……あなた、なんなんですか」
四つん這いになっていた僕はのろのろと立ち上がりながら、女性を見上げた。
「私?」
彼女は腕を組んだ体勢のままでしばらく考えた後、
「――蘇生屋、とでもいっておこうか」
「……そ?」
聞きなれない単語に、僕は首をかしげた。彼女は、ここからは見えない小村の死体の方を見ながら、白い息を吐く。それから僕の方に視線を戻し、微笑みかけた。菩薩のようで、けれど背筋が寒くなる、微笑。
ゆっくりと。けれど間違いなく、彼女はこう言った。
「――彼、……小村君だっけ? 生き返らせてあげようか」
「え……」
「生き返らせてあげる。あなたが望むのなら、ね」
「……あなた、お医者さんなんですか」
僕の質問がよほど間抜けだったのだろう。彼女は声を押し殺してくすくすと笑った。
「私が医者? まさか。彼はもう死んでるわ。普通の医者なら、生き返らせることはできない」
「それじゃ、あなたは……」
「蘇生屋」
先ほど言っていた聞きなれない単語を、彼女はもう一度口にした。
「私はね、死者を甦らせることができるの。ただ」
「……ただ?」
「恐らく、あなたが思っているような蘇生とは違う。……甦らせるって、あなたの中ではどういうイメージ?」
訊かれて、僕は黙り込んだ。いきなりそんな非現実な話を、しかもこんな混乱している時に問われても、答えられるはずがない。
そのことに気付いたのか、それとも僕の想像力のなさにあきれたのか、彼女は続きを話し始めた。
「時間を巻き戻したみたいに小村君がすんなり生き返って、いつも通りの平和な日常が戻る。そう考えるかもしれない。――けれど、私の力で小村君を生き返らせても、そうはならない。『あなたが小村君を刺した』という事実は消えないし、『小村君が死んだ』という事実は『小村君は死にかけた』という事実に変わるだけ。――つまり、小村君を生き返らせたとしても、あなたの罪が消えるわけじゃない。……そうね。小村君を蘇生させたなら、あなたの罪状は殺人未遂かな? ああ、あと、銃刀法違反?」
それから、と付け加えるように彼女。
「小村君を生き返らせた場合、当然だけど小村君には『あなたに刺された』記憶が残っている。……報復とか復讐とか、あるかもね」
僕の顔から、さあっと血の気が引いた。小村を生き返らせたら、僕が小村に殺されるかもしれない。
僕の反応を見ていた彼女はやがて、挑発的な笑みを浮かべた。
「――もうひとつ、あなたには選択肢がある。『小村君をこのまま蘇生させない』こと」
「……それだと、僕は殺人未遂じゃなくて殺人者だ」
だったら蘇生させたほうが、まだマシじゃ――
「いいえ」
僕の言葉をさらりと否定した彼女は、目を細めた。
「私、物事を隠蔽したり改竄したりするのも得意なのよ」
「それって、どういう……」
「あなたが『このまま小村君を殺す』、つまり蘇生しない方を選択した場合は、『あなた以外の全ての人』の記憶を操作してあげる。そうね……。小村君は『殺人』ではなく『病死』だったことにしましょうか。そうすれば誰も被害者にはならないし、加害者にもならない。あなたも、世間から殺人者として見られることはない。……『小村君が殺された』という真実を知っているのは、あなただけになるわ」
言葉を失う僕に、彼女は笑いかける。
「――小村君を生き返らせるのか。このまま殺すのか」
菩薩のようで、般若のような、笑顔。
「世間から殺人未遂犯として見られるか。自分の中でだけ、殺人の罪を背負うか」
彼女はその笑顔を、僕に向けた。それは救いなのか、それとも
「選んで」
――罠、なのか。