最終演目Ⅱ
内部はがらんどうとしていた。
何かが祀られていることもなく、あるのは誰かが置き忘れた一本の和傘だけ。外からも鍵を掛けられるらしい扉は押しても引いてもびくともせず、湊は冷たい木の床に座り込む。
五分、十分、二十分。定期的に目を開けて確認してみるけれど、見えるものが変わることはない。
ぽつり。しばらく待っていると頭の上に冷たい雫が落ちた。雨漏りだ。一見そうは思えないけれどこの神社は老朽化が進んでいるらしい。雫を避けるために隣へ移動してもう一度目を瞑る。
ぽつり。再び頭の上に雫が落ちる。見上げればそこも雨漏りしていて、どういうわけか先程の場所は濡れてすらいない。湊は首を傾げながらもう一度移動する。
ぽつり。同じく。まるで雨粒が湊の頭を追い打ちしているようだった。
そんなことが続くものだから鬱陶しくなって、置き忘れた誰かに許しを請うて和傘を差す。
工芸品のように美しい和傘だった。持ち手の部分には指先ほどの鈴がいくつか括られていて、持主に愛用されていたことが窺える。室内で傘を差すというのは落ち着かないが、これで雨漏りの心配はなくなる。
『代筆屋の子、遅い』
遅いとは言葉ばかりで、幼い少女の無感情な声がした。瞬間、視界が明転する。
◇◆◇
――眩しい。
暗い世界に慣れ切った湊の目はこんな感覚をすっかり忘れていた。明順応が済むまでの長く短い数分、湊は視界以外から情報を仕入れる。
聴覚。話し声こそ少ないが賑やかな場所だ。大勢の足音に紛れて、信号機とそれにいら立つエンジンが鳴いている。
嗅覚。少し息苦しい。野焼きとはまた違った嫌な臭いと空気の重さがあって、湊は口と鼻を両手で覆う。
ようやく、湊が薄っすらと目を開けると、予想通りであり想定外の景色があった。
朝日が昇っていたのだ。ビル群の隙間から万民に降り注ぐ太陽光。
立ちすくんでいるとけたたましいクラクションがあって、湊は交差点の中心にいた。信号はとっくに変わっており急いで渡る。
それは東京、スクランブル交差点。湊の地元からは遠く離れた場所だが、少なくともスーツを着た人々が歩いている。
帰って来たのだ。人間の世界に。そして湊のちょっとした冒険は終わりを告げた。
辺りを彷徨っていると警察に保護された。曰く捜索願が出されており、約一週間の間行方不明だったらしい。神隠し的な事件に若い警官は興味津々だったけれど、あとから来たベテランの警官がそういうこともあると嗜めていた。
数時間後、駆けつけたお父さんの車に乗って湊は家に帰った。勝手に家を出た反省と、同じくらい冒険について話したかったけれど、久々の再開は車内に沈黙を与えた。
「元気にしてたか?」「おばあちゃんが心配してたぞ」そればかり。
車に揺られながら湊が好きな音楽をBGMに、代筆屋のラジオを恋しく思っていると、気付けば眠りについていた。慣れた芳香剤が落ち着くのだ。
起こされたときには目の前に自宅があって、湊は「ただいま」を言った。何事もなかったように、しかしどこか上ずった「おかえり」を聞いたら何故か涙が出そうになった。
元々休みだったお父さんと急遽パートを休んだお母さん、湊の帰宅に涙を浮かべていたおばあちゃんといつもは料理をしないおじいちゃん、家族全員で買い物に行って料理をした。普段なら高いと言って買わない良いお肉も気にせずカゴへ入れて、徐々に豪勢になっていく食卓を笑いながら彩っていく。
旅行に行ったときよりも多くなった品数を前にしながら、家族みんなでお昼を食べた。車内とは違い会話は弾んで、けれどそれをタブーとするように何があったかは聞かれなかった。「ちゃんとご飯食べてた?」「寂しくなかった?」それくらい。今日はそれでもいいと思う。また今度どんなことがあったのか聞いてもらおう。信じてくれるかはわからないけれど。
買い物途中からわかっていたことだけれど、ご飯はたくさん余った。その日の夕飯も、次の日の朝食も、数日間は豪勢だった。
学校に行くと、あの日約束をしていた友達に謝られた。家を抜け出そうとしたときお母さんに見つかって叱られていたらしい。「山に落ちてた」と双眼鏡を渡しながら謝られて、「別に怒ってないよ」と伝えた。むしろ提案してくれたことに感謝しているくらいだ。
湊が休んでいる間の出来事を、交換し合うように話した。一週間は同じ話題で盛り上がっていたと思う。授業は難しくなっていた。
そして今日、人間の世界に戻ってから丁度一か月になる。
宿題を終わらせてノートを閉じると、湊は天井を見上げる。そこには木目のよわいくんがいて、いつも見守ってくれる守護者のような存在だ。
「お姉さんは元気かな?」
寂しい思いはしていないだろうか。湊はしている。こんなにも幸せな日常を送っていても、強欲にも代筆屋さんのことを考えている。
手紙を出してくれると言っていた。あれから毎日郵便受けを確認しているけれど、手紙はまだ届いていない。
湊の方から手紙を出そうと書いてみたけれど、どうやったら届けられるのかわからない。住所のところに妖の世界と書いても自宅に戻ってきただけだったし、待つことしかできないのがもどかしい。
聞きたいことがまだ残っていたのに。話したいことたくさんできたのに。湊は代筆屋の影を探してしまう。
「よわいくんは、向こうへの行き方知ってる?」
あの山へもう一度行ってみたり、夜に許可を貰って出歩いてみたり、思いつくことは全部試したけれど世界を渡れる気配はない。
代筆屋さんは行き来できないと言っていた。だからもうそろそろ諦めるべき、なのかもしれない。嫌だな。
「偶にね。もしかしたら全部夢だったのかもって、思っちゃうんだ。そんなはずないのにね」
全部、全部覚えている。けれど証拠がないのだ。湊の記憶以外にあの世界を認めるものが存在しない。だから手紙を待っているのにそれも届かない。だから誰も話半分にしか聞いてくれない。否定こそされないけれど、そこには気遣いがある。
「ねえよわいくん。もう一度お姉さんに会いたいって、妖の世界に行きたいって言ったら、僕は悪い子かな?」
湊はランドセルから、授業で書いた家族への手紙を取り出すと、鉛筆で末尾に書き加えた。
『また手紙書きます。いつになるかはわからないけれど、絶対に』
瞬間、視界が暗転した。
◇◆◇
『驚いた。代筆屋の子、戻って来るのは二人目』
驚いたとは言葉ばかりで、さして何も感じていない声がした。辺りはがらんどう、手元には一本の和傘。
『世界を渡ったばかりは不安定。移動する準備ができたら移動する』
湊が疑問を口にする前に声は答えてくれた。
『しかし条件。世界の行き来は等価交換。代筆屋の子、それ踏み倒した。私の力勝手に使った』
「もしかして怒ってる?」
『怒ってない。しかし私の力は大切。ここに来ても、もう世界を渡らせてあげない』
条件と言うには随分と優しいように思えた。行き来できないのは痛手だけれどそれは既に知っていたし、何より移動する準備ができたというのはこのような心境のことを指すのだろう。
「大丈夫。みんなは僕を待っていてくれるから」
ひと月ぶりの街だったけれど、足が道のりを覚えてくれていた。何から話そうか頭の中を整理しているうちに満月のロゴが見えて来る。
代筆屋。扉の前で数回の深呼吸。
カランコロン――。落ち着いた喫茶店を思わせるベルの音が鳴る。
いつものソファに座っていた代筆屋さんは湊を見て一瞬固まった。
「お姉さん、ただいま。会いたくて帰って来ちゃった」
「――おかえり、少年」
聞きたかった声色だ。何事もなかったように、しかしどこか上ずった「おかえり」を聞いたら何故か涙が出そうになった。




