2.満月の昇る朝
満月の下。カランコロンと落ち着いた喫茶店を思わせるドアベルが鳴った。
祭りの熱気や喧騒はドアをひとつ挟むだけですっかり失われてしまい、青白い光と凍えた空気が湊の身体を冷ましていく。
室内はお世辞にも整頓されているとは言えない状況であった。最低限床は見えているけれど、それ以外が無造作に散らかっている。見当たらないラジオからノイズ混じりの穏やかなBGMが流れている。
代筆屋さんのことを知っている者が見ればそれは神秘性の延長に見えたのかもしれないが――。
「うげっ」
月明かりに光る埃にそれを見出せるほど、湊は代筆屋さんを知らない。
しかし、今、大切なのは部屋の様相ではない。見知らぬ世界に迷い込んだことでもない。
決心したように塊の空気を吐くと、二人は目を合わせ、先に口を開いたのは湊ではなかった。
「怖くなかった?怪我はない?いや、あんな巨体に迫られて怖くない訳ないよね――、私は大きくないから怖くないよね?顔は事情があって見せられないけど――」
なんて。
まるで先程まで見せていた凛とした雰囲気は嘘であるかのように、あたふたと、矢継ぎ早に、言葉を重ねた。顔なんか見えなくても焦っているのがよくわかる。
湊にはそれが可笑しくて、尋ねようとしていたことなんて些事であるかのように思われた。
「僕は大丈夫。怪我してないし、彼もお姉さんも怖くない。確かに最初は吃驚したけど、人を見た目で判断しちゃだめって先生が言ってたもん」
そうだ。大人たちは皆口を揃えてそういう。湊にとってもそれは認めるところだ。
そんな健気としか表現できない湊の言葉に、代筆屋さんは呆気に取られたように固まって、何が可笑しかったのか肩を震わせる。
「お姉さん――?」
「いや、違うよ。そっか、うん――」
代筆屋さんは一人で納得したように、言葉を飲み込んで頷く。優しく、微笑んでいるのがわかった。
「良かったよ。トラウマになってたりしたら、私にはどうするべきなのかわからなかったから」
湊は代筆屋さんのことを何も知らない。きっと、この世界にいる誰よりも関わった時間は短い。けれど思うのだ。
小さな代筆屋の荒れた部屋、打って変わった神秘さの欠片もない雰囲気。
「お姉さん。お姉さんはずっとその方が良いよ」
どうにも言葉足らずで、それなのに満足げで、寒暖差で火照って見える微笑みで。湊の真意は正しく伝わったのだろうか。
一枚布の先、表情は読み取れない。豆鉄砲を食らったように固まってしまわれては声色にもそれを求められない。
「――ありがとう。そして本当にごめんなさい」
◇◆◇
それから、数日後。
地平線の向こう側から満月が昇って、常夜の世界に朝が訪れた。朝と呼ぶには薄暗くそれ以上明るくなることもないから不思議だけれど、この時間帯に目覚めるのならそれに間違いはないだろう。湊も目覚まし時計に頼ることなく起きられるくらいにはこの環境に慣れてきていた。
つまり、どれだけの楽観主義者であっても否応なく気付くのだ。湊が迷い込んだこの世界は夢でも何でもなく現実であると。
それにショックを受けたのは束の間のことで、帰る方法を探さなくてはと本格的に思案し始めたのは昨晩のことだ。
悩み事の有無に関わらず、代筆屋での仮住まいが決められた湊のやるべきことは変わらない。
代筆屋さんの少女趣味全開なロフトから降りる。すぐ下には代筆屋さんの書斎がある。家の中できちんと整頓されていたのはそことロフトだけだった。代筆屋に来た初日の大掃除といえば、夜にぐっすりと眠れたのを覚えている。
すぐそばにある部屋が代筆屋さんの寝室だ。物で溢れかえっている方がかえって落ち着くと寝室だけはそのままにしてある。床の物を踏まないように、物音を立てないように、慎重に進む。ベッドにいる代筆屋さんを起こすことが湊の一番にやる仕事、なのだけれど――。
「――お姉さん?」
そこに代筆屋さんはいなかった。先に起きたのだろうか。
来た道を戻ってキッチンを素通り、玄関と代筆屋の窓口とリビングが併設された部屋。
「お姉さん?」
代筆屋さんが日中最も長い間いるのがそこ、なのだが見当たらない。代わりにと言わんばかりに、机の上にはメモ書きがあった。
『朝食』
一人で食べろ、ということらしい。昨日までは一緒だったのに。
机の上には目玉焼きが乗った食パンとコップ一杯のオレンジジュース、空になったあとのお皿とコップ。代筆屋さんは既に朝食を終えてしまっているらしい。
「――いただきます」
湊は不満げに、合掌。ご飯は一緒に食べた方が美味しいのに。
酸味の強いオレンジジュースで頭をはっきりとさせる。噛んで弾けた黄身が口周りに付着する。美味しい。けれどやっぱり、寂しい。
寂しいのは嫌いだ。賑やかな方が好きだ。
湊はラジオのスイッチを入れた。適当につまみを回していくと、ホワイトノイズの合間にニュースの声が聞こえる。
この家には娯楽と呼べる娯楽がなくて、一人で外に出ることも許されていない湊は、こうしてラジオを聞いていることが多い。難しい言葉ばかりでわからないし正直面白くない。
――カランコロン。ドアベルが鳴った。
湊は残りの食パンを口へ詰め込み、ジュースで流していく。
来客だろうか。それとも外へ出ていた代筆屋さんが帰ってきたのだろうか。
どちらにせよ、出迎えなければ。
一瞬ふらつきながら玄関へ駆け足で向かう。そこには小さな袋を提げた代筆屋さんがいた。
立ち止まって、目が合って、寸前のところで口の中を空にする。
「――お姉さんおかえり!」
「無理に飲み込んだりしたら詰まらせるよ少年」
少年、というのは湊のことだ。何度名乗っても覚える気がないのか少年としか呼んでくれない。代筆屋さんは忘れたと言って頑なに名前を教えてくれないし、距離を感じる。
だからこれくらいは応えて貰おうと、湊は同じ言葉を繰り返した。
「お姉さんおかえり!」
さもなければ通さないという勢いで。
代筆屋さんは面倒臭そうにため息をひとつ零して、しかし満更でもないような声色を滲ませながら応えた。
「――ただいま」
ひとまず、満足である。湊は満面の笑みで道を空ける。
先程までの寂しさとか昨晩の悩み事とかはすっかり頭から抜け落ちていた。書斎へと向かう代筆屋さんの隣に並ぶ。
「お姉さんそれ何?買い物じゃなさそうだけど」
湊は代筆屋さんが提げている小袋を差しながら訪ねた。それの中身はほとんど入っていないようで、動く度にシャラシャラと鳴っている。
「古い友人からの仕事」
「仕事――?そういえばお姉さんどんな仕事してるの?」
「代筆屋」
「それくらい僕だって知ってるよ」
代筆屋さんはかなり秘密主義者らしくて、仕事や友人の話をしてくれることはほとんどない。
伝えて良いものかと悩んでいるのを感じ取りながら、粘ること書斎のドアを開ける直前、代筆屋さんは小袋から二通の手紙を取り出した。宛先を眺めたあと片方はポケットへ、もう片方を湊にも見えるようにする。
「そうだね。タイミングが良かったとは言え、何も伝えないのは少し可哀そうかも」
「タイミング?」
「ううん、こっちの話。――いいよ少年。少しだけ手伝ってみる?」
「うん!」
湊は食い気味に頷いた。




