1.少年は迷う
西日が少年の影を落としているのに気付いて、彼は顔を上げた。
パタリ、教科書とノートを閉じる。ランドセルの中にそれらを片付ける。ローラーのついた椅子を動かして勉強机から距離を取ると、背凭れに体重を預けて彼はぼんやりと天井を見上げた。
――疲れた。けれど今日に出された宿題は全て終えることができた。これで縛るものは何もない。
彼は大きな息を吐きながら微笑んだ。
「僕は初めてお母さんの言い付けを破るよ。ねえよわいくん、僕は悪い子かな?」
よわいくんと言うのは、子供部屋の天井にいる彼の友達のことだ。家族にも言っていない秘密だって話せる友達。
よわいくんが生き物でも何でもなく、ただの顔に見える木目であると気付いた日から、子供部屋は彼のものとなった。
「決行は今日。よわいくんはここで僕を応援してて」
一方的な宣言をする。準備と計画は済ませてあった。
夕飯をやや駆け足で胃袋に収め、入浴と歯磨き、両親におやすみと挨拶をしたあと、彼はこっそり家を出た。
初めての夜更かしは彼の心を踊らせた。毎日のように見ている景色も夜だというだけで違って見える。車も登下校する皆も挨拶してくれるおっちゃんもいない。夜は静かだと知った。ピヨピヨと鳴かない信号を渡って、赤信号のように感じられた。
向かうのは学校の知くにある山のてっぺん。お昼の内に下見は済ませたから何も心配はいらない。
そこで、数日前に仲良くなったばかりの友達と月を見るのだ。友達が言うには今夜はスーパームーン。月がとても大きく綺麗に見えるらしい。双眼鏡も首からかけて準備万端。
アスファルトで舗装された山道は、未知の経験に浮足立っていることもあって、全く苦に思わなかった。
気付けば既に山頂にいて、彼は開けた場所に腰を下ろした。友達はまだ来ていないらしい。
一緒に見たくてそれまで地面ばかり眺めていたけれど、途中で我慢できなくなるタイプだった。
「きれい――」
感想なんてそれだけで十分だった。
雲ひとつない星空に浮かぶスーパームーン。心が奪われる。双眼鏡――、はせめて友達が来るまで温存しておこう。興味は引かれるけれど、感動は分かち合ってこそ。
しかしその日、友達がそこに現れることはなかった。
何時間くらいそこで待っていただろう。約束の時間を聞き間違えたのだろうか。友達に何か不測の事態があったのだろうか。何か気に障るようなことをしてしまっていたのだろうか。
三十分ほど話したら家に帰ろうと決めていたはずなのに、あと五分あと五分とずるずる伸ばしてしまう。友達を待ち続ける。
とっくに、いつも寝る時間を過ぎていた。急に襲う眠気にあらがう術もなく。
瞼を落とす。
――。
音、視線。眠ってしまったという焦りから血の気が引いていく。
彼は、常夜の世界に迷い込んでいた。
◇◆◇
彼――、朝倉湊はどこにでもいる平凡な少年である。
いや、平凡なと評するのは失礼に値するかもしれない。生まれてこの方、少なくとも物心がついてから、湊は品行方正を体現してきた。両親に歯向かうことなく、先生たちからの評価は上々、同級生の中心人物として仲を取り持ってきた。それを苦もなくやってのけるのだから平凡とは言えまい。なのに、一度言い付けを破っただけで。
これを天罰だと呼ぶのなら、神は賽を握っているに違いない。
「早く帰らないとお母さんに気付か、れ――」
湊が反射的に身体を起こすと、焦りとは別の意味で血の気が引いていくのを感じた。
満月の下、ネオンライトよりもずっと眩しい行燈の光が燦燦と照り付ける。屋台が発する熱気、生き物が発する熱気が、冷たいはずの風を覆い隠して漂っている。
そこは数年で最も大きな祭りの会場、中心地点にほど近い場所。
居合わせた誰もが、つい先程まではそこにいなかった存在へと注意を注ぐ。
湊は多種多様な異形、妖に囲まれて、ぼそりと呟いた。
「夢――?」
そう思ってしまうのも無理はないだろう。何せ、常識では考えられない事象。その上妖たちの中には昔話などで空想上の生物として見知ったものが紛れていたのだから。
半信半疑に頬をつねってみる。柔らかい頬には爪の跡が残って少し痛い。
湊が状況を掴めぬままに立ち上がると、それまで同じく驚きから固まっていた異形たちにも動きがあった。
湊から一番近い屋台に吊るされた、何やら記号が描かれた提灯。その真ん中あたりで口のように割れて、内部で火を揺らしながら、言った。
「人間だ!」
声は静まり返っていた異形たちの間で瞬く間に伝播する。
――人間、人間、人間、人間。
それぞれが呼応するように声は広がり密度を増していく。その渦中に置かれた湊は、カブトムシになったみたいだ、なんて他人事のような感想を抱いた。
湊は初めましてと挨拶をしようとして、しかし、声の中に独り言を聞いた。
「ニンゲンだ」
同じ台詞。けれど、あれは、違う。悪寒が全身を駆け上がる。
他の声は興味が大半を占めていた。好意的でも敵対的でもなく、だからこそその天秤は傾けることができた。けれどあれは、捕食者。そう、この場合において湊は被食者であった。
気付けば湊は駆けていた。誰からどの方向から発せられたのかさえわかっていないのに、ただ一心不乱に駆けていた。
妖の足の間を縫うように逃げる。時折伸ばされる手を振り払いながら。
遠くへ――。
「やット捕まえた」
湊が逃げられた時間は一分にも満たなかった。それくらい力の差は歴然であった。
異形は片手で湊を持ち上げてしまって、頭の高さが同じになる。
高い。手を離されたら、きっと怪我だけでは済まない。手足をバタバタと動かして抵抗を試みるも、その事実が頭を過って思うように力を籠められない。
食べられる。理由なんてなく、?そう思った。夢の中でも食べられたくはないな。頬をつねったときは痛かったけれど、咀嚼されるときに痛覚はあるのだろうか。ああ、僕は悪い子だ――。
けれど、いつまで経ってもそのときは来なかった。
「僕を食べない、んですか――?」
妖は湊を食べようとなどしていなかった。無意識に目を背けていた妖の顔を、湊は初めて直視した。
顔のパーツのひとつひとつが嫌に大きく、口角が微かに上がって、ギョロリとした瞳が瞬きをすることなく湊を見詰めている。まさに異形。人型であるだけに趣味が悪い。
けれどどうしてか。他の異形と比べても、比べるまでもなく、人間を愛しんでいるように感じるのは。人間よりもずっと感情豊かな表情に思えるのは。
そして、湊は彼の微笑みの中に哀しみを垣間見た。
「ねぇ――」
何か悩み事があるなら僕に話してみて。
言葉にしかけたとき、彼は湊を地面に下ろした。素早く、優しく。ハテナを浮かべる湊へ答え合わせをするように、背後から声がかかった。
「月は欠け始める頃が一番綺麗」
「お前ハ――」
それは一人の女性だった。全身をモノトーンの服で着飾っており、肌の一切を露出しないよう覆い隠している。背丈は人間に近く、この妖と比べると霞むほど小さい。しかし、か細いが透き通った声は神秘的な雰囲気を与えており、十二分な存在感を有していた。
「悪いけど、少年は私が貰っていくね」
「――好きにすルとイい」
じゃあ捕まえたって何だったの?
湊の意に介することなく二者の間で話が進んでいく。妖が背を向けて去っていく。
「えっと、お姉さん――わっ」
彼女に突然ぐいっと腕を引かれて、湊は舌を噛みそうになった。
彼女は手袋をつけた人差し指で遠くを差した。
「満月のロゴは見える?あそこ」
それだけ言うと、彼女は湊の手を握り強引に引っ張って歩く。
「ちょっと、ねぇ、お姉さん、お姉さんってば――」
そんな湊の声は聞こえていないかのように。




