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科学は魔術に嫉妬する  作者: 大山ヒカル


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9/9

少女

 ――数時間前に遡る。

 桐井は漆黒のアーマースーツを身に纏い、背中のホルスターに拳銃を収めた。

 その上から軍服を羽織ると、いつもの癖で腰に手を添える。だが、握るはずの刀はそこになく、空を掴むだけだった。

 小さく息を吐き、仕方なく部屋を出る。無機質な廊下を歩き出したそのとき、正面から思いも寄らぬ人物が現れた。


「相沢? 何をしている」

「ゲンさんから聞いた。俺が新人を連れ戻しに行く」

「いや、お前は外したと言っただろう」

「そんなこと言ってられる状況じゃないだろ」

「しかし――」


 桐井は険しい顔で言葉を飲み込み、短く沈黙した。その隙を逃さず、相沢が続ける。


「桐井さんは一人でも多くの兵士を救ってくれ、それは桐井さんにしか出来ないことだろ」


 もっともな言葉に、桐井は深くため息をつく。

「……分かった。神木のことはお前に任せる」


 了承を得た相沢が踵を返し、走り出そうとしたその瞬間、桐井が呼び止めた。

 真剣な眼差しで、まっすぐ相沢を見つめる。


開里(かいり)、何かあったらすぐに連絡しろ。……いや、この件が終わったら、何もなくても私と話せ。分かったな?」


 その言葉に、相沢は苦笑を浮かべる。

「ああ、分かったよ、兄さん」


 相沢の背中が遠ざかっていく。

 その姿を最後まで見届けたあと、桐井は静かに廊下を引き返した。





 「一体何をやっている、火力を集中させろ!」

 大隊本部は混乱の渦に包まれ、指揮官の怒声が室内に響き渡る。


 「第六中隊、第三中隊、共に無線が途絶しました」

 「サマ派にこれほどの軍事力があるなんて聞いていないぞ」


 戦闘は簡単に終わるはずだった。サマ派過激分子の掃討作戦──既に包囲態勢にある今回の任務は、指揮官にとって眺めているだけで終わるはずだった。事前分析では圧倒的な兵力差が保証されていたはずだが、想定と現実の隔たりはあまりにも大きく、指揮官の正常な判断を奪いつつあった。相手を侮っていた意識が、撤退の選択肢を自ら閉ざしてしまっている。


 「なんとかして食い止めろ!」

 隣に座る通信士は汗で髪が濡れ、まるで風呂上がりのようだ。


 「第五中隊が後退しています」

 「させるな!」

 「しかし、劣勢です。後退以外に…」

 「無線を貸せ!」


 通信士を乱暴に押しのけ、指揮官は無線機に手をかける。

 「何としてもそこを死守しろ!援軍を送る!」


 《むっ…無理です!》

 「無理って何だ!誰に向かってそんな言葉を吐いている!」

 《うわああ!化け物だ!あああああぁぁぁ……》


 無線からの断末魔のような声に、指揮官は血相を変える。怒号は届かない。


 「……ぐぬぬぬ」

 激昂した指揮官はヘッドセットを無線機に叩きつけ、荒い息を吐いた。

 「クソが!」


 怯えた表情の兵士が一人、ゴツい衛星電話を差し出して立っている。

 「なんだ?」

 「司令本部からの連絡です」


 指揮官は一度舌打ちしてから電話を奪い取り、耳に当てる。背筋を伸ばして応じると、怒りは次第に焦りへ変わり、額に冷や汗が滲み出した。


 「……分かりました」


 受話器を置くと、指揮官は肩を落とし唇を噛みしめた。やがて、通信士に低い声で命じる。

 「全軍に撤退命令を出せ。それから、無人機も即時帰還させろ」

 「了解しました」






 食事時になれば、広い店内はいつも客で埋め尽くされていた。

 笑い声や注文の声が飛び交い、湯気と香ばしい匂いが立ち込めていた――昨日までは。


 今、その光景は跡形もない。

 窓の外は瓦礫に塞がれ、陽の光すら届かない。テーブルの上には料理ではなく、負傷した兵士たちが横たわっている。あちこちから咳き込みやうめき声、かすかな祈りのような囁きが聞こえてくる。


楠木亮太(くすき りょうた)は、難しい顔で店内を見回した。


 サマ派の過激分子との戦闘が始まってから、戦場は一瞬で混沌と化した。

 楠木が所属する第二中隊も混乱の中でどうにか戦闘を続けていたが、いつしか戦いの場は街外れへと移り変わっていた。

 当初は撤退するサマ派を追撃していたはずが、気づけば逆に追い詰められていた。無線は錯綜し、指示は途絶え、部隊は分散した。

 目の前では民間人が巻き込まれ、爆音と悲鳴が入り混じる――まるで、理性を持たぬ怪物が街を蹂躙しているようだった。


 楠木たちは民間人を守るため奔走し、どうにかこのレストランへと逃げ込んだ。

 隣で無線機を修理している民間人の男に声をかける。


「どうだ、直りそうか?」

「ああ、これなら直せる」

「悪いな、この状況を救えるのはあなたの腕にかかっている」

「兵隊さん、あんまりプレッシャーをかけないでくれ」

「いや、あなたは我々のヒーローだと言いたいだけだ」


 軽口を交わす二人のもとへ、別の兵士が声をかけてきた。

「楠木!」


 顎で合図を送られ、楠木は修理中の男の肩を軽く叩いた。

「後は頼んだぞ」


 そして兵士のもとへ歩み寄る。二人は周囲を気にしながら小声で話し始めた。

「どうした山下(やました)

「状況は最悪だ。兵士はもちろんだが、民間人の顔にも疲れが出てきている」

「負傷者は?」

「隣接している家を使わせてもらっている」

「そうか」

「長くは保たないぞ、無線のほうはどうなった?」

「彼は直ると言っている」


 楠木が視線を向けると、ちょうど修理していた男が嬉しそうに手を振った。

「どうやら直ったようだ」


 楠木は歩み寄り、男の笑顔に確信を得る。

「やっぱり、あんたはヒーローだ」


 無線機を受け取り、固い握手で感謝を伝えると、すぐに本部へ通信を試みた。

「こちら第二中隊、チャーリー小隊。応答を」

《こちら作戦本部》

「直ちに救援を送ってもらいたい」

《ザザザ…そちらの…いや、違います…》


 混線する雑音と、取り乱した通信士の声だけが返ってくる。

「作戦本部、応答を」

《直ちに撤退を》

「こちらには負傷者が―」

 言い終える前に、無線は沈黙した。


 山下が険しい表情で口を開く。

「壊れたのか?」

「いや……本部からのシグナルが消えた」


 沈黙した無線機を山下の胸に押し当てると、楠木は椅子に座って頭を抱えた。






「どうやら撤退を開始したようです」

「そうか」


 モニターに映る位置情報を確認していたフロッピーの手が止まった。

「桐井さん、小隊の一つが市街地の外れにいます」

「何? どういうことだ」

「どうやら第二中隊が戦闘中に戦線を市街地へ移したようです」

「なぜそんな動きを……。第二中隊は撤退しているのか?」

「はい。ただ、市街戦で多くの兵士が犠牲になっています」

「魔術師が市街地にも現れたということか」

「そのようです」

「くそ……最悪だ」


 桐井が奥歯を噛みしめる。

 フロッピーがさらに報告を続けた。

「メディアも続々と動き出しています。今のところ、サマ派と軍の衝突で市民に被害が出たという報道が中心ですが」

「本国に連絡して、情報統制を急がせろ」

「了解」


 これまでも、魔術師が自らの存在を誇示することはあった。

 そのたびに久遠連合は、魔術師に関するあらゆる痕跡――記録・証拠・証言を徹底的に抹消してきた。

 だが、今回のように大規模かつ同時多発的な襲撃は前例がない。


 魔術師の数は極めて少ない。

 情報機関が存在を感知すれば、久遠連合は即座に動き、排除してきた。

 それにもかかわらず、今ここで複数の魔術師が行動している。

 

 つまり、久遠連合よりも先に彼らを探し出し、まとめ上げた何者かがいる――。

 それは、久遠連合すら凌ぐ情報網を持つ存在が現れたことを意味していた。


 桐井の胸を冷たい焦燥が締め付ける。


「うちの無人機を出せ」

「了解」


 数秒後、モニターには無人機の映像が映し出された。

 画面の向こうには、戦火に焼かれた市街地が広がっている。

 黒煙を上げて横転した車、崩れた建物、瓦礫に覆われた道路。

 動く人影はなく、まるで死者だけが残されたゴーストタウンのようだった。


「……こいつは酷いな」

「市民も兵士も関係なく、死体が散乱しています」

「ああ。短時間で、ここまで壊滅するとは……」

「辺りを捜索します」


 無人機は低空で旋回しながら、瓦礫の影に動く影を探す。


「小隊の位置はこの辺りか?」

「はい」

「無線は繋げられるか?」


 フロッピーは操作を自動航行に切り替え、ヘッドセットを桐井へ差し出す。

「どうぞ」


「こちらは作戦本部、応答を」

《こちらチャーリー小隊!》

「小隊長に変わってくれ」

《了解》


 数秒後、雑音とともに男の声が混じった。

《……ああ、中尉はK.I.A。今は私が指揮を執っている》

「そうか……少し待ってくれ」


 桐井はマイクを手で押さえ、隣のフロッピーに顔を向けた。

「なあ、K.I.Aってなんだ?」

「戦死(Killed In Action)です。士気を下げないために、スラングで言ったんでしょう」

「……なるほど」


「待たせて済まない、撤退命令が出ている。直ちにそこを離脱してくれ」

《はぁ…、救援はどうなっているんだ?》

「済まない、そちらの現状を説明してくれないか?」

《こちらは動ける兵士が17名、負傷者が29名、民間人が30名、民間人には怪我人も多く、動かす事が出来ない重症者も居る》

「そういうことか」

《道路には瓦礫が多く、搬送には装甲車が必要だ》


 無線の会話に集中していた桐井をフロッピーが叩いた。

 そしてモニターを指差して桐井に伝える。

「少し待ってくれ」


 桐井は無線をミュートにし、モニターへ目を向ける。

 瓦礫の山が連なる道路。その奥を、悠々と歩く二つの影。

「……こいつらが、魔術師か」

「位置はモニターしておきます」


 桐井は息を整え、無線のミュートを解除する。

「悪いが今は脅威が近くに居る。すぐには装甲車は送れない」

《あとどれくらいかかるんだ?こっちはもう限界なんだ》

「出来るだけ早く救助するから待っていてくれ。絶対に救い出す」

《…ああ。了解した》


 交信が途切れた瞬間、桐井はマイクを外して立ち上がった。

 表情を引き締め、指揮所を飛び出す。





 建物の屋上から、桐井は双眼鏡を覗き込んでいた。

 先ほど無人機から送られてきた映像で、魔術師たちのおおよその位置は掴んでいる。視界が開ける高さまで上がると、目標の二人をすぐに確認できた。


「……やはり二人組か」


 瓦礫の中を、まるで散歩でもしているかのように悠々と歩く魔術師たち。

 周囲に敵影はない。異様な静けさが、かえって不気味だった。


「フロッピー、無人機でも他に敵影はないか?」

《はい。市街地にいる魔術師はその二人だけのようです》

「了解した。小隊に繋いでくれ」

 桐井は双眼鏡を下ろし、足元の鞄を開ける。中から、直径十センチほどの円盤状の地雷を取り出して確認した。

《こちらチャーリー小隊》

「こっちは今、屋上から敵2人を確認した。何か追加情報はあるか?」

《相手は男女2人だった。男は長髪で赤いシャツを着ていた。女の方は短髪でやたらと露出の多い服装だ》

「なるほど、助かる」


 一呼吸置いて、無線の向こうからためらいがちな声が聞こえた。

《その……変に聞こえるかもしれないが》

「構わん、何でも言ってくれ」

《男が手をかざすと相手が水浸しになって口から水を吐いて…》

「……ほう」

《女は物理的な格闘術で攻撃してくる。しかしそれは人間とは思えない力で、殴られたら頭が吹っ飛ぶ。これは比喩ではない、目の前で頭部が吹っ飛ぶんだ》

「なるほどな」

《本当に分かってるのか?説明している俺でさえ理解出来ない》

「とにかくわたしが安全の確保をする。もう少しだけ我慢して救援の到着を待っていてくれ」

《了解した、恩に着る》

「任せてくれ」

《最後にひとつ》

「何だ?」

《俺の名は楠木平太(くすき りょうた)だ、生きて会えたら借りを返させてくれ》

「そんな気にするな、これも仕事だ」

 通信が切れる。

 桐井は静かに鞄を背負い、屋上の端へと歩みを進めた。

 そして、瓦礫の屋根を伝って次の建物へ――音を立てぬように、影のように移動を始めた。





 無線から聞こえてくる会話を聞きながら、フロッピーは小さくため息をついた。

「……仕事じゃないでしょう。明らかに任務外の行動ですよ」


 その肩を、ゲンが軽く叩く。

「お前にとっては囮でも、仲間であることに変わりはないだろ」

「ゲンさん……」


 ゲンは静かに頷いた。

「相沢は、ちゃんと送り届けた」

「……すみません。仲間だってわかってます。ただ……心配で、つい愚痴みたいに言ってしまいました」

「わかってる。お前の気持ちもな」


 ゲンは一息つき、モニターを見据える。

「俺たちは他の部隊の撤退支援に回るぞ」

「了解です」


 短いやり取りの後、室内に再び無線の雑音が響いた。





 桐井は魔術師たちの背後に回り込み、息を殺して身を潜めた。

 両手のグローブを握りしめ、指先の感覚を確かめる。

 次いで、鞄から遠隔操作用のリモコンを取り出した。


 瓦礫の散らばる通りを、まるで散歩でもしているかのように歩く二人。

 桐井は双眼鏡を構え、その動きを見据えながらタイミングを計った。

 道路脇に並ぶ車の間――そこが狙いの地点だ。

 二人がそのラインまで進めば、一瞬で終わらせられる。


 だが、数歩手前で二人の足が止まった。


「……どうした。なぜ止まる。……気取られたか?」


 桐井は眉をひそめ、双眼鏡を覗き直す。

 視界に映ったのは、二人の前に立ち塞がる小柄な人影――。

 少女だった。


「どういうことだ……。全員、避難させたはずだろ」






 長髪の魔術師――ダリは口の端を吊り上げ、目の前の少女を見下ろした。

「……まだ残ってたのか」


 睨みつけられた少女は恐怖に震えていた。

 だが、それでも両手を広げ、2人の前に立ちはだかる。

「も、もう……やめてください……」


 ダリはしゃがみ込み、少女の顔を覗き込んだ。

「ああ? お前らが散々やってきたことを棚に上げて、俺にやめろだと?」

「……ううう……」


 怯える少女は視線を逸らすが、逃げようとはしなかった。

 その姿に、短髪の女――グラが顔をしかめる。

「ちょっとダリ、怖がってるじゃない。やめなよ」

「なんだよ今さら。女子供も関係ねぇだろ」


 グラはダリを押しのけ、少女の前にしゃがみ込むと、優しく微笑んだ。

「ボクの名前はグラって言うんだ、キミの名前は?」

「……」

「大丈夫。おねえちゃんが守ってあげるからね」


 そう言って、グラは少女の身体を抱きしめた。

 その笑みは慈愛に満ちているようでいて、どこか歪んでいた。

 

 それを見た途端にダリは少女とグラの間に両手を入れて2人を引き剥がした。

「ちょっと!なにするんだよダリ!」

 不機嫌な表情で抗議するグラに対し、ダリは眉間にシワを寄せて睨みつけた。

「やめろ、お前の悪趣味にはうんざりなんだよ」

「何が?ボクはこの子を助けたいだけなの」

「これで何人目だ?ああ?いい加減にしろよ!」


 ダリは指を折って数えるが、途中で虚しく手を下ろした。

 グラはそんな彼を無視して、少女の顔を覗き込む。

「このお兄ちゃんのことは気にしないで、2人であっちに行って遊ぼうか?」


 少女の手を握りしめ、立ち上がる。

 何度も見た光景だった。

 ダリは疲れたように腰を落とし、深く溜息を吐く。

「……はぁ、さっさと済ませてこいよ」

「はーい!」


 グラは元気よく返事をして、少女の手を引き歩き出した。

「お医者さんごっこって知ってる?面白いよ」


 その視線は獲物を舐める獣のように、少女の体をなぞった。

 唇の端から生唾が滴り落ちる。

 少女の小さな手を強く握ったまま、グラは無人の民家の中へと消えていった。


 その背中を最後まで見送ることもなく、ダリは近くの無人となったバーに入った。

 棚から酒瓶を取り出し、グラスに注ぐ。

 濁った液体が静かに波打った。


「あの変態女、心底吐き気がする」


 そう吐き捨てると、ダリは酒を一気に呷った。

 ガラスの底がテーブルを打ち、鈍い音を立てた。





「……二手に分かれたか。好都合だ」


 双眼鏡越しに二人の動きを見届けると、桐井は迷いなく身を翻した。

 グラと少女が入った民家へ向かい、息を殺しながら足音を消して接近する。

 扉の前に身を寄せると、隙間から声が漏れてきた。


「さーて、患者さん。先生が悪いところがないか、調べますよ~」

「……やめてください」

「こら、先生の言うことは聞かなきゃ駄目ですよ。さ、服を脱いで――」


 その瞬間、桐井の足は無意識に動いていた。


 ――ドン!


 扉が激しく弾け飛ぶ。

 室内の空気が一変した。


「ちょっと、なに!なんなの、誰なの?なに!」

 狼狽するグラの声。


 桐井の視界に映ったのは、ベッドの上の少女と、その前で裸のまま座り込むグラの姿だった。

「お前こそ、何なんだ?」


 桐井に気づいたグラは、慌てて自分の身体を両腕で隠すが、混乱して動きが空回りしている。

 少女の方は桐井の乱入によほど驚いたのか、気絶してベッドの上で横たわっている。


 桐井は素早く少女を抱きかかえ、寝室の窓へと向かう。

 外の空気を吸い込みながら、一言だけ吐き捨てた。

「じゃあな、変態女」


「こ、こらっ! 返しなさいよっ!」


 怒鳴り声を背に、桐井は少女を抱えたまま窓枠を蹴って飛び出した。






 桐井は建物の屋根から屋根へと飛び移り、民家から距離を取った。

 振り返るが、グラが追ってくる気配はない。

 ――パニックになって、着替えに手間取っているんだろう。


 商店が並ぶ街道を抜けると、やけに目立つ大きな豪邸が見えた。

 桐井はその屋根に降り立ち、少女を抱えたまま中へ入る。

 室内は荒れ放題で、慌てて逃げ出したのか家具も食器も散乱している。

 周囲の民家とは違い、明らかに裕福な家だった。

 大型テレビ、バーカウンター、十人掛けのソファー――。

 桐井は少女を抱いたまま部屋を見回し、ソファーの上に散らばる物を足で払って場所を作る。


 少女をそっと寝かせ、低い声で囁いた。

「悪いが、ここで休んでいてくれ。あとで迎えに来る」


 そのとき、背後でかすかな物音がした。

「……意外と着替えるのが早かったか」


 桐井は警戒を強め、音のしたキッチンへと進む。

 覗き込んだが、人影はない。だが――確かに気配がある。


「……なるほどな」


 何かを察したように桐井は両手を上げ、降参の姿勢のまま声をかけた。

「大丈夫だ。俺は味方だ」


 ――カチャ。


 首筋に冷たい金属の感触。

 目の前の食器棚のガラスに、銃口を構えた人影が反射している。

 桐井は視線をそちらに向け、ゆっくりと口を開いた。

「……こんなところに隠れてたのか」

「あんた、無線の男か?」

「その声……楠木亮太だな」


 背後から拳銃を突きつけていた男は、名前を聞いた途端、わずかに力を抜いた。

 銃を下げ、撃鉄を戻す。


 桐井も両手を下ろし、ゆっくりと振り返る。

「全員ここにいるのか?」

「いや、全員じゃない。近くのレストランにも避難してる」

「そうか……すまん、まだ逃がせる状況じゃない」

「どうなってる?」

「悪いが、そこのソファーの女の子だが。私は付いていられない。お前たちと一緒に連れて行ってくれないか」

「女の子?」


 楠木は視線をソファーへ向けた。そこには、まだ気を失ったままの少女が横たわっている。

「民間人か?」

「そのようだ」

「民間人を巻き込んでしまったのは俺たちに責任がある。ここまで後退してしまった責任が取れるのであれば願ってもない」

「助かる」


 楠木は桐井の姿を見て、ふと笑みを漏らした。

「あんた、やっぱり軍人じゃないな」

「なんでだ?」

「無線の時点で怪しいと思ってたけど……実際に会って確信した」


 桐井は気まずそうに頭をかき、軍服の裾を直した。

 その下から覗く漆黒のアーマーが、微かに光を反射している。


 楠木はその様子を見て静かに言った。

「だが今はそんなことは関係無い。あんただけが頼りだ」

「ああ、絶対にお前たちを救ってみせる」


 桐井の言葉に、楠木は力強く頷いた。

 それを確認すると、桐井は出口へ向かう。

「楠木、彼女のことは頼んだぞ」

「ああ、任せてくれ」


 扉が閉まる音が、静まり返った屋敷に短く響いた。






 泣きべそをかきながら、グラはバーのドアを勢いよく開け放った。

「ダリー!」

「なんだ、フられたのか?」

「ちっがーう!」

「じゃあ何だ、殺しちゃったのか?」

「そうじゃない!」

「……なんだよ」

「変な奴が、ボクのことを変態って言うんだ!」


 ダリは眉をひそめ、しばし沈黙した。

 ――誰だか知らないが正論だな、と内心で呟く。


「そいつが、あの子をさらっていったの!」

 グラが叫ぶと、ダリは思わず目を伏せた。

 正直、あの異常な行動にうんざりしていた。

 むしろ心のどこかで、安堵すらしていた。


「……ああ、そうか」

「それだけ!?ボク、まだ何もしてないんだよ!」

「また次がんばれよ。ほら、行くぞ」

「やーだ!あの子を探すまで行かない!」


 グラはその場に座り込み、頬を膨らませる。

 ダリは深く溜息をついた。


「いい加減わがままばかり言ってると、置いてくぞ」

「ダリ、冷たい……」

「あー、わかったよ。帰ったらエロ動画でもエロ本でも買ってやる」

「……うん、それで我慢する」


 グラは頬を膨らませたまま立ち上がる。

 ダリは頭をかき、溜息をもう一つ吐いた。


「はぁ~……」


 視線を床に落としたそのとき――手榴弾が転がってきた。


「グラ、伏せろッ!」


 ダリは咄嗟にグラを抱き寄せ、そのまま床に倒れ込む。


 ――轟音。


 バーカウンターが吹き飛び、木片とガラスが宙を舞った。

 爆煙の向こうから、ひとりの男が姿を現す。


 漆黒のアーマーに軍服を羽織った、桐井だった。


 彼は言葉もなく、倒れた二人に向けて掌底を放つ。

「ぐはあっ!」

「ぎゃあああ!」


 二人の悲鳴が同時に響き、店内は再び静寂に包まれる。


 桐井は煙の中を歩き出し、イヤホンに指を当てた。

「楠木か? こちらは障害を排除した。すぐに装甲車をそちらへ送る」

《了解だ……おい、どこに行く!?》

「ん? どうしたんだ?」


 桐井が呼びかけても、無線は途切れた。

 短い沈黙。


「……トラブルか」


 ――その瞬間だった。


 背後の空気が揺れた。

 桐井が反応するより早く、殺気とともに影が飛び込んでくる。


 咄嗟に腕を構えて受け止めたが、衝撃が重い。

 桐井の身体は宙を舞い、店内の酒棚に叩きつけられた。


「ぐっ……はっ!」


 酒瓶が次々に砕け、濃いアルコールの匂いが立ち込める。

 額から血が伝い、頬をなぞって床に滴る。

 桐井は脇腹を押さえながら、荒い呼吸で視線を前へ向けた。


「……今のは……」


 彼がいた場所の前方――そこに立つのは、さっきまで気絶していたはずの女。


「ボクの子を返してよ!」


 グラだった。

 蹴りを放った右脚を高く掲げたまま、怒りに満ちた目で桐井を睨みつけている。


 ――速い。


 アーマースーツの防御がなければ、あの一撃で肋骨が粉砕されていた。

 痛みに耐えながら、桐井はゆっくりと身体を起こす。

 酒とガラス片が足元で音を立てた。


 血に濡れた額をぬぐい、低く息を吐く。


「……変態女。お前、なんで起き上がれるんだ?」

「変態じゃないもん!」

「そこじゃない。どうやって起き上がった?」

「そんなの決まってるでしょ。ボクの方が、お前より強いからだ!」

「くそ……だから馬鹿と話すのは嫌いなんだ」

「馬鹿じゃないもん!」


 甲高い声が店内に響く。

 その背後から、腹部を押さえながらダリが歩いてきた。


「どういうことだ……? 久遠の人間が居るなんて聞いてないぞ」

 ダリは辛そうに眉をしかめ、グラの肩に肘を置いて体を支えた。

「しかし、お前はいつでも元気だな」

「うん!」

「こいつの始末はお前に任せる」

「いいよ、ダリはそこで休んでて」


 グラの瞳が鋭く光を放つ。

 次の瞬間、地面を蹴った。


 床板が裂け、グラの姿が一瞬で桐井の目前に迫る。

 反射的に桐井は拳銃を抜き放った。


「言ったでしょ――ボクは馬鹿じゃないって!」


 トリガーを引く寸前、金属が軋む音。

 グラの手が拳銃のスライドを掴んでいた。

 押し込まれたままのスライドが動かず、発砲できない。


「くっそ!」


 桐井は怒号とともに、全力でグラの腹を蹴り飛ばす。

 グラの身体が弾かれ、後方へ飛ぶ。

 スライドが戻る音と同時に、桐井は再び照準を合わせた。


 ――パンッ。


 乾いた銃声が響く。

 だが、弾丸は空を切った。


 グラの身体が反るように宙を舞い、勢いのままバク転。

 銃弾はその股下をすり抜け、背後の壁に深々とめり込む。


 着地したグラが口角を吊り上げる。

 その手には、桐井の拳銃の弾倉が握られていた。


「えへへ……お馬鹿なのはどっちかなぁ?」


 弾倉をユラユラと振りながら、挑発するように微笑む。


「……分かった。認めるよ。お前は強い」


 桐井は静かに拳銃をホルスターへ戻す。

 そして、足元の地面から突き出た鉄パイプを引き抜いた。

 パイプの感触と重量を確かめながら、片手で強く握りしめる。


 次の瞬間、桐井の手の中で鉄パイプが淡い緑光を帯びた。

 粒子が散り、空気が震える。


「ふーん……綺麗だね。なんか面白そう」


 グラは興味を失った弾倉を放り投げると、楽しそうに鉄パイプを眺めた。

 桐井は無言のまま、鉄パイプを鞘に納めるような動作をして、深く腰を落とす。


「なにうぉ――」


 グラの言葉が終わるより早く、桐井の姿が消えた。

 一瞬で間合いを詰め、緑色の光を帯びた鉄パイプを、頭めがけて振り抜く。


 轟音。


 衝撃とともに、グラの身体が宙を舞い、壁に叩きつけられた。

 同時に鉄パイプも耐え切れず砕け散り、緑の粒子を撒き散らしながら消える。


「……やっぱり無理か」


 桐井は息を整えながら呟いた。

 言葉の通り、軽い素材の鉄パイプでは桐井の電撃には耐えられなかった。

 煙の中から、無傷のようにグラが立ち上がる。口元には笑み。


「ふふっ、やるじゃん」


 構えを取るグラの動きに呼応するように、背後で別の声が響いた。


「おい、まだ居たのか」


 ダリが苦しげに体を起こしながら、視線を向ける。

 その先――走る少女と、それを追う楠木の姿。


「どこに隠れてたんだか……。俺があのガキを始末する。グラはそいつの相手してろ」

「わかった!」


 桐井も二人の姿を確認し、思わず息を呑む。

 ――なぜ、ここに?

 最悪の状況に頭の中で答えを探すが、考える隙など与えられなかった。


「どこ見てるんだよっ!」


 グラの蹴りが風を裂いた。

 桐井は避ける間もなく、その一撃をまともに受ける。


 ――ドガァッ!


 全身が持ち上がり、背後の外壁に叩きつけられた。


「ぐはっ……!」


 壁がひび割れ、破片がパラパラと落ちる。

 桐井の額から流れた血が頬を伝い、地面に赤い筋を描いた。


「えへへ、今のは手応えあった」


 無邪気な笑みを浮かべるグラ。

 桐井はよろめきながらも立ち上がり、左胸を押さえる。

 鋭い痛みが走り、息が詰まる。


「……肋骨、いかれたか」


 口の中に鉄の味が広がる。血を吐き捨てると、地面が真っ赤に染まった。

 アーマースーツでも、完全に受け切ることはできなかった。


「……ベタなセリフ言わせやがって。――変態クソ女が」


 弱った桐井に、再びグラの蹴りが飛ぶ。

 しかし今度は防御が間に合った。桐井は両腕でその足を受け止め、勢いのまま持ち上げる。


「おおっ、おおおおおお!」


 グラは片足で必死にバランスを取ろうとするが、桐井が素早く足を引っ掛けた。

 体勢を崩したグラは床に叩きつけられ、後頭部を打って呻く。


「ぐっ……!」


 その腹に、桐井の掌底が叩き込まれた。


「ぐがががが!」

「おとなしく眠れ」


 掌から放たれる電撃が、グラの体を貫く。

 電流の光が緑色に瞬いた。


 しかしグラは倒れず、逆に桐井の腕を掴む。

 その握力が異常だった。


「おい……まじかよ」


 力を込めても、桐井の腕は少しずつ持ち上げられていく。

 グラは歯を食いしばり、笑みを浮かべた。


「へへっ……軟弱男」


 桐井は咄嗟にダリの姿を探す。

 ――だが、すでにいない。


 嫌な予感が背筋を走る。

 逃がすわけにはいかない。

 そう思って駆け出そうとした瞬間、目の前にグラが立ち塞がった。


「だめだよ!」


「あれだけ喰らって、なんでまだ動けるんだ……」

 視線を逸らそうにも、グラが完全に進路を塞いでいる。


「……こいつは参ったな」


 桐井の顔に焦りが浮かぶ。

 その様子を見て、グラの口元が吊り上がった。


「うひひひひっ」

「しぶとい奴だな」

「うひひっ。降参しても、あんたはぶっとばすからね!」

「そうか。降参しても許してくれないのか」

「そうだあああっ!!」


 グラが爆発的に駆け出した。

 その瞬間、桐井は身を低く伏せる。


 ――閃光。


 強烈な光が辺りを照らし、街道に長い影を落とした。

 グラの視界が真っ白に塗りつぶされる。


「な、なんだあああ!」


 両目を押さえて暴れ回るグラ。

 桐井はすかさず距離を取り、低く構えた。


「そんなに暴れるな。少しじっとしてろ」

「な、なんだあああ! なにするんだ!」


 桐井は助走を取り、一気に跳び込む。

 渾身の力を込め、掌底をグラの顔面へ――。


 緑色の光が爆ぜた。


 だが。


 そこにあったのは、グラの顔ではなかった。


 電撃が叩き込まれたのは、長髪の男――ダリ。

 その身体を、桐井の掌が正確に捉えていた。


「ぐふぁああああ!」


 電撃と衝撃の勢いで、ダリの身体が宙を舞い、地面に叩きつけられる。

 桐井は飛び退き、荒い息をつきながら状況を確認した。


「なんだ……?」


 道路の中央では、両目を押さえながら叫び続けるグラ。

 その手前には、倒れ伏すダリ。


 静まり返った空気の中で、桐井が低く呟いた。


「……訳が分からん」


 そんなグラに向かって少女が歩み寄った。

 そしてそのまま見上げ、震える声で叫ぶ。


「お願いです……もう、やめてください!」


 その声に、グラの身体がビクリと跳ねた。

 目を擦りながら声の方を向く。


「うう……だれ? ボクを驚かせる悪い子はだれ?」


 しばらく目を細めていたが、やがて視界が戻る。

 少女の姿を認めた瞬間、グラは大きく目を見開き――次の瞬間、笑顔になった。


「ボクに会いに来てくれたんだね!」


 嬉しそうに駆け寄り、少女の胸に顔を埋める。

「いやぁ~ん、さっきの続きをしようよ」


 その顔を押し返すように、少女はもう一度叫んだ。


「――やめてください!」


 閃光のように少女の身体が光り輝く。

 その光に包まれ、グラは糸が切れたように崩れ落ちた。

 地面に倒れ、ぴくりとも動かない。


 桐井はその場に立ち尽くし、少女を見つめた。

「……お前、魔術師だったのか」


 鋭い眼差しに、少女は少し怯えたように視線を落とす。

 桐井は道路に転がっていた弾倉を拾い上げ、拳銃に装填。

 安全装置を弄る音が、静まり返った空気に響いた。


「うん……お家がめちゃくちゃで、お父さんもお母さんも……」

「この街に、住んでいたのか」

「うん。だから……止めたくて」


 桐井の眉間に皺が寄る。

 民間人として暮らしていた魔術師――。

 相沢が報告していたキーパーソン、“美羽”の存在が頭をよぎる。

 想定外が、あまりに多すぎる。


「……おじさん、もう怖いことは終わったの?」

「……ああ」


 その言葉を聞いた少女が、ほっと微笑んだ。


 楠木は、自分が溺死寸前で救われたことに安堵しながらも、頭の中は混乱していた。

 喉の奥から大量の水を吐き出し、ようやく呼吸を取り戻す。

 体は重く、全身が鉛のように沈む。それでも――少女を助けなければという思いだけが、楠木を動かしていた。


「……動いてくれ」


 濡れた靴が水を踏む音を立てる。

 両足に力を込め、どうにか立ち上がると――その目に、最悪の光景が映った。


 少女に拳銃を向ける桐井。

 迷いのない姿勢。躊躇いのない瞳。


「おい……やめろ……」


 楠木の声は震えていた。

 次の瞬間、銃声が響く。


「やめろおおおおおッ!」


 叫びと同時に、楠木の体は勝手に動いた。

 桐井に向かって走り出し、全力で胸ぐらを掴む。


「貴様ぁ! どういうつもりだ! こんな子供に向かって、なんてことを!」


 桐井は目を逸らさなかった。

 冷たい眼差しで、楠木の怒りを真正面から受け止める。


「楠木……これが、わたしの仕事だ」


 その言葉と同時に、乾いた銃声が響いた。


 楠木の身体が硬直し、ゆっくりと視線を落とす。

 腹部には、桐井の銃口が押し当てられていた。


 震える指先。

 理解が追いつくより早く、視界が暗転していく。


 楠木の身体が崩れ落ち、地面に鈍い音を立てた。

 桐井はその上で、拳銃を静かに下ろした。

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