仇討ち
ジンの両手から爆ぜるように風が放たれた。
荒野の砂を巻き上げ、空気を切り裂くその風圧は、まるで彼の中に溜まっていた怒りそのものだった。怒号のような突風が相沢と遥に襲いかかる。
相沢は遥を守るように一歩、前へ出た。
その動きに迷いはない。
風圧で軍服がはためき、髪が乱れても、彼の背中は微動だにしなかった。
「行け」
短く、それでいて命令のように重い声。
振り向きもせず、ただ風の中へ言葉を投げる。
遥はその声に一瞬だけ息を呑んだ。
だが次の瞬間、無言で頷くと、相沢に背を向けて駆け出した。
砂が頬を打つ。視界は茶色に染まり、呼吸もままならない。
それでも、背後にあるあの背中だけははっきりと感じていた。
嵐の中心で、誰よりも静かに立つ男――それが、相沢という人間だった。
舞い上がる砂は、一粒一粒が散弾のように相沢の全身を打ちつけた。
砂の層は次第に厚みを増し、止めどなく降り注ぐ。肌を裂く音が耳を満たし、荒野全体が轟音に包まれていく。
「人のことを無視するからこうなるんだよ!」
ジンが吠えるように叫び、さらに両腕に力を込めた。
空中の砂が唸りを上げ、巨大な渦を巻く。相沢の姿は完全にその中に飲み込まれ、砂の塊が空に浮かぶ異様な光景となった。
「こいつで終わりだ!」
両手が振り下ろされる。
砂の塊が崩れ落ち、岩のような重みをもって地を叩く。荒野が揺れ、爆音とともに視界が砂煙に閉ざされた。
やがて風が収まり、砂埃がゆっくりと薄れていく。
砂埃が晴れた先にあるのは、血と砂が混じった、真っ赤に染まった山のはずだった。
だが――人影はなかった。
「……どこに消えた?」
ジンが言葉を漏らす、その瞬間だった。
首筋に衝撃が走り、世界が音を失う。視界がぐるりと回転し、地面が近づいてきた。
ジンは何が起きたのかを理解する間もなく、闇に落ちた。
レキは思わず息を呑む。
先ほどまでジンが立っていた場所に、相沢が立っていた。
その手には、ぐったりとしたジンの首が握られている。
力なく垂れた舌。虚ろに揺れる頭。生命の気配はもう無い。
相沢は静かに手を放した。
ジンの身体が砂の上に崩れ落ちる音が、やけに重く響く。
そのままレキの方へ視線を向けると、氷のような眼が彼女を貫いた。
「あんた……」
レキの声には、驚愕と警戒が入り混じっていた。
相沢は無言でジンの首から手を離すと、重力に従うように死体を落とした。
地面に倒れた音がやけに乾いて響く。
そして、相沢はゆっくりとレキへと向き直る。その瞳は氷のように冷え切っていた。
「すぐにお前にもやってやる」
「……いったい、何をしたの?」
レキが震える声で問いかけた瞬間、風に晒された相沢の軍服が破れ落ちた。
布地の下から覗いたのは、漆黒のアーマースーツ。
それは夜の闇を切り取ったような色をしており、表面を流れる薄い光が電子回路のように脈動している。
左腕と左脚は特に損傷が激しく、服の形を成してはいなかった。
相沢は両手を広げ、漆黒のグローブをじっと見つめる。
その口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「電気というものは、実に偉大な発明だ」
淡々とした声が荒野に響く。
「電気が歴史に姿を現した頃からだ……俺たち“人間”と、お前たち“魔術師”の力の均衡は逆転し始めた」
レキは無意識に自分の左腕を見た。
そこは先ほどの戦闘で痙攣したまま、感覚が戻らない。
「……なるほど。弱点は、最初からお見通しってわけね」
その言葉を口にしながらも、レキの頬を一筋の汗が伝う。
相沢の目は、もはや“人間”のそれではなかった。
―バチン!バチン!
相沢がグローブをはめた掌をゆっくりと広げるたび、バチンッと鋭い音が響く。
開いては握り、また開く――その動作は、まるでレキへの牽制そのものだった。
掌の中心には、ドーナツ状の緑の光輪が浮かんでいる。
閉じた掌を再び広げるたびに、光輪が一瞬強く脈打ち、緑の粒子が火花のように飛び散った。
しかしそれは炎のような熱ではなく、冷たい電流のきらめき。
空気を焼く音とともに、緑の粒子はふわりと宙を舞う。
彼の周囲に漂う空気が、かすかに唸りを上げる。
見えない何かが空間そのものを圧迫しているようだった。
「悪いが、バリ―の敵討ちをさせてもらうぞ」
それは桐井に向けて放った言葉のように聞こえた。
今になって、遥はようやく吉岡の言葉の意味を理解していた。
相沢の指示どおり、自分は仲間を連れて退く――それが今の自分にできる唯一の選択だ。
悔しさはあった。だが、無力を嘆く時間はない。仲間を救えるのは、自分しかいない。
「ゴン!」
「隊長……面目ないです……」
「謝るな。動けるか?」
「自分は……なんとか……」
声は震え、身体のあちこちに火傷の痕が残っている。とても戦える状態ではなかった。
「お前はここにいろ。皆を見てくる」
「……はい」
遥は立ち上がると、ヨシが倒れていた方へ駆け出した。
「ヨシ!」
そこには、あのとき炎に包まれたままの仲間がいた。
黒く焼け焦げ、かろうじて人の形を保った影が、地面に横たわっている。
「……帰ろう。一緒に帰るんだ……」
そっと手を伸ばした瞬間、ヨシの身体は崩れた。
ヨシの身体は地面の砂の一部となった。
跡に残った灰の中から、金属の光が見えた。
それはヨシの認識票だった。
「……ヨシ」
遥はそれを胸の前で、両手で包み込むように抱えた。
唇をかすかに震わせながら、呟く。
「帰るぞ」
認識票をそっとポケットにしまうと、遥は顔を上げた。
その瞳には、確かな覚悟の光だけが宿っていた。
ゴンを背負いながら、遥は荒野を歩いていた。
ポケットからは入りきらなかった認識票の鎖がはみ出し、足を進めるたびにジャラ…ジャラ…と乾いた音を立てる。
「はあ、はあ、はあ……」
髪の隙間から大粒の汗が零れ落ち、頬を伝って砂に吸い込まれていく。
ここに来るまでに使っていたバイクはすでにガス欠。軍用車両は魔術師の攻撃で燃え尽き、頼みの綱だった無線も爆発で沈黙した。
――もう、助けはない。
それでもゴンを救うために、遥は一歩ずつ足を前に出す。砂に足を取られ、太陽に焼かれ、息が詰まっても。
だが、ゴンの巨体はあまりにも重かった。背中が軋み、腕が痺れ、視界の端が揺れる。
照りつける太陽が地面を溶かすように熱を帯び、靴底まで焦げ付きそうだった。
その時――遥の視界の彼方で、砂煙が上がるのが見えた。
揺らめく蜃気楼の向こうに、一台の軍用車がこちらへ向かって走ってくる。
「あ……ああ……」
喉が張り付いて声が出ない。自分の呼吸音だけが荒く響く。
ゴンをそっと地面に降ろすと、遥は両腕を振り上げて必死に手を振った。
「ここだ……!」
だが、踏み出した瞬間、視界が急に暗くなった。
――空が、傾く。
気づけば、地面が目の前にあった。自分が倒れたのだと理解するのに数秒かかった。
倒れてはいけない。ここで止まれば、ゴンを助けられない。
遥は膝に手をつき、必死に立ち上がろうとする。
砂の上に滴る汗が、まるで血のように滲んだ。
「ゴン……みんな……大丈夫だ……助かる……」
その言葉は、風にかき消された。
崩れ落ちるように地面へ倒れ込むと、遥の意識はゆっくりと暗闇に沈んでいった。
「ほらほら、あたしがお友達に会わせてあげる!」
レキの右手から、次々と火球が放たれた。
相沢は寸前でかわしながら距離を詰めようとするが、レキは決して間合いを許さない。
――彼女の戦法は徹底していた。近接型の相沢に対して、常に距離を保ち、絶え間なく攻撃を浴びせる。
「動きが鈍くなってきたわね。そろそろかなぁ?」
放たれる火球は、どれも同じ大きさ、同じ速度。
規則正しい攻撃が、逆に相沢に“慣れ”を生じさせていた。
レキの口元が、愉快そうに歪む。
「いひひ!」
その先に広がる光景を想像しただけで、レキの口から笑いが零れた。
火球は一定のリズムで、まるで呼吸のように放たれていく。相沢はそれを紙一重で避け続け、焦げた土の匂いが周囲に漂っていた。
レキはその動きを観察しながら、口角を上げる。
――いい感じ。もう“慣れて”きた。
相沢の回避は洗練されていくが、それこそが狙いだった。
人間の反応は、繰り返すほどパターンになる。
その瞬間を、レキは待っていた。
火球を撃ち続けることで体力を削り、反応を固定化させる。
そこに“回避不能”の一撃を叩き込む。
レキの中では、すでに勝利の形が完成していた。
「いま謝ったら、許してあげようかな~?」
「ふざけるな!」
「あははっ、せっかく生き残れるチャンスなのに」
「くそが!」
息を荒げ、汗に濡れながらも応じる相沢の姿が、レキには滑稽に見えた。
必死に抵抗するその様子が、むしろ彼女の愉悦を刺激する。
「でも、ごめんね。もう飽きちゃった」
レキは火球の生成を一瞬だけ止める。
その静寂の刹那、空気が重く沈んだ。
次の瞬間、右手に集まった炎が膨れ上がる。
これまでとは比べものにならないほど巨大な火球が、轟音とともに相沢へ放たれた。
「あはは! おもしろっ! 今の爆発、最高だったわ!」
レキは手を叩いて笑いながら、まだ煙の立ち上る爆心地へと近づいた。
「はーあ、面白かった」
えぐれた地面を覗き込む。だが、そこには何もない。
「……あれ? 弾け飛んだかな」
軽く首を傾げて辺りを見回した瞬間、背後から声が届いた。
「お前はこういう時には、高笑いするものだと思ってたぞ」
「――なに?」
レキが振り返ると、数メートル先に相沢が立っていた。
無傷。
あの規模の爆発を真正面で受けたはずの男が、まるで何事もなかったようにそこにいる。
「あなた、なかなかやるわね」
強がりを装うように笑みを浮かべたその瞬間、銃声が響いた。
――バンッ!
「ぐがああああああ!」
右腕を撃たれたレキがよろめく。肩から肘にかけて痙攣が走り、指先の感覚が消える。
苦痛に歪む表情のまま両腕を垂らすレキに、相沢はゆっくりと歩み寄ってきた。
「丸腰だと思ってたか? それとも――」
相沢は低い声で続けた。
「俺の手に目を奪われて、掌の電撃しか使えないと思い込んだか?」
レキの脳裏に、さっきまでの戦闘光景がよぎる。
掌を開くたびに弾ける緑の光。
あのとき――確かに、自分はその輝きに釘付けになっていた。
悔しさと、ほんの少しの興奮が混ざった笑いが漏れる。
「あなた……思ったよりも、汚くていい男ね」
レキはゆっくりと歩いてくる相沢をじっと見据えていた──その直後、相沢の姿が掻き消えた
「消えた?」
不意に左腹に鋭い痛みが走る。
「ぐああああああ!」
視線を下ろすと、左腹の皮膚が裂け、三センチほどの肉片が無造作に削ぎ取られているのが見えた。
血がじわりと滲み出し、レキは両手を伸ばそうとするが感覚が無い。
その瞬間、冷たい気配──相沢がレキの横をすり抜け、後方に立っているのを感じた。
レキは必死で振り向く。怒りと恐怖で瞳を充血させ、相沢を睨みつける。
「あなた……それ、返しなさいよ……」
相沢の片手には、鮮血に濡れた肉片が小さく摘まれていた。
無表情のまま、それをちらりと見せる。
「これか?これを返して欲しいのか?」
相沢は言葉だけで問いかけ、目を逸らさずにゆっくりと肉片を地面に落とした。
血が砂に染み、黒い斑点を描く。
「くそがああああ! ぶっ殺してやる!」
叫んだ瞬間、レキの右耳に鋭い痛みが走った。
相沢はレキの横をすり抜けると、その手で耳を引き千切っていた。
レキは咄嗟に後方の相沢へ振り返る。だが目に入ってきたのは、
自分の顔面に投げつけられた――自分の右耳だった。
べたつく感触が頬を這い、耳は重力に従い、ゆっくりと地面へ落ち、砂を赤く濡らした。
「悪いな、今回は返そうと思ってな」
「絶対に殺す!殺す!」
レキの叫びが干上がった砂地に響く。怒りと恐怖が混じった声だ。
「そう焦るなよ、始まったばかりなんだ」
相沢の視線は冷たく、刃のようにレキを貫いた。
「バリー、ブンファの痛みはこんなもので終わらないからな」
―バチン! バチン!
掌を開くたびに鋭い衝撃音が響く。
最初の音とは違い、今回はレキの身体を震わせるほど威圧的だった。
相沢はゆっくりと一歩一歩、確かにレキへと詰め寄る。
顔面に浮かぶ表情は、笑みなど微塵もない、ただ冷徹な怒り。
「お前の両腕、引き千切ってやる」
「あ、ああああ…」
相沢がレキの手首へ手を伸ばしたその瞬間、目の前の空間がすっと切り替わった。
レキの姿が、そこにはもういない。
「そのくらいで勘弁してもらえませんかね?」
背後から軽い声がして、相沢は振り返る。
そこに立っていたのは、真っ赤なジャケットに蛇柄のズボンを穿いた、二メートル近くはあろうかという巨漢の男だ。男は片腕に意識を失ったセブンを、もう片方の腕にレキを抱え上げている。
相沢の視線が男を貫く。
「そいつを置いていけ。今度こそゆっくり殺す」
「殺すだなんて物騒ですね。やめましょうよ」
「駄目だ、そいつは殺す」
「そこをなんとかなりませんかね? 彼女に悪気は…」
「邪魔をするならお前も殺す」
「仕方ありませんね…」
「ふん」
相沢は鼻を鳴らすと戦闘態勢に戻った。
両手に緑の光輪が滲み出すのを確認して、男へ向けて構えを取る。
だが次の瞬間、目の前の三人の姿が跡形もなく消えた。
風のように、一瞬の出来事だった。
辺りを見回しても、気配はもうない。
相沢は苛立ちを露わに地面を蹴り、低く唸った。
「くそっ!」
「そんな……酷すぎる……」
美羽の目の前には、まるで地獄が地上に溢れ出したかのような光景が広がっていた。
ビクロ派もサマ派も、兵士も民間人も区別なく、砂は真紅に染まり、あらゆるものが肉塊と黒い灰へと変わっていた。
その殆どは銃火器を使ったものとは到底思えないものばかりだ。
「なんでこんなことに……私たちがしてきたことは……」
美羽は乗ってきた軍用車に戻ると、衛星電話を取り出した。
「ファリ、美羽です。現場に到着しましたが……」
《どうやら、相当ひどいことになっているようですね》
「はい……」
《無線の傍受である程度は把握しました……》
「どうやら私たちではない、別の勢力が強硬手段に出たようです」
《状況を立て直すのは難しそうですね。一度こちらに戻って──きゃあっ!》
「ファリ!?どうしました!?」
電話の向こうから、複数の人間の声が混じり合う。
《ファリ・ガザブだな。我々と来てもらう》
《あなたたちは誰です!?》
《あなたの味方です。さあ、急いで》
《やめてください! 私はここを離れるわけには──》
《抵抗するな。乱暴はしたくない》
《離して! あなたたちは何も分かってない! 今は──》
ファリの声は、次第に遠ざかっていった。
「ファリ! ファリ!!」
《……》
そして、通話は沈黙に包まれる。
すぐに、足音と物音。誰かが電話を拾い上げたようだった。
「あなたたち、ファリをどうするつもり?」
《……》
「その人はこの世界を救う人よ、おとなしく返して」
《……ブツ》
電話は無言のまま切れた。
美羽は息を呑み、すぐに別の番号を押す。
「久保田さん、私です」
《美羽くんか、そっちはどうなっている?》
「ファリが攫われました」
《なに!?》
「攫ったのはおそらく久遠連合かと」
《科学の奴らか…》
「この混乱自体が最初から仕組まれていた可能性があります」
《奴らならやりかねない》
「ですが、帝国軍隊、ビクロ、サマ派両軍隊もすべて壊滅してます…。現場を見ると虐殺に近いことが起こったみたいです」
《いったい何が起こっているんだ》
「私たちでは無い、別の魔術師が数名で起こしたようです」
《なんてことを、これでは…》
「私はファリの救出に向かいます。彼女が居れば何とか仕切り直せるかもしれません」
《分かった。わたしは長老たちを集めて状況を説明する》
「お願いします」
電話を切ると、美羽は運転席に身を沈め、深く息を吐いた。
荒れ果てた空気の中、エンジンの止まった車内には、彼女の呼吸音だけが響く。
ふと視線を上げ、バックミラーを覗き込む。そこに――人影があった。
砂の上に、誰かが倒れている。
反射的にドアを開け、美羽は外へ飛び出した。砂を蹴りながら駆け寄ると、軍服を着た女性がうつ伏せに倒れている。
「大丈夫ですか!?」
声をかけても返事はない。だが、脈はあった。気を失っているだけだと分かり、美羽は胸を撫で下ろす。
辺りを見渡すと、少し離れた場所にも大柄な男性が倒れていた。
美羽は一瞬、迷った。
ファリを追うべきか――それとも、この二人を助けるべきか。
息を飲み、唇を噛みしめる。
だが結局、答えはすぐに出た。
目の前の命を、見捨てることはできない。
それが彼女の選択だった。




