国と人
強い日差しの中を、行き交う人々がせわしなく動いていた。
通りには屋台が雑多に並び、呼び込みの声と三輪自動車のクラクションが絶え間なく混じり合う。
そんな喧騒を見下ろすように建つ、年季の入ったマンションの一室。
コンクリート剥き出しの壁、そして窓には、かろうじてカーテンと呼べる一枚の布が、風に揺れていた。
木製のテーブルにノートパソコンを広げ、相沢開里は無言で画面を見つめていた。
椅子の後ろ脚だけでバランスを取りながら、ゆらゆらと揺れている。
この国に来て、もう六ヶ月が過ぎようとしていた。
街にも言葉にも慣れ、窓の外で飛び交う現地語の響きも、いまでは耳に馴染んでいる。
ただ、この国のお茶だけはどうしても口に合わなかった。
独特の香りと渋みの残る後味――それだけは未だに慣れない。
それを除けば、食事も気候も申し分なく、むしろ“旅先として勧められるほど”に、相沢はこの国を気に入っていた。
片耳にイヤホンを付け、そこから伸びたコードが机の上の無線機へと繋がっている。
インスタントコーヒーを啜りながら、相沢は静かに連絡を待っていた。
事の発端は、桐井からの指令だった。
特殊行動部・外事第六課――そう呼ばれる組織を隠れ蓑に活動している。
世界各地で発生する異常事案の情報を集め、分析し、時には抹消する。それが彼らの仕事だ。
六課の情報官が傍受した暗号通信の中に、「魔術師」と内通している人物の存在が確認された。
その潜伏先が、この国――ローム。
だが、“内通者がいる”という断片だけで、特定などできるはずもない。
ロームと呼ばれるこの国に初めて入国した日、相沢は本国の指令で現地パートナーを紹介された。
名前はバリー。
寡黙な相沢とは対照的に、気さくで陽気な男だった。最初のうち、相沢は必要最低限の会話しかしなかったが、六ヶ月という時間が二人の距離を変えていった。バリーの人の良さと誠実さに触れるうち、相沢は次第に心を開き、今では互いを信頼できる相棒となっていた。
拠点を築いた当初、装備も情報も本国と比べものにならなかった。通信機器ひとつ確保するにも苦労の連続だった。
それでも、情報収集能力に長けた相沢と、現地を知り尽くしたバリーの行動力が次第に実を結ぶ。
少しずつローム国内の情勢が見え始め、魔術師と繋がりを持つ可能性のある人物たちの輪郭も掴みかけていた。
だが、その中に一人だけ、決定的な情報が得られない人物がいた。
不自然なほどに足跡が掴めない。
その“手の届かなさ”こそが、彼こそ内通者だという確信を二人に与えた。
そして、相沢とバリーは直感に従い、調査を開始した。
軍事国家ローム――そのすべての決定権を握っているのが、ガサブ将軍という男だった。
前政権を武力で崩壊させた暴力的な独裁者。最初にその名を聞いた者の多くが、そう印象づけられた。
だが、彼は単なる武人ではなかった。冷徹な政治判断と統率力を兼ね備え、荒廃した国の再建を見事に成し遂げてみせた。ここ数年でロームは、復興どころか前政権を凌ぐほどの繁栄を遂げている。
今やガサブは、国を救った英雄として民衆から厚く支持されていた。その陰には、常に妻――ファリ夫人の存在があった。彼女の穏やかな言葉と的確な助言が、暴力で得た権力を“正当なもの”へと変えていった。
それでも、ガサブ自身はその地位に後ろめたさを感じていた。
前政権の末期、国は二つの宗派による対立で崩壊寸前まで追い込まれていた。政府は何度も会合を設け、話し合いによる解決を試みたが、溝は深まるばかり。ついには内戦が勃発する。
当時、軍事顧問として政府に仕えていたガサブは、幾度も軍の出動を進言したが、首相は最後まで“対話による解決”に固執した。
やがてガサブの中で何かが切れた。
彼はついに政府を武力で制圧し、その勢いのまま宗派勢力を鎮圧する。結果として内戦は終結したが、その代償はあまりに大きかった。
平和は訪れた――だが、血に濡れた平和だった。首相は責任を感じて自ら命を絶ち、国は瓦礫と絶望だけを残した。
ガサブは自分を責め続けた。
自らの行動が国を滅ぼしたのだと。
荒れ果てた土地では人々の生活が立ち行かず、国民は次々と国外へ逃げ出していった。
政府高官ですら国を見捨てた。残ったのは、罪悪感と空虚だけだった。
それでも、ガサブは逃げなかった。
自分の責任は自分で果たす――その決意のもと、彼は復興に身を投じた。
そんな彼を支え続けたのが、妻・ファリ夫人だった。
彼女は夫の隣で信念を貫き、次第に人々の信頼を集めていく。
やがて同志たちがガサブのもとに集まり、ロームは再び国としての形を取り戻した。
治安が安定し、人々は帰還し、街には再び活気が戻っていった。
――だが、その国に“魔術師と内通する者”が潜んでいる。
それが相沢にはどうしても許せなかった。
平和を取り戻したこの国を、再び戦場に戻そうとする者がいる。
その事実が、相沢の中の正義を激しく揺さぶっていた。
彼は分かっていた。自分たちの任務が、時に希望を切り捨てることだと。
だからこそ祈っていた――どうか、内通者が政府の人間でありませんように。
しかし、現実は残酷だった。
相沢は画面に映し出されるファリ・ガザブと美羽を睨みつけた。
「ファリ・ガザブ、そしてミウ…」
アジア系であるこの女がどういった経緯でローム政府に潜り込んだかは分からない。一つだけ分かったことはこの女がファリ夫人の秘書をやっているということだけだ。名前と役職以外は謎に包まれている。この女がいつからロームに居たのか、前政権からなのか、復興の際潜り込んだのか、最近夫人の秘書に就いたのか。それすらも分からない。どの情報源を当たっても、彼女の“過去”は存在しなかった。
「お前は一体何者なんだ…」
そう呟く相沢の問いに答えるかのように無線からバリーの連絡が入る。
《待たせたな、相棒》
「首尾は?」
《上々》
「場所は?」
《ブンファ》
「これから向かう」
《待ってるぜ》
イヤホンを外し、上着を取ると、相沢は部屋を飛び出した。
露天が立ち並ぶ通りの突き当たりに、一際大きな店構えのレストランがあった。
店主の名を冠したその店――〈ブンファ〉。
昼時を過ぎてもなお、店内は客で埋め尽くされている。三十ほどある丸テーブルには、所狭しと料理が並び、客たちはそれを頬張っては大声で笑い、酒をあおる。
油と香辛料の匂いが混ざり合い、どこか甘く、湿った空気が漂っていた。
その喧騒の奥、バーカウンターには一人の女性が立っていた。
日焼けした肌に映える明るい衣装。気候を考えても露出の多い服装だが、それ以上に目を引くのは彼女の笑顔だった。きっと、この店に通いつめる客の多くは、料理ではなく彼女を目当てにしているのだろう。
相沢はそんな彼女と視線を交わし、歩み寄った。
「やあ、ブンファ」
「こんにちは、カイリ」
「バリーはいるか?」
「VIP席にいるわよ」
「VIP席?」
相沢は首を傾げ、店内を見回す。高級感のある席など見当たらない。
「なんだ、何かの隠語か?」
「失礼ね、二階席のことよ」
「ああ、そういうことか……」
レストラン・ブンファは、二階まで吹き抜けになった天井を持つ構造で、二階席が周囲をぐるりと囲んでいる。
一階の壁際の席は、その二階席の床がちょうど天井となるため、上を歩くたびに小さな埃が舞い落ちてくる。その為、二階席をビップ席と呼ぶのだろう。もっとも、そんなことを気にする客はいない。皆、笑いながら料理を平らげ、酒を飲み、くだらない話に花を咲かせていた。
「ありがとう、ブンファ」
「後で注文取りに行くわ」
二階に上がると、一階と同じ丸テーブルがずらりと並んでいた。
その一番奥の席で、バリーが手を振っている。
「まったく、あいつは……」
相沢は小さくため息をつきながら歩み寄る。
「よう、悪いが先に始めてるぜ」
テーブルの上には、既にいくつかの皿が空になっていた。
バリーの手には、半分ほど減ったビール瓶が握られている。
「まだ昼間だぞ」
「なんだ、お前の国では昼間から飲むのは犯罪なのか?」
「別にそういう訳ではないが」
ジト目でバリーを見ながら相沢は席に腰を下ろす。
「それで、ミウの情報は掴んだのか?」
「おいおい、いきなり仕事の話かよ。カイリは真面目だなぁ」
「お前がもう少し真面目になれ。そうすれば、俺も力を抜いて仕事ができる」
「そんなんじゃ一生無理だな。何を言うかと思えば“仕事ができる”だと? お前、仕事しか頭に無いのか?」
「……そんなことはない。アルコールぐらい飲む」
胸を張るように腕を組む相沢。その様子を見ていたブンファが、注文を取りにやってくる。
彼女は身をかがめ、相沢の顔を覗き込んだ。
「ん?」
「ウチの店で、そんな顔してるのはカイリくらいね」
「い、いきなり顔を近づけるな」
驚いて冷たく言い放つ相沢。その表情を見たブンファとバリーは、思わず視線を合わせ、同時に吹き出した。
「なに顔赤くしてるんだよ」
「カイリはかわいいね」
2人の笑いに、相沢はふてくされた顔をして視線を逸らす。
「……注文取りに来たんだろう」
改めてブンファを見ると、彼女の腰にはパレオが巻かれており、腿のあたりまで滑らかに露出していることに気づいた。
その一瞬、視線を逸らすのが遅れた。頬がまた赤く染まる。
その変化を見逃すバリーではない。
「くくっ……カイリ、そんなんでよくやってこれたな」
もちろん、潜入捜査のことを指している。
「べ、別に誰にでもこうなるわけじゃない!」
慌てて反論する相沢。しかし、その言葉の裏に別の意味があることを2人は察していた。
「ほぉ」
「あら〜」
揶揄うような2人の笑みに、相沢は更に顔を赤くして叫ぶ。
「ち、違う!」
「まあ、このくらいで勘弁してやるか」
「そうね、うふふ」
ブンファは笑いながらテーブル上の皿を確認し、メモを取り出す。
「食事はまだいいわね。カイリはコーヒー?」
お茶が苦手な相沢は、いつもコーヒーを頼む。
メニューには無いが、ブンファがわざわざ相沢のためにコーヒーメーカーを取り寄せていた。
「ああ、いや……」
先ほど“アルコールも飲む”などと口走ってしまった手前、注文をためらう。
それを察したブンファが、優しく笑って肩をすくめた。
「無理にバリーに付き合うことはないわ。コーヒー淹れてくる」
ウィンクひとつ残してブンファは階段を降りていく。
相沢は無意識に彼女の背中を目で追い、姿が見えなくなるまでその視線を離さなかった。
「いい女だろ?」
「ああ…いや、確かに…ブンファはいい人だ」
「あいつも、ああ見えて苦労してるんだ。幸せにしてやってくれよな」
「な、なにを言い出すんだ」
「何って、お前らはお似合いだと思うからな。俺にとってブンファは妹みたいな子だからな、それなりに心配してるんだよ」
バリーの言葉を聞きながら、相沢は思い出していた。
初めてこの店に連れて来られた日のことを。
そのとき、バリーは語っていた――ブンファとは十歳離れていて、ずっと妹のように可愛がってきたこと。
両親が内戦で亡くなって以来、ブンファはこの店を一人で切り盛りしてきたということ。
店の名前「ブンファ」は、もともと彼女の両親が店を開く時につけたもので、“喜び”を意味する言葉だった。
娘が生まれたとき、常連たちは自分のことのように喜んだ。
ブンファという名には、数え切れないほどの人々の笑顔と記憶が宿っている。
だからこそ、彼女は自分の名前が好きだったし、この店と、ここに集う人々を誰よりも愛していた。
そして、ブンファがコーヒーメーカーを相沢のためにわざわざ用意したと聞いてから、バリーの目線が少し変わった。
最初は“妹に釣り合うかどうか”という品定めの眼差し。
だが今では、相沢を信頼し、家族のように見ている。
生真面目で誠実な男――そういう印象が、バリーの心を動かしていた。
「どうだ、このままここで暮らすっていうのは」
「お、俺は仕事で…。それにブンファにだって選ぶ権利はあるだろう、妹みたいに想っているならブンファの気持ちを尊重してやれ」
「なるほどね。生真面目、謙虚。なんだかんだ真面目すぎるだとか言っても、お前のそういう所を俺は気に入ってるんだよ」
「急になにを言うんだ」
「まあ、そういう選択肢もあるということだけ頭に入れておいてくれ」
「…ああ」
バリーは残っていたビールをぐいと飲み干し、静かにグラスを置いた。
「カイリは一度に一つのことしか出来ないからな、無数にある選択肢が見えなくなる時がある。人生の先輩として、しがらみよりも自由を選択することのほうが大事だということを言いたいだけだ」
「…分かった、頭に入れておく」
「よし!めんどくさいが、仕事の話でもするか」
「まったく…」
バリーが空になった瓶を振るように傾け、笑う。
相沢はその様子を見て、思わず苦笑した。
こんな他愛のないやり取りの中に、確かな絆がある。




