兵士
帝国陸軍には、干支にちなんで名付けられた十二の師団が存在する。
子、丑、寅、卯、辰、巳、午、未、申、酉、戌、亥――。
そして、それぞれの師団には「零」と呼ばれる精鋭分隊が置かれていた。
零に選ばれることは、陸軍兵にとって最高の名誉である。
その称号を手にするために、すべての兵士が己を鍛え続けていた。
中でも突出した戦績を誇ったのが、卯師団の零部隊――卯零隊だった。
そして、その隊を率いていたのが神木遙である。
彼女は、陸軍史上初の女性零隊長として異例の抜擢を受けた。
任命にあたっては、軍上層部の間で賛否両論が巻き起こったという。
だが「性別を理由に有能な兵を埋もれさせるのは軍の損失だ」という意見が勝り、時代の潮流も追い風となって、神木遙は正式に卯零隊の隊長に任命された。
真面目で誠実、誰よりも責任感が強い。
そして、仲間から絶対の信頼を寄せられる人物――。
その名は軍内に広まり、遥の知名度は上がっていった。
国を守るという使命に、誇りと覚悟を抱いていた彼女にとって、
卯零隊は単なる部隊ではなかった。
そこは、自らの存在意義であり、心から誇れる“居場所”だった。
突然の呼び出しだった。
おそらく新たな作戦の通達だろう――遙はそう考えながら、上官の執務室へと足を運んだ。
だが、扉を開けて聞かされた言葉は、想像していたものとはまるで違っていた。
「神木少佐、君に会いたいという者がいる。警察庁の人間だ」
「警察庁……ですか?」
「そうだ。我々、帝国国防省とは畑の違う連中だ」
「それが、私に……?」
思わず問い返した声に、上官は小さくため息をついた。
「これは上からの命令でね。私にも、そして神木少佐にも“断る”という選択肢は無い」
遙は短く息を吸い込み、姿勢を正す。
「――はっ」
凛とした声とともに敬礼を終えると、上官に一礼し部屋を後にした。
廊下に出た瞬間、遙の頭の中にはいくつもの疑問が浮かんでいた。
警察庁が陸軍の人間に接触してくる――。
一体、何が始まるのか。
足音だけが無機質な廊下に響いていた。
帝国陸軍応接室――そう案内された部屋を見て、桐井は小さくため息をついた。
そこはまるで古びた小学校の教室のような木造の広い部屋だった。中央には折りたたみの机が一つ、その両側に簡素な椅子が二脚、まるで尋問でも始まりそうな配置だった。
「……これは嫌がらせか?」
桐井は眼鏡を指先で押し上げ、長く束ねた髪を軽く払うと椅子に腰を下ろした。
机の上には、これから会う人物――神木遙の資料が置かれている。
数ページをめくり、書かれた経歴を一瞥したところで、扉がノックされた。
「帝国陸軍三等陸佐、神木遙であります!」
「入りたまえ」
「はっ、失礼します!」
引き戸が開き、遙が姿を現す。
制服の皺一つない姿勢、無駄のない敬礼――まさに軍人そのものだった。
桐井はその様子を観察しながら、右手を軽く上げて向かいの椅子を示す。
「掛けたまえ」
「はっ」
遙は静かに腰を下ろした。部屋の中には時計の針の音だけが響く。
桐井は資料に視線を戻し、ページをめくりながらしばし沈黙する。
遙はその沈黙の意味を測りかねて、呼吸を整えた。
数秒ののち、桐井が口を開く。
「神木遙少佐。君の資料を拝見した」
視線を資料から外し、まっすぐに遙を見据える。
その眼差しは、まるで人の奥底を覗き込むようだった。
「……優秀すぎるな」
「恐縮です」
遙は背筋をさらに正し、短く答えた。
「私は、世辞や交渉、嘘や人を欺くようなことがあまり得意ではなくてね。率直に言おう。――君をスカウトしに来た」
「……私を、ですか?」
想定外の言葉に、遙は思わず聞き返した。
自分の分隊が特殊任務に駆り出されるのだとばかり思っていた。
机の上の資料も、そのための人選だと――そう考えていたのだ。
「君にはテストを受けてもらう」
「スカウトではあるが、テスト次第では不合格も有り得るということでしょうか?」
「その通りだ」
淡々と答える桐井の声には、わずかな笑みすら感じられない。
遙にとっての居場所は陸軍であり、他の組織に移る気など毛頭なかった。
一瞬、“わざと手を抜いて落ちてしまえばいい”という考えが脳裏をよぎる。
だが、それを許さないものが胸の奥にあった――自分自身の誇りだ。
「……分かりました」
遙が静かに答えると、桐井は頷き、口を開く。
「先程も言ったが、私は交渉が苦手だ。だから、これから君にやってもらうことを最初にすべて話しておく。そのほうが君も心構えができるし、実力を出しやすいだろう」
桐井は資料を閉じ、真正面から遙を見る。
「つまり、これから行うテストの結果――それが君の“本当の実力”だと私は判断する」
「はっ」
「これから軽い質疑応答を行ったのち、実践を交えた体力テスト・状況判断テスト・危機管理テストなど、32項目を12日間かけて行う。長いと感じるかもしれないが、それだけ我々の機関が特殊であり、重要な使命を帯びているということだ」
「はっ」
「では、質疑応答を始めよう。――そんなに肩に力を入れず、世間話だと思って話してくれ」
「よろしくお願いします」
桐井はゆっくりと息を吐き、静かに遙を見つめた。
その瞳は笑っていなかった。
――もう、テストは始まっている。
遙はそう悟り、無意識に背筋を伸ばした。
「今現在、世界情勢は均衡を保っているように見える。だが、それは多くの人々が見る“仮初の平和”に過ぎない」
桐井の声は低く、しかし明瞭だった。
「我々は常に、見えない危機に晒されている。その危機を阻止するためには――殺人さえも手段として成立する。……もちろん、君ならその意味を理解しているだろう」
「はい。そのために我々は日々、鍛錬を欠かしません」
「だが、わたしの考えている脅威と君の考えている脅威は別物だ」
桐井はそう言うと、手元の資料から一枚の写真を抜き取った。
「わたしが相手にしているのは、こういった脅威だ」
手渡された写真には、一人の女が映っていた。
女は軍人の首を片手で掴み、そのまま軽々と持ち上げている。
一見すれば、戦場の一瞬を切り取った報道写真のようにも見える。
だが、ただの戦闘写真とは決定的に異なる“ある一点”があった。
――掴まれた軍人の身体が、燃えていたのだ。
炎に包まれた軍人は、苦痛に歪んだ表情を浮かべている。
だがその炎はどこか奇妙だった。色は淡く、衣服の輪郭もはっきりと残っている。
そして、女の手もまた燃えているのに、皮膚は焦げひとつ負っていなかった。
女は微笑んでいた。
その笑みは愉悦とも、狂気ともつかない。
掴み上げた首のあたりが、まばゆい光を放っている――
まるで、女の手のひらから炎そのものが生まれているかのように。
「こういった――“超人的な脅威”を相手にしながら、我々は日々、平和を保っている」
写真を見せられ、遙は思わず眉をひそめた。
沈黙が数秒。やがて、冷えた声が口をついた。
「……私を、からかっているのでしょうか?」
桐井は目を細める。だが表情は微動だにしない。
「どういう意味だね?」
「このような写真を見せられて、私をからかっているとしか思えません」
「……これが、わたしの作り話だと?」
「初めに桐井さんは、“人を欺くことが得意ではない”と仰いましたね」
「ああ、言った」
「確かに、それは真実のようですね」
遙は静かに立ち上がった。
視線を落としながら、言葉を絞り出すように言う。
「申し訳ありませんが、これ以上はお付き合いできません」
敬礼もせず、踵を返して扉へと歩き出す。
その背に、桐井の声が落ちた。その背に、桐井の声が落ちた。
「神木遥、君にとっての現実とはなんだ?」
足が止まる。
ゆっくりと振り返った遥の瞳には、怒りが宿っていた。
自分だけではない。共に汗を流し、国を守ってきた仲間たち全員を侮辱されたような気がした。
与太話と子供騙しの写真を見せられた上で、「現実とは何か」と問われる――これ以上の侮辱はない。
怒りを押し殺し、冷静に答える。
「現実とは真実です。自分が見聞きした情報を分析して真実と成す。その情報が蓄積されて見える世界が現実です」
「……なるほど、良い答えだ」
桐井は小さく頷いた。その声音には満足の色が混じっている。
「だからこそ、わたしは君を選んだ」
「お誘いは光栄ですが、私にとっては時間の無駄のようです」
遙の声には、冷たい決意がこもっていた。
「わたしが話した言葉と、見せた写真――」
桐井はゆっくりと指を組む。
「そこには、まだ分析する余地があるはずだ。少なくとも、君にとっては」
遙は静かに向き直り、真っすぐ桐井を見据える。
「それは、話の中に“真実”があればのことです。
しかし――今の話の中で、私が掴める真実はひとつもありませんでした」
「そう、それはとても恥ずかしいことだ」
その言葉の奥に、単なる説教ではない確信のようなものを感じた。
遙は一瞬だけ桐井の表情を見つめ、その目の奥に“虚言ではない何か”を見た。
深く息を吸い込み、椅子へと戻る。
そして正面から桐井を見据えた。
「……分かりました。続きを聞きましょう」
桐井の唇が、満足げにわずかに歪む。
「神木遥。君の反応は正しい――それこそが、“正常”だ」
「正常?」
「そうだ。君のような人間が、写真を見て憤りを覚えるのは自然なことだ。
世界を守ってきた我々の仕事とは、そういった“正常な価値観”を守ることに他ならない。
現実ではあり得ないもの、理解できないもの――それらを“闇に葬る”のが、わたしたちの使命だ」
「つまり、私の反応そのものが、あなたたちの仕事の成果だと?」
「その通りだ」
「君は写真を“作り物”と判断した。その分析こそが、わたしたちが作り上げてきた“常識”の結果なんだ」
「……この写真が作り物ではないと?」
「君はなぜ、そう思った?」
「人の手から炎を生み出して相手を殺す――そんなことは現実にあり得ません。
たとえトリックで再現したとしても、なぜそんな写真を私に見せるのか、意図が分かりません」
桐井は、ゆっくりと組んだ指をほどいた。
その目に宿る光が、ほんのわずかに強くなる。
「――この写真は作り物ではない。トリックでもない」
「……?」
「この女は、本当に手から炎を生み出す。
そして――人を焼き殺すことができる」
遙の背筋に、冷たいものが走った。
その瞬間、部屋の空気が一段階、重く沈む。
「信じられないのは当然だ。――そういった能力を持った者たちを、我々はこれまで抹殺し、存在そのものを闇に葬ってきたのだからな」
遙は机の上の写真を見つめ直した。
最初に見たときとは違う。今、その瞳には好奇心ではなく、確信を求める真剣さが宿っている。
「これが真実だと言うのですか?」
「君の知らない『真実』は、この世界に無数に存在する。平和を保つためには、そうした真実こそが最大の弊害になる。だからこそ真実は決して公にされてはならず、我々の存在も表に出てはならない。人々に称賛されるどころか、空言と罵られて世間に欺きと断じられることがあっても構わない。平和を守るという信念さえあれば、それで十分なのだ。」
桐井は机の上で指を組み、静かに遙の瞳を覗き込む。
「そんな自分で自分を讃えている寂しい連中の1人として、仲間に加わる気は無いか?」
その問いに、遙の心はもう揺れていなかった。
拒絶という選択肢は、すでに消えている。
真実を知った人間は、知る前の世界には戻れない。
そして彼女は、その真実の中に“救うべき世界”を見た。
「そのテスト、是非受けさせて頂きます」
「――はい、合格」
「は?」
桐井の言葉に面食らった遥の表情を見て、桐井は吹き出すのを必死にこらえた。
しかし、堪えきれず口元がわずかに緩む。
「これからよろしくな」
「い、いや…32項目12日間のテストは…」
「ああ、あれは嘘だ。そんな面倒くさいこと、するはずないだろう」
「え、ええ…」
「そういえば名前がまだだったな。わたしは桐井大地だ」
「桐井、さん……」
「それと、“警察庁の人間”と言ったが――あれも嘘だ」
「……」
「政府機関ではあるが、公にされることは無い。世辞や交渉、嘘や他人を欺くといったことが得意だからな。――そうでなければ、この国の平和など守れやしない」
その笑みは、皮肉にも見え、どこか誇りにも満ちていた。
桐井大地という男は、決して無闇に真実を語る人間ではない。
それでも、彼はリスクを承知で遙を迎え入れた。
彼女が必ずこの誘いに乗ると、最初から知っていたのだ。
一見、強引な勧誘。
だがその裏には、遙という人間への“深い期待”が確かにあった。




