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ある雨の日、新しい命

 息子が生まれたのは、六月の雨の日だった。


 朝からしとしとと静かに雨が降っていて、花音ちゃんは


「雨のいい匂いがする」


 なんて言って、大きくなったお腹をさすりながら縁側に座っていた。

 俺は市場から戻ったところで、濡れた頭を拭きながら今日の仕事のことを考えていた。けど、気がついたら花音ちゃんが俺を見上げて目を丸くしていた。


「花音ちゃん?」

「藤乃さん、お腹痛いです」

「え? 病院行く?」

「いえ……これ、あれです。たぶん陣痛です」

「え、待って、車っ」

「いえ、まだ間隔が開いてるからまだだと思います。あの、お義母さんかお祖母さんを呼んでください。私は一応病院に連絡しますから」

「わかった、すぐ呼ぶ、あいたっ」


 こけつまろびつ、という言葉がふと思い浮かぶ。

 それくらい俺は慌てふためいて、母親と、家のことを頼むために一時的に戻ってきていた祖母を呼びに走った。



 息子が生まれたのはその半日後。

 初産にしては早くて安産だったということらしい。

 立ち会いをしていた俺には、とてもそうは見えなくて、花音ちゃんが死ななくて本当に良かった。なんかもう、俺の方が倒れそうだ。


「花音ちゃん、お疲れさま」

「……はい。藤乃さん、顔真っ青じゃないですか」

「うん。花音ちゃんが死んじゃうかもって思ったら、もう、どうしていいかわかんなくて」

「しっかりしてください、お父さん」

「だってさあ……」

「もー。あ、家に連絡はしましたか?」

「してない。してきます」

「お願いしますよ、お父さん」


 呆れられながら、うちの親と由紀さん、それから瑞希にも連絡を入れる。

 連絡しているうちに、花音ちゃんは分娩台から病室へと運ばれて行った。


「葵と理人にも写真送っていい?」

「かまいませんけど、子供だけにしてくださいね」

「もちろん。あ、由紀さんたちすぐ来るって。瑞希は交代で明日以降に来るってさ。澪さんも来てもいいかって」

「もちろん、いいに決まってるよ。お義母さんとお義父さんは?」

「花音ちゃんがいいなら今日、店を閉めてから来たいみたい。じいさんとばあさんも」

「お待ちしてますって伝えて」

「了解」


 あちこちに連絡したり、病院に書類を出しているうちに由紀さんたちが着いた。

 新生児室に案内すると二人ともガラス越しに、息子を見て涙ぐんでいる。


「……藤乃ちゃんそっくりだね」

「そうですか?」

「うん。よかった、須藤に似なくて」

「ちょっとあなた。お疲れさま、藤乃くん。これから大変だと思うけど、がんばってね」

「ありがとうございます。何かあったら、なくても頼らせてください」

「ええ。それじゃあ花音のところに行きましょう」

「あ、母さん先行ってて」

「はあい」


 俺は由紀さんと二人で、またガラス越しの息子を眺めた。

 あんなに小さいのに、間違いなく生きていて、時々手を動かしたり、唇を舐めたりしている。


「……なんか感傷的になっちまうなあ。あの赤ん坊は俺の孫らしいけど、桐子さんにそっくりだし、赤ん坊のときの藤乃ちゃんにも似てる。でも見てると瑞希や花音が生まれたときのことを思い出すんだよ」


 隣に立つ由紀さんは淡々と言いながら、じいっと息子を見ていた。


「そのうち、俺や小春のことじいちゃんって呼ぶのかなあ。あんな小さいのに」

「たぶん。呼ぶんだと思います。……俺も不思議でした。さっきカンガルーケアしてたんですけど、赤ん坊を抱えてる花音ちゃんは、花音ちゃんのはずなのに母さんにも由紀さんのおふくろさんにも似てて」

「母親になったんだよなあ。あの花音がなあ」


 そう呟く由紀さんの目には何が映っているんだろう。

 いつか、俺にも分かる日が来るのだろうか。


「まあ、頑張んなよ。手を貸すくらいはするから。あ、ランドセルは俺が買ってやっていいかな」

「気が早いです」

「須藤も買いたがるかなあ……そうしたら、瑞希の子で我慢するか……いやでも澪さんはどうしたいかなあ」

「あの、花音ちゃんのところに行きましょう。ランドセルの前に必要なものはもっといろいろありますから」


 悩み始めた由紀さんの背中を押して病室に向かった。

 病室に由紀さん夫婦と花音ちゃんの三人だけにして、俺はまた新生児室に戻った。

 赤ん坊は眠そうにあくびをしていて、かわいいのかどうかはよくわからない。

 でも、何人か並んで寝ている中で、その一人だけを見分けられるから、あれはたぶん俺の息子なんだろう。

 不思議だ。

 あのしわくちゃの赤ん坊には俺の血が入っているらしい。

 初めて葵を見たときとはまた違う感情がある。

 しばらくして帰って行った由紀さんたちを見送って、病室に戻った。


「うちの子はどうしてましたか?」

「あくびしてた」

「私も疲れちゃいました。えっと、手続きがいろいろあると思うんですけど」

「じゃあ、俺は一度帰ってまとめておくよ。夜にまたうちの親を連れて戻るから」

「わかりました。私も必要な手続きについて、聞けたら確認しておきます。……藤乃くん、お父さんの自覚はわいた?」

「わかんないな」


 花音ちゃんにごまかしなんてきかないから、素直に答える。


「でも赤ん坊が何人か寝てたけど、一人だけ見分けがつくから、あの子がうちの子だってのはわかるよ」

「じゃあ大丈夫。一緒にお父さんになり、お母さんになろう」

「……花音ちゃんと結婚してよかった」

「それは私も。藤乃くん、これからもよろしくね」

「うん、至らない俺ですが、よろしくお願いします」


 少しだけ花音ちゃんを抱きしめて病室を後にした。

 家に帰ると親父があたふたしていた。


「何してんの?」

「お、藤乃!? 花音ちゃんについてなくてよかったのか?」

「疲れたから寝るって言うから出てきた。申請に必要な書類を確認したしたいし」

「そんなもん、産まれる前にしとけよ!」

「したよ。病院から事前にもらった書類とあと印鑑持って行けばいいはず。母さんが店閉めたら、一緒に行くだろ?」

「行く! あ、由紀は?」

「さっき来てた。ランドセル買うってさ」

「は? 俺が買うけど? 抜け駆けかよ!」


 親父は顔をしかめてスマホを取り出した。

 由紀さんに電話をかけて騒いでいるから、放っておいて書類をカバンに入れて、花屋に顔を出す。


「あら、帰ってきてよかったの?」

「写真見せてちょうだいな」


 母さんとばあさんが同時に寄ってきた。

 スマホを渡して、店のエプロンをつける。


「私とお義母さんでやるから、別にいいわよ」

「何かしてないと落ち着かないんだよ」

「あら、藤乃そっくり」

「ほんとですねえ。コピーみたい」

「そのうち小春みたいになるのかしら」

「なるかもしませんね……」


 母さんとばあさんは好き勝手言いながら写真を見ている。

 俺は店先を掃除して、減っていた花を補充した。

 お客さんにミニブーケを勧めて、ラッピングをおまけする。


「そういえば、名前って決めたの?」

「いくつか候補は上げてあるよ。子供を実際に抱っこできるのが明日以降だから、実際に見て決める」

「そう。楽しみねえ」

「……ちなみに小春は、小春日和に産まれたから小春なのよ」


 ふとばあさんがスマホを見つめながら言った。


「知ってる。単純だけど、似合うからなあ、親父に」

「ねえ、素敵な名前ですよ、小春さん」


 本人は「女みたいな名前だよな」と酒が入ったときにぼやいていたけど、でも母親が呼ぶと嬉しそうにするから、そんなに嫌ってるわけじゃなさそうだ。



 ……俺の名前も女っぽいけど、これは親父が決めた名なのだと、いつだったかに酔っ払った親父から聞いた。


「俺の小春って名前は女っぽいし、からかわれることもあるけど、それでも桐子さんが呼んでくれるから嫌いじゃない。だから藤乃も、名前を呼ばれるだけで自分を好きになれるような、そんな相手に会えるといいなあ」


 その親父の願いは叶っていて、花音ちゃんが笑顔で俺の名前を呼んでくれるから、俺は俺のことが許せるし、好きでいられる。

 じゃあ、息子の名前はどうしようか。



 数時間後、店を閉めて客先から帰ってきたじいさんも一緒に病院に向かった。

 親父と母親は新生児室へ、じいさんばあさんは俺と花音ちゃんのところへ向かう。


「お疲れさまでした、花音ちゃん。しばらくは病院でゆっくり休んでね」

「はい、ありがとうございます」

「写真見せてもらったけど、藤乃そっくりだな。笑っちゃったよ」

「ふふ、私も笑っちゃいました。お義母さんに見せてもらった、藤乃さんが赤ちゃんのときの写真と同じ顔でしたね」


 いつの間にそんなものを見たんだろう。

 花音ちゃんはときどき、俺ですら知らない家のことを知っていたりする。

 しばらくして母親が病室に来た。


「親父は?」

「新生児室の前で泣いてるわ」


 母親が笑って肩をすくめた。


「なんで……?」

「あなたにそっくりだから、感極まっちゃったんでしょ」

「しょうのない息子だこと」


 ばあさんも笑って、じいさんを立たせた。


「私たちもひ孫を見に行きましょうかね」

「そんなに藤乃に似てるのか。そりゃ、楽しみだ」


 母さんに椅子を勧めて、俺は買っておいたお茶を紙コップに入れる。

 すぐにやってきた親父はおいおい泣いていた。


「泣きすぎだろ」

「仕方ねえだろ。あんなちっちゃいのに生きてるんだぞ。桐子さんが藤乃を産んだ日のことを思い出したら、俺はもうダメだ。桐子さん、息子を産んでくれてありがとうね……」

「三十年以上前のことですよ。今日頑張ったのは花音ちゃんです。ごめんなさいね、花音ちゃん。この人感極まるとダメだから」

「ふふ、大丈夫です。たぶん藤乃さんの三十年後もこうだと思います」

「想像がつくわ……。とにかく、花音ちゃん。お疲れまでした。病院にいる間にしっかり休んでね。退院したら、なかなかゆっくりできないから」

「ありがとうございます、お義母さん」


 母親が花音ちゃんをねぎらっている間に親父も泣き止んで、茶を一気飲みした。


「由紀が子供のランドセル買いたいって言ってたんだけど、俺も一緒に選びたいよ」

「子供と三人で選んでください」

「そうしようかなあ。花音ちゃん、本当にお疲れさまでした。至らない息子だけど、今後ともよろしくお願いします」

「こちらこそ。藤乃さん、出産の間ずっと手を握っててくれましたよ」

「それしかできないからね」

「小春さんは横でずっと号泣してたから、それよりマシだわ。さ、長居しても迷惑だからもう一度赤ん坊を見て帰りましょう」


 また泣きそうになってる親父を連れて、母親が病室から出て行った。


「そろそろ面会時間が終わりだから、俺も帰るね。花音ちゃん、ゆっくり休んでて」

「……藤乃さんがいないと寂しくて休めないです」

「俺もそうだよ。たぶんベッドの隅で一人でメソメソして寝られないと思う。でも寝ないとね。眠くて赤ん坊を落っことすわけにはいかないから。明日は瑞希と澪さんと一緒に来るね」

「はい、お待ちしてます」


 最後にもう一度花音ちゃんを抱きしめて病室を出た。

 新生児室の窓に張り付いている両親とじいさんばあさんを連れて、帰宅する。

 予想通り一人のベッドは広すぎて泣きたかったけど、来週には花音ちゃんは帰ってくるし、並べてあるベビーベッドにも赤ん坊がやってくるから、ちゃんと寝た。


「うわー、本当に藤乃そっくりだな」


 花音ちゃんが抱えていた赤ん坊を見て、瑞希が笑った。


「藤乃さん、抱っこしてあげてください」

「えっ、わ、はい。……わ、重いし、温かい」


 花音ちゃんから差し出された赤ん坊を受け取ると、見かけよりずっと重くて、温かくて、そして柔らかかった。


「マジで。俺も俺も」

「お兄ちゃん、人形じゃないんだから」


 一度花音ちゃんに赤ん坊を渡し、瑞希が恐る恐る抱っこした。

 赤ん坊は目をぱちっと見開いて瑞希を見つめている。

 そっか、瑞希はこの子の伯父さんなんだよなあ。


「なんつーか、命だなあ」


 ふと黙ったままの澪さんを見ると、ぼろぼろ泣いていた。

 慌ててボックスティッシュを差し出すと、ますます泣いてしまう。


「す、すみません……その、瑞希さんが赤ちゃんを見る目が優しくて、なぜか泣けてしまいました」

「泣くこっちゃねえだろ。花音、澪も抱っこしていい?」

「もちろん。澪さん、抱っこしてあげてもらえる?」

「は、はい!」


 澪さんが恐る恐る手を伸ばした。

 瑞希はそっと赤ん坊と澪さんの両方を支えている。

 その瑞希の顔を見たら、澪さんが泣きたくなった気持ちがわかった。


「藤乃さん」

「うん?」

「お兄ちゃんが旦那さんの顔してますよ」

「そうだねえ。俺、泣きそう」

「……藤乃さんはお兄ちゃんのなんなんですか?」

「瑞希にとって俺は唯一無二の親友です」

「自分で言うんですね、それ」


 澪さんが、赤ん坊を花音ちゃんに返した。

 赤ん坊はふわふわとあくびをして目を閉じた。


「やっぱりお母さんが安心するんですねえ」

「そうだと嬉しいなあ」


 その後少し話をして、瑞希と澪さんを見送る。

 病室に戻ったら、赤ん坊はベビーベッドに寝かされていた。


「この子、あまり泣かないんだね」

「そうですね。他のお子さんやお見舞いの様子を見てると、他の人に抱っこされるて泣いている子が多いですけど、この子は藤乃さんにもお兄ちゃんにも澪さんにも泣かなかったですね」

「たぶん、俺と同じで瑞希のこと大好きなんだよ」

「澪さんも?」

「澪さんが抱っこしてる間、ずっと瑞希も支えてたからね。安心したんじゃないかな」


 カバンから書類を出した。

 花音ちゃんも病院からもらった書類を出してくる。


「名前を決めないと」

「そうだね。花音ちゃんは何がいい?」

「やっぱりこれがいいです。私、藤乃さんの名前が好きなので」

「じゃあそうしよう」

「藤乃さんはそれでいいんですか?」


 俺は赤ん坊の頭を撫でながら、花音ちゃんがいいと言った名前を呼んでみる。

 うん。これがいい。


「いいよ。花音ちゃんが呼んでくれるから、俺は俺の名前が好きだ。だから、好きな気持ちを継げたらいいと思う」


 出生届に名前を書いた。

 須藤藤也。

 相変わらず藤の字が続いてごちゃつくけど、それでも俺はこの子を藤也と呼ぶことにした。


「藤也。待ってるから、はやくうちにおいで」

「……私も、さっき澪さんが泣きたくなった気持ちがわかりました」


 花音ちゃんがティッシュで目元を押さえながら言った。


「藤也を見る藤乃さんが、すごくお父さんでした。あなたの子を産めてよかった」


 たぶんありきたりで、どこにでもある話なんだけど。

 それでも俺はちゃんと幸せで、それは目の前で涙ぐむ女の子のおかげだ。


「ありがとう、花音ちゃん。これからも、息子ともども、よろしくね」


 赤ん坊の寝息が、静かに病室に響いた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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