薬屋
華霖王朝・北辺の峻嶺地帯に、「千蟠館」という廃れた薬館があった。
かつては王命を受け、戦乱の兵らを癒すため、秘薬を調合していたが、ある年を境に忽然と閉じられ、以降、誰も立ち入る者はいなかった。
若き医官・徐 無志は、失われた“蟠薬”を探すため、禁忌とされるその地へ足を踏み入れた。
蟠薬とは、病の源を人から引き剝がし、薬壺に封じるという、古の妖術と医術の境にあった術薬。
徐の妹は、原因不明の高熱にうなされていた。都の医師たちも匙を投げ、「この世に在らざる病」と言った。
だが、かつて読んだ古医書に、蟠薬の記述を見つけたのだ。
――魂を鎮め、病を抜き、器に蟠させる。
ただし、薬は、飲む者ではなく“病そのもの”に喰われる。
薬館の門は軋んだ音を立てて開いた。
館内はひどく湿っていた。壁は苔に覆われ、瓶や壺が無数に棚に並ぶ。
そのいずれにも、名の刻まれた木札がぶら下がっていた。
「沈梅」「霍澄」「蘇連」……。そのどれも、千年前に死んだとされる者たちの名だった。
奥の調薬室で、徐は一冊の帳面を見つけた。
「蟠薬は、“病の形”を瓶に移し、人の身から追い出すもの。
だが、形なき病には効果はない。
逆に、形なきまま瓶を開けば、“病”はこの世に解き放たれる」
その夜、徐は調薬台の上で、妹の名を書いた木札を吊るし、調薬を始めた。
使用するのは妹の髪、涙、血。
そして“魂の香”と呼ばれる黒練香を焚き、瓶を中空に掲げる。
瓶の中に、徐は確かに何かを見た。
薄い青の靄。かすかに子守歌のような声が混じっている。
瓶が震えだした。液体が満ちていく。
「……うまく、いった……?」
だがその瞬間、瓶の奥で何かが笑った。
「おまえの“信じたもの”が、わたしの形となったのよ」
瓶の中の液体が沸き立ち、逆流した。
徐の指を伝い、体内へと侵入してくる。
「おまえは病を救ったのではない。
病に、“居場所”を与えたのだ」
目が覚めると、徐は自宅の床に倒れていた。瓶は割れておらず、封は保たれていた。
だが、妹の寝台は空だった。
壁には黒く塗られた言葉があった。
「妹は病ではない。
妹は、蟠薬に“変えられた”」
徐の左手は瓶のように透明になり、指先が溶け、茶色の液体となって滴っていた。
その液体からは、妹の笑い声がかすかに聞こえる。
それから一月後。
都の薬市に、奇妙な壺が出回った。
飲むと、高熱や頭痛がたちまち癒えると評判になった。
だが、夜、薬を飲んだ者たちは同じ夢を見るという。
瓶の中でとぐろを巻く少女が、夢の奥からこうささやく。
「次は、あなたが“薬”になる番よ」