第9話
セシリアは馬車に揺られていた。車窓からは、穏やかな初夏の日差しが差し込んでいる。領地から王都へ戻ることになったのだ。
セシリアは隣に座るアレクシスをちらりと一瞬盗み見た。端正な横顔。セシリアの視線に気づいたのか、碧い瞳がこちらを見た。目が合う。
慌ててどぎまぎと目を逸らした。
アレクシスの忠告を無視して危険を呼び込んだのは自分なのに、それでも助けに来てくれた。そのことがどうしようもなくうれしかった。
だから、もう隠してはいられない。
こんなにも優しく、自分に好意を向けてくれる人を騙し続けられない。
心の中で八番が叫ぶ。
『使命はどうする!?』
『三十人、救ったわ』
『たったそれだけか?! 私たちのようにひどい目にあってる子どもはまだいる!』
『……領主令だけは、必ず発布してもらうわ』
だから、もう自分にも愛する人にも嘘をつかず、偽らずに生きたい。
八番が言う。
『きっと軽蔑される。嫌われる。捨てられる。死刑だぞ!いいのか!』
『それでもいい』
それでもいいから、今だけは幸せに酔いしれていたい。愛されたい。
「あの……」
「どうした」
優しいまなざし。
「少し、疲れました……あの、肩を、お借りしても?」
甘えてもいいだろうか。
「どうぞ」
断られなかったことに安堵し、そっと肩によりかかる。肩を、とは言ったが、身長差のせいでセシリアの額をアレクシスの胸に載せている格好だ。
服の布地を通してじんわりと人肌の温もりを感じた。馬車の走る音さえなければ鼓動も聞こえそうだ。
息が詰まって苦しい。熱い涙があふれる。アレクシスに気付かれないよう、急いでそっと涙を指で拭う。
「怖かった?」
気付かれてしまった。ハンカチを取り出して差し出してくれる。
肩に寄りかかり、彼に見えないよう俯いて涙を拭いた。
「大丈夫か」
震える手を、アレクシスが握ってくれた。大きく、温かい手のひら。
孤児だった八番は、こんな風に優しく手を握ってもらったことなどなかった。初めての温もり。
「ありがとうございます。」
顔を上げ、アレクシスの目を見つめる。
「アレクシス様の忠告を受け入れなかった、私の責任です。それなのに助けに来てくださって……申し訳ありません」
一度も責められなかった。そのことがうれしくも心苦しくもあった。
「いいんだよ。君は僕が守る。当たり前だ」
手を握ってくれる。その親指がやさしくセシリアの手の甲を撫でた。途端に手が熱を帯びてくる。
「ところで、セシルと呼んでもいいかな?」
耳元で呼気を含んで言われて、体温が上がる。きっと顔が赤くなっているだろう。
「……は、はい」
「僕のことは? アレク? レク? なんて呼びたい?」
「え、ええと、では、あ、アレク様……」
「アレクでいいよ」
セシリアが切実な想いで、死を覚悟しながらこうして甘えているのに、アレクシスはなんでもないことのようにただ優しかった。
「アレク」
甘えたように呼ぶと、彼はそれがうれしいように笑った。吐息が前髪にかかった。近さを改めて意識して、頬が熱くなった。
「うん、とてもきれいだよ」
アレクシスは満足そうに頷く。
セシリアは髪と同じ赤のドレスに身を包み、髪は結い上げて黄色の花を編みこんでいた。その花言葉は豊穣である。
社交界を病弱を理由に欠席していたセシリアだったが、年中行事は避けられなかった。今日は、毎年初夏に行われる豊穣を祈願する舞踏会である。
「あの……」
セシリアが硬い表情で口を開くと、話題を察した彼のにこやかだった表情が曇る。
「もうその話は終わりだ。くどい」
「アレクシス様の忠告を受け入れなかった、私の責任です。どうか寛大な処分を」
アレクシスはキャラバンのもの全員を捕らえ、処刑する言ったが、セシリアがそれに反対しているのだ。
「皆、貧しいものたちです。領地内からの追放処分に変えてください」
「もうその話は終わりだ。時間だ。行こう」
アレクシスはその顔に完璧な笑顔を張り付けていた。これ以上は話せない。
セシリアはその手を取り、馬車に乗り込んだ。
式典会場でセシリアを待ち受けていたのは、陰口だった。
「誘拐されたあとに戻ってくるなんてね」
「恥知らず」
「汚らわしい」
セシリアの背筋を悪寒が走る。
ーーそうだ、私はけがれている。誘拐のせいではない。もともとけがれているのだ。
式典会場は白い神殿だった。この神殿で祈りの式典ののち、園庭で豊穣を祈る舞踏会が行われることになっていた。
「私が妻だったら、こんな恥をかかせなかったわ」
セシリアははっと顔を上げる。栗色の髪をしたきれいな女性がいた。
「こんにちは、モリアンヌ嬢」
唇にほんの少し笑みを湛えて、セシリアと腕を組んだアレクシスが言う。その目が怒りに燃えているのが、セシリアには分かった。
「紹介しよう。僕の最愛の妻だ。誰よりも気高く勇敢で愛情深い女性だ。」
普段の柔和な表情が変貌する。鋭い目つきで周囲をぐるりと見渡す。
「僕の妻を侮辱する言葉は、公爵家への侮辱だ」
セシリアは俯く。守ってくれたことへの感謝。その愛情を裏切っている自分が、息ができないほど苦しかった。