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第4話


 縁談の書状を出してから一か月後には結婚式という、急ごしらえのとてつもない手抜きとはいえ、結婚式の準備のために時間を取られ、王宮での仕事が溜まっていた。今週はその処理に追われて無理をしたせいだろうか。

 昨晩から熱とひどい咳が出て、寝込んでいた。


 急に縁談を組まなくてはならなくなったのは、アレクシスの妹が貴族同士それも力のある公爵と結婚したいと言い出したからだった。王家に弓引く意がないと、その結婚の前に示す必要に迫られてしまった。

 今になって、妹より先にさっさと結婚しておけばよかったと悔いても手遅れだった。アレクシスは結婚相手を決められないまま二十六歳にもなっていたからだ。

 ずっと結婚を急かしていた母からも、ちょうどいい折だからさっさと結婚しなさいと圧をかけられ、アレクシスも折れた。

 アレクシスの容姿のせいで、言い寄ってくる女子は多かった。結婚するのなら、お互いに愛しあう人がいいとずっと思っていた。しかしその中から、運命の相手を見つけることができなかった。

 縁談の相手は、病気を理由に結婚式の前の顔合わせを二度もキャンセルした。縁談の話自体なくなってもおかしくなかったが、両家ともに結婚取りやめを言い出すことはなかった。

 力のない伯爵家が、公爵家の縁談を断れるはずもない。そして断られて困るのはこちらも同じ。

 その結果、式を挙げる日に初めて会うことになってしまった。病弱を理由に、意に染まぬ結婚をなんとか回避しようとしているのかそれとも当てつけかと、そう邪推していた。

 それなのに、当日会った彼女ーーセシリアは、あまりに清廉な、清々しいほほ笑みをしていたので、驚いた。想像していたよりずっと幼く感じた。病弱のせいだろうか。

 そんな彼女がこんな愛のない結婚をさせられるのかと思うと、それが貴族の宿命とはいえ哀れに思えた。

 自分が女性に好まれる容姿だとは知っている。もしも彼女に愛を期待されてもきっと応えることはできないだろうと思ってしまった。それで「愛のない結婚だ」と釘を刺すようなことを言った。

 残酷だっただろうか。しかし彼女は泰然とほほ笑んでその言葉を受け止めていた。

 小さな唇は赤い口紅で彩られ、そして形のよい笑みから変わらなかったし、緑の目は優しくアレクシスを見つめていた。化粧をした白い頬に涙が流れることもなかった。


「ごほっごほ」

 咳のせいで眠れない。体がだるいのに眠れないせいで余計に辛さが募る。

 控えめに、ドアをノックする音がした。アレクシスが寝ていたらと気を使ったのだろう、名乗らない。咳をしてから「入れ」と言う。召使いが飲み物でも持ってきたのだろうか。

 静かに部屋に入ってきたのは、妻だった。手に持った盆の上には水の入ったピッチャーとコップがあった。

「なんだ、その顔の、布は」

「これはマスクです。医学書に感染予防として書かれておりましたのでそのように」

 顔の下半分を白い布で覆って、白々しく言う。

「君は、生まれつき病弱なのでは。風邪がうつったら大事になるのでは……」

 そう案じると、妻は目を細めて優しい顔になった。

「お優しい。でも大丈夫ですわ、もうずいぶんと強くなりましたもの」

 妻は枕もとのチェストに水の入ったピッチャーを置く。

「咳がお辛いのでしょう。はちみつを入れたお水を持ってきました。いかがですか」

「ありがとう、もらうよ」

 体を起こしてコップを受け取る。セシリアの小さな白い手に触れた。ひやりと冷たかった。一瞬、どきりと鼓動が跳ねる。

 飲み込むと、甘みとともに喉の痛みが和らいだような気がした。ふらふらとまたベッドに倒れこむ。

 妻はそばの盥の水に躊躇なく手を入れると小さな白い布を浸して絞った。こなれた仕草だ。冷たい布巾をアレクシスの額に乗せた。

 火照った頭にとても気持ちがよかった。

「ありがとう」

「いいえ。さぁ、早く眠ってください」

 毛布を掛けなおされ、いつの間にかアレクシスは眠り込んでいた。


 アレクシスが目を覚ますと、窓からの陽が午後の日差しに代わっていた。

 枕もとには妻の姿があった。手にはヴァレンティア家の歴史書があり、アレクシスが起きたのにも気づかず、静かに読み耽っている。

 結婚式の翌日に、アレクシスの母に、領地の歴史書や地学書を読ませてほしいと手紙を出したら、その翌日には大量の本が届いたと、共にするようになった朝食の席で言っていた。

 病弱なのだから、朝早く出仕する夫に合わせる必要はないと言ったのに、彼女は毎朝早起きするようになっていた。

 アレクシスは、そっと彼女を見つめる。

 相変わらず、マスクとやらで色白の顔を覆っている。

 生まれつき病弱と聞いていたが、その白い肌は心配したほど不健康そうではない。気に入っているのかよく着ている質素な深緑の服の色は、髪の赤の鮮やかさを引き立てていた。

 午後の斜めの光を受け、長いまつ毛が下瞼に影を作っている。

 それがふいに上がって緑の瞳がこちらを見たので、アレクシスは驚いて「あ」と声を上げてしまった。なんとなく、まだ起きていることに気付かれたくなかった。まだ彼女をこっそり見つめていたかった気がした。

「具合はいかがです?」

「……だいぶ、よくなったよ」

 よかった、とほほ笑む彼女に、なぜか鼓動が跳ねた。

「この結婚に愛はないとおっしゃいましたね」

 セシリアはアレクシスの目を見つめ、淡白に言う。確かにそう言ったが、今少し後悔し始めていることを自覚した。

「愛は不要です。その代わり、どうか信頼をくださいませ」

 そう言った緑色の瞳は静かに燃えているように見えた。


「なんだって?」

 翌朝、朝食の席でアレクシスは驚きの声を上げた。

「セシリア、本気なのか?」

「はい」

「……社交界に顔も出さず、領地へ行くと?」

「はい」

 背筋を伸ばし、なんでもないことのように白々しく、セシリアは言ってのけた。

 そもそも、結婚前に病弱を理由に年頃を過ぎても社交界にデビューしていなかった方がおかしいのだが。

「社交界よりもヴァレンティア領の方に興味がありますの」

 新婚早々、一か月もしないうちに別々に暮らすということだ。宮仕えをしている貴族にはありがちなことだが、それにしても早すぎる。心の隅でさみしいという言葉が浮かびかけたが、無視した。

「しかし、それは体面が……」

 間違いなく、夫婦不仲と噂が立つだろう。もとより急な、政略結婚なのだ。

「旦那様、先日風邪をお召しになったでしょう。やはり辛かったでしょう?」

 セシリアはほほ笑んで、優しい声で言った。

「領民の中には貧しいものもいます。貧しい子どもは、あのような風邪をひいたら、旦那様よりももっと苦しんで、そして死んでしまうのです。私は、そういった子どもたちを救いたいのです」

 セシリアは少し俯き、上目遣いにアレクシスを見た。

「私を領主代理にしてください」

「なぜ? ヴァレンティア家は領地でも尊敬を受けている。領主夫人として皆あなたを尊重します」

 セシリアは納得しかねるという風に眉間にしわを寄せ首を振る。

「では、万一のために領主代理の任命書をご用意いただくというのは? もしも、尊重されなかったときのために。困りごとがなければ使いませんわ」

 なかなか応諾の返事をしないアレクシスに焦れたように、硬い声音でセシリアは言った。

「貴族に生まれたからには、使命があると思うのです」

 アレクシスは息を呑む。

 セシリアの鋭い視線は、アレクシスの目を射抜く。まるで、宮廷の政治にばかりうつつを抜かし、領民を救わなかったと責め立てるように。

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