第1話
「おい!八番、来い!」
親方に怒鳴りつけられて、八番は絶望的な気分で立ち上がる。朝の水汲み作業を終えたばかりで、手足はしびれるほど疲れ切っていた。
八番に名前は無い。物心ついてからずっとこのキャラバンで奴隷として扱われ番号で呼ばれている。
「はい」
歩くと一週間も前に打たれた脚の傷が痛んだ。栄養が足りていないせいで直りが悪い。
街外れの草地に、テントがいくつも張ってある。「流浪の民」と呼ばれる行商を行う集団はいくつもあるが、ここはごく小規模の一団で三十人ほどで構成されている。
一番立派なテントに、親方が入っていく。八番は入ったこともないテントだ。親方の後に続いておずおずとテントに入る。
そこには身ぎれいな服を身に着けた黒髪の壮年男性がひとり椅子に掛けていた。上下とも黒い衣服にはきちんとのりがかかりズボンに折り目がついている。髪は短く撫でつけている。娼館の主にしては派手さがない。
いよいよ今年およそ十四歳を過ぎた自分は娼館に女奴隷として売られるのだろうと絶望しながらも覚悟していた。でも違うかもしれない。一縷の望みにかけ、八番はその男をじっと見つめた。
「旦那様、こいつはどうでしょう」
親方の物言いにやはり自分の売り買いの話を進めているのだとわかる。
親方はヤマネコのジャックと呼ばれる男だ。一ジェニーでも高く自分を売りたいのだろう、目がその呼び名の通りぎらぎらと光っている。
黒髪の男は鋭い目つきでじろじろと嘗め回すように八番を観察する。その目つきには鋭さしかなく、性的なものを物色する意図は感じなかった。もしかしたら、娼館ではなく、どこかのお屋敷の下働きにでもなれるかもしれない。
八番の鼓動が早まる。どこでもいい、ここでない、少しでもマシなところへ行きたい。
黒髪の男の遠慮ない視線に、八番は自分の粗末な衣服を恥じる。土埃で汚れきりもとの色がわからないほど茶色く、裾はほつれて崩れてきそうだ。恥じたところで着替えもないのでどうしようもなかったが。
「旦那様のご要望の赤髪ですぜ。今は汚れてますが、洗えば見られるようになるでしょう」
親方が取り入るように猫なで声を出す。
どういうわけか知らないが、赤毛の女を所望しているらしい。
「こいつはこう見えて目端がきくんですよ。誰も教えもしないのに文字も読みますしね」
黒髪の男の目が見開かれる。このあたりで文字を読めるのは十人に三人程度。奴隷にそんな者がいるなんて思いもよらないだろう。これで自分を買ってくれる気になればいいのだが、と強く願う。
八番はものを言いたいのをぐっと堪えた。奴隷の自分は発言を許されなければ、声を出すこともできないと心得ていた。
「顔をよく見たい」
男が言うと、親方は素早く懐から布切れを取り出し、テントの隅のピッチャーの水で濡らすと、それを八番に押し付けた。
「よーく拭くんだ」
自分に向けられたことの一度もない笑顔で言われ、虫唾が走る。しかし言われたとおりに顔を拭き、黒髪の男を見つめた。
「いいだろう。これで不足か」
黒髪の男は、革袋ごと硬貨を親方に差し出す。親方は袋を覗くと、目を見開いて唾を飲み込んだ。
「へ、へえ、あ、いや」
間の抜けた声。ヤマネコと呼ばれるほど抜け目ない彼が、値上げ交渉を一瞬忘れたようだ。
「え、へへ、さっきの条件を守りますから……」
「いいだろう」
黒髪の男はもう一つ革袋を懐から取り出すと親方に手渡す。
「だが、条件を必ず守れ」
「へい、誰にも言いません。このことは」
親方はポケットから鍵を取り出す。八番の両足にはまっている足枷を外した。
交渉が成立したようだ。
黒髪の男についてこい、と言われ、テントの横の馬車に乗り込む。
振り返らなかった。奴隷仲間の子どもたちに別れの挨拶もしなかった。先に出て行った子どもたちも皆そうだったし、八番にとっては別れとはそういうものだった。
「臭いな」
黒髪の男は顔を顰める。もう何日も体を拭くこともできていなかったので当然だ。
「着いたらすぐに体を洗わせる」
黙ったままの八番に、男は言う。
「返事は?」
「はい」
掠れた声が出た。どうやら話すことを許されたようだ。
「これから、どんな仕事をするのでしょうか」
「今は話せない」
朝方にキャラバンを出て、日が暮れるころに馬車は大きな屋敷の門をくぐった。森のような庭を抜ける。
「降りろ」
うたた寝しかけていた八番は慌てて馬車を降りた。
大きすぎる建物にしては小さな出入口のドアをくぐる。裏の出入口だろう。使用人が正門から入るわけがない。
「洗ってくれ。着替えも」
出迎えた女中に、男が命じる。
「承知しました。あなた、こちらへ」
恰幅のいい女中の後ろについて、風呂場へ入った。召使い用だろうか、質素ではあったが、奴隷であった八番にとっては好待遇過ぎるほどの設備だ。
「私は女中頭のメアリ……あなた、本当にひどいわね」
手際よく服を脱がせ、お湯の準備をしながら、メアリはつぶやく。八番の体の汚く臭うことか、折檻の傷のことを言っているのかはわからなかった。
「さっさとお入り」
「入っていいのですか」
おそるおそる、湯舟に足をつける。湯舟に浸かるのは初めてだった。湯の中に体を沈めると、温かさがやせこけた体を優しく包む。薄着で冷え切った体には熱すぎるくらいだ。湯がみるみるうちに汚れていく。
メアリに洗髪を手伝ってもらう。いい香りの洗髪料を泡立てて洗うと、くすんでいた赤い髪が本来の鮮やかさを取り戻した。
湯を上がると、真新しい白い服に袖を通した。肌にさらさらと心地よい。
メアリは八番の絡まり傷み切った髪を櫛で丁寧に梳かし上げてくれる。
「どうなることかと思ったけど、これでなんとかなったわね」
メアリは安堵のため息をついた。
「さすが執事様、よくこんなにも似た方を……」
言いかけて、メアリははっと口を噤んだ。八番は聞き逃さなかった。何か大事なことのようだと心に留めた。
「あの黒髪の男の人が、執事様なのですね」
そう問いかけると、メアリは口を滑らせたことに気付かれなかったと思ったのか笑顔になる。
「あら、そんなことも言っていなかったのね。そうよ」
メアリは八番の赤い髪をざっくりと編むと、肩の横に流した。まるで誰かをなぞるように。
「これからあなたは奥様とお話します。全て正直に話すようにね」
メアリは爪切りを器用に使い、垢の詰まった爪を短く切り落としながら言う。
「はい」
従順に返事をしながらも、八番は頭を巡らす。
ーー娼館に売られなかったのは幸いだった。屋敷の下働きにしてもらえるのかと思ったが、違うようだ。わざわざ赤毛の女を探していたようだし。これから何をさせられるのだろう。もしかしたら、娼館に売られるのと同じことに、もしくはもっとひどいことになるかもしれない。特定の髪色に執着して嬲りたい高貴な身分の方のために用意されたのだろうか。いや、それなら奥様と面会などしないだろう。
「準備はできたか」
黒髪の執事が入ってきて、目を丸くする。
「これは……思ったより……」
執事とメアリは目くばせしあう。八番は気付かぬ素振りで、しかしそれを聞き逃さなかった。