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06【七里香】
ここは件の打ち捨てられた漁師小屋。
穴の空いた天井から月の明かりが差し込んでいる。
そして、その先に若侍の姿をして佇む静香を照らしている。
まだ肌寒い中、地面に座ってまんじりともせず、目は遠くを見つめて焦点が合っていない。
しかし、ここには彼女の欲しいものが全てあった。
愛する源一郎と沈丁花の甘い香り。
眼の前に映る源一郎に問いかける、
「源一郎さま、静はどうすれば良いでしょうか?静はどうすれば良いのでしょうか?」
外から香ってくる甘い香り。
「ああ、この匂い。この香りが源一郎様と契を交わした時を思い出します。あの時が一番の幸せでございました」
その思いは源一郎に告白されたあの丘、結婚の約束をしたあの丘、沈丁花が群生するあの丘、幸せを感じたあの丘、
人生の幸福は甘い匂い、沈丁花の匂い。
それを思い出した静香は心の中で源一郎との逢瀬に浸っていた。
これからの悲恋を忘れるかのように……
桃源郷を作り出している周りの《沈丁花》だけが寄り添い、見守っているかの様に夜風にそよぐ。
遥か彼方まで届こうかとする、甘い香りを漂わせながら。