04【真意】
彩雲は肌寒さを感じて目を覚ました。いつの間にか日も傾き始めている。
源二郎は横になったまま、無言で天井を見つめていた。
特に声をかけることもなく、彩雲は店の板場へ向かい、酒と肴を用意した。できたての油揚げに生姜を添え、醤油をひと回し。盆に載せ、それを抱えて戻る。
外を見ながら寝起きの一杯、至福の時。
脇には一緒に持ってきたお団子を無心に頬張る禿の姿。
ミタラシ餡で口の周りは抹茶色。
……小半刻ほどして源次郎の口が開いた。
「彩雲どの、お話したいことがございます」
そちらを見向きもせず、
「やっとその気になったかい。
あたしはこのまま飲んでるから、勝手に話しな。
あんたの独り言を聞くだけだからね」
源二郎は横になったまま、一礼した。
「お気遣い、かたじけない」
その言葉に彩雲は何も返さず、ただ酒を口に運ぶ。
「先ほどから思案しておりましたが、我々はすでに手詰まりでございます。ゆえに、私の一存でお話しいたします。
私は陸奥の国 一関藩三万石、江戸藩邸詰めの藩士。昨夜、侍たちに囲まれていたのは——静香殿と申します。
彼女は、我が藩の剣術指南役・大畑万之助様のご息女。
別式女として奥に仕え、女御さま方に剣術などをお教えしておりました。
そして——私の兄、源一郎の許嫁です」
「ほほう、きな臭い感じがしてきたね〜」
「はい、その通りでございます」
源二郎は静かに頷くと、語り始めた。
「我らが殿・田置村勝様は、名君とまでは申せませんが、藩政を巧みに指揮し、財政にも目を配る方でした。臣下の信頼も厚く、領民にとっても頼りがいのあるお方だったと思います。
——ただ、一つだけ、大きな欠点がございました」
そこまで言うと、源二郎は言葉を切り、少し考え込んだ。
「……それは、女癖の悪さです」
「ふぅん、単なる女好きならまだしもって感じかい?」
「はい。殿はただの好色家ではございませんでした。他人の妻や許嫁を奪い、その良人に見せつけていたぶることを、何よりの楽しみとしていたのです」
「まるで子供が虫を弄ぶみたいだね」
「ええ、まさにその表現がしっくりと参ります」
源二郎は苦々しげに言葉を続けた。
「そして次に殿が目をつけたのが——静香殿でした。
静香殿の父上、大畑万之助様は藩の剣術指南役であり、剣の腕も人望も兼ね備えた藩の重鎮。
殿はその存在が気に入らなかったようで、何かにつけて陰口を叩いておりました。
しかし、家臣たちのなだめにより、大事には至らずにいたのです」
だが——と、源二郎は表情を曇らせた。
「それが変わったのが、静香殿が別式女として奥に仕えてからでした。
持って生まれた美貌ゆえに、殿が目をつけ、側女として差し出すようにと命じたのです。
しかし、大畑殿はこれを断固として拒否しました。
理由のひとつには、静香殿が私の兄・源一郎の許嫁だったことがございます」
「静香さんとやらは、そんなに美人だったのかい?」
「はい、美しい事は美しいのですが、比類なき程ではありません。
殿の側室の中には、静香殿以上の美貌を持つ女御もおられます。
ですが——断られたことが、殿の癇に障ったのでしょう。
それ以来、殿は何度も召し抱えの命を出し、大畑殿はそのたびに拒絶する。その繰り返しが続き、まるで冷たい戦のような状態となっておりました。
——あの日までは」
彩雲が最後の一杯を喉に流し込んだ、その時。
まるで見計らったように、禿が熱燗の入った土瓶を運んできた。そして自分は、その隣で大福を頬張る。
「……忘れられませぬ、あの日のことは」
源二郎の声音が、僅かに震えていた。
「兄・源一郎は、殿のお召しで登城いたしました。そして——切腹を命じられたのです。
理由は取るに足らぬことでした」
源二郎は悔しげに拳を握る。
「反論の余地も無く、
「今ここで切らねば家は断絶」と宣告されたのです。
封建の世、主君の命は絶対。拒むことなど許されません。
こうして兄は、その場で腹を斬り、武士としての生を全うしました」
静寂が落ちる。
彩雲は酒を口に含んだまま、ゆっくりと味わうように飲み下した。
「くだらないね」
そう吐き捨てるように言うと、盃を置いた。
「ええ、まさに」
源二郎は涙を滲ませながらも、気丈に話を続けた。
「しかし、それだけでは終わりませんでした。
殿は意地の悪さから、奥で指南をしていた静香殿を呼び出し、兄の亡骸を見せつけたのです」
「……ガキだね、その殿様。悪趣味にも程があるよ」
そう吐き捨てた。
「全くもって、その通りです」
源二郎は息を整え、そして——静かに言った。
「しかし、惨状を目にした静香殿は、泣き崩れることもございませんでした。
その刹那——空気が煮え立つように熱くなり、次の瞬間、殿は左肩口から斜めに背骨を断たれ、絶命しておりました」
彩雲が盃を回しながら、目を細める。
「主殺しをして、逃げたのか」
「はい。そのまま逐電いたしました。
後には二つに折れた小太刀が打ち捨てられ、殿ご愛用《水心子正秀》作の刀が無くなっておりました。
恐らく、折れた刀の代わりに持ち去ったのでは無いかと……
そして、気がついた時には静香殿の姿が見えなかったと聞いております」
「で?」
「事が事なので、ご公議には病死として届け出ました。そして、一子・鶴丸様への継承の働きかけを行っております。
しかし……御台所様のお怒りが凄まじく、
『追っ手を仕向け、悪女の首を妾の前に持ってこい』
との仰せにより、江戸藩邸を総動員して追っ手を放っておりました」
「なるほどねぇ……それにアタシが巻き込まれたわけだ」
「はい。その節は、申し訳ございませんでした。藩士の中には、気が立っている者もおりますので……」
申し訳なさそうに頭を下げる源二郎を見ながら、彩雲は特に関心のない表情を浮かべる。
隣でうたた寝していた禿を揺すり起こし、耳打ちすると、禿は目をこすりながら部屋を出て行った。
しばらくして——禿は一人の男を連れて戻ってきた。
本所の五六七親分だった。
その瞬間、源二郎の背筋に緊張が走る。
彩雲は肩をすくめて笑った。
「すまないね。隣の部屋で、話を聞いてもらっていたよ」
「彩雲どの、それは……」
「まあまあ、聞きなよ。お侍がいくら探したって、たかが知れてる。江戸八百八町を知り尽くした親分の手を借りたほうが、早く見つかると思ってねぇ」
五六七親分は、ゆっくりと頭を下げた。
「源二郎様、お初にお目にかかりやす。お伺いした件ですが、幸いにもまだ町人には被害が出ておりやせんので、奉行所には内緒で小者を使い、お手伝いできると思いやす」
源二郎の顔に、まだ不安の色が浮かぶ。
彩雲は盃を置き、笑みを浮かべた。
「なあに、こいつら身持ちはちょっと悪いが、口は堅いよ。気になるなら、口止め料として小判を弾んでやんな。しっぽ振って言うこと聞くさ」
「先生、犬っころみたいに言わないでくだせぇ。でも、いただけるものはいただきやす」
お辞儀する親分に、彩雲がニヤリと笑う。
「決まりだね。早く見つけて、ケリをつけよう。親分、上には悟られないよう頼むよ」
「へい、知られちまったら口止め料も貰えませんからねぇ」
親分は源二郎から静香の詳しい人相や風体を聞き出すと、疾風のごとく飛び出していった。