02【朝餉(あさげ)】
翌朝、彩雲は本所にの蕎麦屋「九十九屋」の一角に腰を下ろしていた。
時刻は昼四ツ(午前10時)。
町の人々は昼飯前の仕事に追われ、忙しく動いている。
しかし、雲のように気ままな生活を送る彩雲は、そんな市井の人々を眺めながら、注文した酒と蕎麦を待っていた。
朝から酒を飲むことに、後ろめたさなど微塵も感じていない。
しこたま呑んだ翌日はこの店で蕎麦を朝明にする。
上方風のカツオと昆布の出汁が効いたつゆが、酒で乾いた身体に心地よく染み渡るのだ。
店は開店の準備に大忙しの最中だが、そんな事は気にせず蕎麦をつまみに迎え酒をする。
店は開店準備で忙しくしているが、そんなことは気にせず迎え酒を楽しむ彩雲。
店の者も彼女の姿を見ても、いつものことと相手にしない。
これも彩雲にとって、大切な一日の始まりだった。
黄金色のつゆを味わいながら静かに朝を迎えていると、突然、やかましい声が飛び込んできた。
「いたいた!先生!おはようさんです!」
本所で十手を預かる五六七親分が息を切らして店に飛び込んでくる。
彼は彩雲の向かいにどかりと腰を下ろし、
「おう、おロク!茶くれ茶だ!!」
《ロク》と呼ばれた店の小娘に向かって大声で怒鳴った。
その少女は、大ぶりの湯呑みを持ってきて親分の前に置く。
「親分、蕎麦も食べてよ。
食べてくれないと、うちは商売上がったりだからね」
そう言い放つと、再び開店準備に戻っていった。
親分は知らん顔でそれを聞き流し、茶を一口すすると、
「いやー先生、ここんとこ奇妙な話がありましてね~」
彩雲は蕎麦を啜りながら酒を飲み、特に相手にする様子もない。
しかし親分も気にせず、話を続ける。
「実はですね、変な訴えがありまして。
夜更けに侍同士の斬り合いを見たっていうんです。
で、その場所に役人が駆けつけると人っ子一人いやしねえ。
死体も怪我人もいねぇんで、狐か狸に馬鹿にされたんじゃねえかって笑ってたんですが、朝になって調べたら血の跡が見つかりましてね。
あながち嘘じゃねえなって事になったんですが、相手は立派な侍同士らしく、町方では手に負えねえ。
侍同士の争いは目付けや評定所の預かりなんですが、そんな報告も上がってないらしく、知らぬふりを決め込もうって意見もあったんですが、いつ町民に災難が降りかかるかわからないんで、どうしたもんかと困ってるんです。
何かいいお知恵はありませんかね〜?」
相手の都合も考えず、一方的にまくしたてる親分。
「その訴えの内容を詳しく話してみな」
彩雲は迷惑がることもなく、蕎麦を手繰る手を止め、酒を飲み干して口を開いた。
「へい、申すには、身なりの良い侍の一団が、一人の若侍を取り囲んで斬り合いをしてたそうです。
でも、切られてるのは取り囲んだ方で、若侍はまったく手傷を追わずに逃げていく。
かなりの人数の侍が斬られたらしいんですが、死体や怪我人も見つかってないんでさ」
「どこの藩かはわからないのかい?
藩が分かれば何かしようがあるんじゃないかい?」
「いえねえ、暗いし、なにせ町民には藩の御紋なんて見分けがつきませんからね」
「そりゃそうだ。で親分ここだけの話……」
彩雲が急に小声になった。 親分が顔を寄せると、
「あたしゃ、昨夜その一団に切られかけたよ」
親分は驚き、身を乗り出して大声をあげた。
「ほ、本当ですか先生!どんな侍たちでしたか、そこんとこ詳しくお願いします、後生ですから!」
彩雲はおロクに熱燗もう一本と合図をし、
「大川べりで、親分が言ったとおりの侍たちに出くわしたよ」
「で、切られやしたか」
「切られたらここで命の水を飲んでるはずないだろ」
運ばれてきた熱燗を注ぎ、ホクホク顔で湯呑みでグイッと一口。
「死にかけたけど、あたしの酔剣、千鳥足流で撃退したさ。ははっ」
珍しく冗談が出る彩雲、機嫌がいいらしい。
「で、何か分かった事はありませんか」
少し考えて、
「どこの藩かはわからないが、囲まれていた若侍。ありゃ女だね、確証は無いけどそんな気がするね」
その言葉に、親分は目を丸くした。
「お、女の侍ですか!
女がバッタ、バッタと男の侍を斬りまくってるんですか?」
「ああ、腕の立つ女も稀にいるからね。ひよっとしたら別式女じゃないかい?」
「べ、べっしきめ?」
「ああ、お城の奥に仕える女たちに武芸を教える役目のことさ。
奥は殿様と医者の他は男子禁制だからね。教えるのも女じゃないと」
「へぇ、そんなのがいるんですか……知らなかったなぁ」
感心したように頷き、手を打つ親分。
「でもそれなら町方の手には余りますな~。どうしましょ先生……?」
江戸の治安を預かる町方にとって頭の痛い話だ。
「そうだね、現場を抑えるしかないんじゃないかい。
街中で刀を振り回していたら、捕まえてもお上に申し訳が立つんじゃないかい」
親分は膝を打ち、
「さようでございますね!よっしゃ今から寝て、夜っぴいて見回りだ!」
そう言うや否や、店を飛び出していった。
(忙しい男だね、まあ、この位で無いとお上の御用は務まらないか……)
彩雲はその日も、酒を飲み、肴をつまみ、街をふらふらと歩き回る。
彼女の酒が抜ける暇は、今日もない——。
虫の音模様の小袖に縞の被衣を肩から着崩し、髪はじれったに結び、見るからに遊び人の風体をしているが、何故か近所の人には好かれている。まったく不思議な女である。