01【或る女】
江戸の町に白き影。
それは夜の闇に溶けるように現れ、ひと振りの刃とともに静かに消える。
血よりも紅い唇、雪よりも白い肌。
《あやかし》と人々の噂は途絶えない。
だが、彼女はただの妖ではない。
江戸の闇に、雪が舞う。
それは、復讐の剣か、それとも救いの刃か。
これは、一人の雪女が剣に生き、剣に散るまでの物語である。
春の夜風がそっと大川の水面を撫で、岸辺の桜たちが儚げにその花びらを散らしていた。
江戸の町が寝静まる頃、遠くから微かに三味線の音色が流れてくる。
水面に乗って揺らめくその調べは、どこか幻想的だった。
川沿いの土手を、一人の女が歩いている。
薄桃色の桜の枝を肩に担ぎ、ほろ酔い気分の女は頬を上気させながら、心地よく鼻歌を口ずさんでいる。
月明かりに照らされた顔は三十路の様にも見えるが、生活に疲れた陰りは見受けられない。
女の名前は《彩》。
周りからは彩雲先生と呼ばれていた。
雲のように自由気ままな暮らしぶりから、いつしかそう呼ばれるようになったのだ。
先生とは、書や学問、算学などに通じている者のことを指すが、彩雲がそうした学問に秀でているのかは定かではない。
ふと見上げると、目の前の古木の枝に白鷺たちが静かに羽を休めている。
風が吹くたびに枝は揺れるが、白鷺たちは微動だにせず、まるで月を見つめるようにじっと佇んでいた
遠くで川舟の櫓音が響く。
夜の静寂に溶け込むその音が、江戸の春の夜に生きる者たちの物語を描き出しているようだった。
そぞろ歩いていると、武家屋敷の広大な敷地が見えてきた。
大川沿いには有力大名の下屋敷が多く並んでいる。
舟での出入りが容易であるため、屋敷を構えるには絶好の地なのだ。
この辺りは暗くなると人通りが無くなり、夜鷹の姿すら見えない。
普通の人ならとても怖くて歩けないが、彩雲はまったく気にしていない様子。
(もう少しで家に着く……帰ったら、もう一杯やりますかねぇ)
そんなことを考えていたとき、突然、人の争う声が耳に飛び込んできた。
刀の擦れ合う音も聞こえる。
どうやら闘っているらしい。
しかし、彩雲はさほど気にすることもなく歩を進めた。
やがて、騒ぎの様子が目に入ってくる。
一人の若侍が、大勢の武士に囲まれていた。
前列の侍たちは刀を抜き、威嚇している。
辻斬りや決闘の類ではないようだ。
(何だ、侍同士の戯れ事かい)
我関せずとばかりに、彩雲はまっすぐ自宅へ向かう。
その道は、ちょうど争いの渦中を突っ切る最短距離だった。
それに気がついた後陣の侍が、こちらを向き直って口を開いた。
「見られた!!お家の大事だ!!斬れ!!」
物騒な声と共に、二人の侍が刀を抜き駆け寄ってくる。
絶対絶命、危ない!彩雲!
侍たちの刀が大上段に構えられ、ついに振り下ろされる──その瞬間。
ふわり。
彩雲の姿が宙を舞い、一間(約1.8メートル)ほど離れた場所に着地した。
肩に担いだ桜の枝が揺れ、花びらがひらひらと宙を舞う。
何が起こったか理解できない侍たちに向かって、掌中から素速き物が放たれた。
「ぐう!!」
くぐもった悲鳴とともに、侍の一人が刀を落とす。
右手を押さえ、苦悶の表情を浮かべていた。
他の侍たちがそれに気を取られた隙に、囲まれていた若侍が大きく飛翔し、闇の中へと姿を消した。
残された一団はうずくまった仲間を支え、慌てて後を追う。
一方、彩雲は何事もなかったかのように鼻歌を歌いながら、家路を急ぐ。
(ついつい、雪霞をつかっちまったね……)
そんなことを思いつつも、数歩歩くうちに忘れてしまった。
今夜も寝酒が美味そうだ……
若侍がいた場所には春を感じさせる甘い匂いが漂っていた。