後編
はい、みなさん集まりましたね。続きを話します。
日本海軍の正規空母6隻、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」はどこにいたのか?
それは、ウラジオストクの近海でした。
空母6隻から発艦した攻撃隊は、ウラジオストクの軍港を目指しました。
ドイツ海軍大海艦隊の本拠地であるウラジオストクの軍港を空襲したのでした。
開戦前、合同作戦本部総長である山本五十六は、日本からドイツに宣戦布告し、空母機動部隊によるウラジオストク先制奇襲を考えていました。
海軍側の軍人には納得を得られたのですが、陸軍側の軍人には納得を得られなかったのです。
「ウラジオストクを奇襲したとして、その時に都合よくドイツ大海艦隊の主力戦艦群が停泊しているのか?訓練などで出港していたら、どうするのか?」
という意見が多かったのです。
ドイツはウラジオストクを完全に軍事都市としていて、外国人どころかドイツ民間人でさえ出入りは制限されており、平時でもスパイが軍港を見下ろすことができる部屋を借りて、在泊艦艇を目視するのは不可能に近かったのです。
合同作戦本部総長は、陸軍と海軍の調整役でもあるので、山本五十六は陸軍の意見には却って気を遣わなければなりませんでした。
結局、開戦後、不動のウラジオストクの軍事施設を空襲することに計画は変更されました。
ウラジオストク周辺には、レーダーによる防空網が設置されており、多数の戦闘機が配置されているため、日本海軍は攻撃隊は多数の被害を受けると予想していました。
しかし、ウラジオストク上空に攻撃隊が侵入しても1機もドイツ戦闘機は飛んでいませんでした。
そうなった理由は、ドイツでは地上設置型レーダーは陸軍の管轄でした。
日本海軍の攻撃隊をレーダーは遠距離から探知していました。
しかし、レーダーを担当していた士官はすぐには警報は発しませんでした。
開戦前からウラジオストクでは防空演習が盛んに行われており、ドイツ海軍がドイツ陸軍には抜き打ちで、多数の海軍機を「敵役」としてウラジオストクに侵入させるということもしました。
レーダー担当士官は「抜き打ちの演習ではないか?」と考えたのです。
それで、海軍に抜き打ちの演習がされてないか、問い合わせようとしたのですが、ここで官僚組織である軍隊らしい、ある意味、馬鹿馬鹿しい事態が起こったのでした。
レーダー担当士官は、ドイツ海軍ウラジオストク軍港司令部に直接問い合わせる権限がなかったのです。
レーダー担当士官が上官に報告し、その上官がウラジオストク駐留陸軍司令官に報告し、司令官が軍港司令部に派遣している陸軍士官に連絡して、ようやく問い合わせができるのです。
戦前の抜き打ちの演習で、陸海軍の横の連絡の悪さは顕在化していたのですが、改善のための変更は来年とされていたのです。
海軍が「本日、防空演習の予定無し」と陸軍に報告した時には、すべてが手遅れでした。
日本海軍攻撃隊は、軍港の造修施設を空襲しました。
そして、攻撃隊にとっては思わぬ幸運がありました。
燃料タンクが地上に剥き出しで設置されていたのです。
日本海軍は自身が空襲に備えて、軍港の燃料タンクはすべて地下に設置されているので、ドイツ海軍も同じだと思っていました。
ドイツ海軍が燃料タンクを地上に設置していたのは、理由があります。
一言で言えば予算不足でした。
ドイツ大海艦隊の再建と維持には莫大な予算が必要で、燃料タンクの地下に設置するまでは予算が回らなかったのです。
攻撃隊指揮官は、燃料タンクが地上に剥き出しであることに気づくと、独断で爆撃目標を変更し、一部の部隊を燃料タンクに向かわせました。
燃料タンクは炎上し、漏れだした石油により軍港全体に燃え広がりました。
ウラジオストク軍港は、復旧には年単位の時間が必要な損害を受けました。
日本連合艦隊とドイツ大海艦隊の艦隊決戦は、双方とも3隻の戦艦を喪失し、戦術的に引き分けでしたが、本拠地を失ったドイツ大海艦隊の戦略的敗北でした。
ドイツ大海艦隊は、ウラジオストクに帰投しましたが、修理も燃料補給もできず。残存艦艇は行動不能になりました。
日本政府はイタリアのタラントのイタリア臨時政府と交渉して、軍事同盟を結び、イタリア半島に日本軍を派遣しようとしていましたが、この勝利は交渉に弾みをつけ、日本とイタリアの間に正式に軍事同盟が結ばれることになりました。
しかし、この時、今まで沈黙していた存在が動きだしました。
ロシア帝国がドイツに宣戦布告、バイカル湖国境を突破して、ドイツに侵入したのでした。
ロシアは日本などには一切事前通告せず。「火事場泥棒」と言える行動でした。
中国とイタリアに大軍を派遣していたドイツ陸軍は、対応できませんでした。
首都ベルリンは陥落し、ドイツ皇帝は空襲により死亡、一部の皇族と閣僚だけが、イタリアへの脱出に成功しました。
脱出に成功した政治家の1人には、ベルリン陥落の混乱の中で刑務所から解放されたヒトラーもいました。
ドイツ臨時政府の首相となったヒトラーは、日本・イタリア・中華民国に対して「対ロシアの軍事同盟」を持ち掛けました。
ドイツから戦争を仕掛けておいて、あまりにも虫のいい話ですが、ヒトラーは「全占領地からの即時の撤退、戦後の賠償金の支払い」を約束しました。
ヒトラーが戦争に反対して国会議員を除名されたのは、誰もが知っていたので、彼の言葉は信用されました。
ドイツ臨時政府が、弱小政党の党首でしかなかったヒトラーを首相にしたのは、このためでした。
ヒトラーはラジオを通じて頻繁に演説し「私は戦争を防げなかった政治家として、戦後、火あぶりになろうと腹切りなろうとかまわない。だが、幼い皇子を助けてくれ」と涙ながらに訴えました。
ヒトラーはドイツ語しか話せませんでしたが、イタリア首相となっていたムッソリーニが同時通訳しました。
ムッソリーニは、日本語・中国語にも堪能でした。
ヒトラーは特に日本で人気が急上昇しました。
その理由は「主君に諫言し、投獄されながらも、主君の遺児を守って国を奪還しようとしている」のが、日本人の琴線に触れたのでした。
イタリア首都ローマで、日本・ドイツ・イタリアの三国軍事同盟が結ばれました。
日本政府は「ドイツがロシアに占領されれば、次はイタリアが占領される。そうすれば、日本本土が危機になる」という戦略的判断から三国軍事同盟を結びました。
中華民国は、自国領内にあるドイツ軍の安全な退去、戦後の賠償金の支払いの確約だけで軍事同盟には参加せず。この戦争では以後中立となりました。
ローマでの調印式には、ヒトラー・ムッソリーニの他に日本の首相となっていた東條英機の三国の首相が出席しました。
開戦時の首相だった近衛文麿がストレスで倒れ、東條が兵部相兼任で首相となりました。
衆議院の与党第一党の党首が首相になるのが慣例化されていたため、この人事は戦時だから許容されたのでした。
戦後、憲法改正で首相は国会議員でなければならないことが明文化されたため、東條英機は現役軍人で首相と兵部相を兼任した唯一の人物となっています。
ムッソリーニは調印式で「我々、首相三人を枢軸として、我々は歩み始める」と演説したので、日独伊は「枢軸国」と呼ばれるようになりました。
日英同盟は継続しましたが、枢軸同盟とは別枠となり、対独戦が短期間で終了したため、イギリスは日本近辺には軍を派遣しませんでした。
戦争は4年続き、長く苦しい戦いでしたが、枢軸軍はバイカル湖国境までロシア帝国軍を押し返しました。
ロシア皇帝は戦争をまだ続けるつもりでしたが、金銭的スポンサーだったフランス共和国に止められました。
ロシアはフランスからの借款により戦費をまかなっていたのです。
中立国であったアメリカの首都ワシントンで和平交渉が行われて、1945年8月15日、極東大戦と呼ばれることになった戦争は終結しました。
ロシアは利子の支払いも難しい状況になっており、国内の利権をフランスに譲渡することになり、経済的にはフランスに支配されることになりました。
戦後にフランス主導で設立され、欧州諸国が加盟した軍事・経済同盟である欧州連盟にロシアも加盟することになり、建前としては加盟国は平等でしたが、事実上フランスが盟主でした。
極東大戦で一番利益を得たのは、戦争に参加しなかったフランスだったのです。
強大な欧州連盟に対抗するためにイギリスは枢軸同盟に正式に加盟しました。
枢軸同盟と欧州連盟の対立関係は、2024年の今も続いていますが、1950年代にどちらの陣営も核兵器の開発にほとんど同時に成功したため、直接交戦したことのない「冷戦」が続いています。
どちらの陣営でもない北米大陸が、代理戦争の舞台になっていて、アメリカのカリフォルニア州が、日本の政治工作により、アメリカから独立してカリフォルニア共和国として枢軸同盟に加盟しています。
同じようにカナダのケベック州が、フランスの政治工作により、独立して、ケベック共和国として欧州連盟に加盟しています。
現在行われているアメリカ大統領選挙では「カリフォルニアを武力で奪還する」と過激な主張をしている大統領候補もいます。
私たち日本人は、アメリカに旅行するとテロの標的にされやすいので気をつけてください。
では、ローマ観光の締めくくりに記念撮影をしましょう。
ここローマの枢軸同盟の調印式となった場所には、東條英機・ヒトラー・ムッソリーニ3人の銅像が並んでいます。
我が日本はドイツとは不幸な戦いをした時代もありましたが、3人の銅像は、日本・ドイツ・イタリアの友情が永遠に続くことを見守っているのでしょう。
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