前編
満州の位置にドイツが転移、朝鮮半島の位置にイタリアが転移し、入れ替わりに欧州のドイツの位置に満州が転移、イタリアの位置に朝鮮半島が転移した世界の架空戦記です。
はい、みなさん、1914年には、欧州で大きな戦争が起きるところだったのは、ご存知でしょうか?
ああ、誰も知りませんか。
まあ、そうですよね。「起きた戦争」は知っていても「起きるかもしれなかった戦争」は知らないのが当たり前ですよね。
1914年6月28日に発生したサラエボ事件により、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告。
ロシア帝国が軍隊の総動員を開始し、それに対応して、ドイツ帝国も総動員を開始し、さらにフランス共和国も総動員を開始しました。
欧州で未曾有の大戦争が起きようとしていました。
もし起きていれば「第一次欧州大戦」と名づけられた戦争になったでしょう。
あるいは「第一次世界大戦」と名づけられたかもしれません。
まあ、それは大げさなネーミングでしょうが。
みなさん、ご存知の通り、欧州で戦争は起きませんでした。
遥か遠く離れた極東で戦争は起きました。
なぜなら、ドイツが極東の満州の位置に転移してしまったからです。
入れ替わりに満州が欧州のドイツの位置に転移しました。
このような現象が起きてしまった原因は、現在でも解明されていません。
ドイツ政府は混乱しましたが、極東にあるロシア領土に進軍、バイカル湖以東を占領しました。
ロシアとフランス政府は突如極東に転移してしまったドイツにどう対応するか混乱しました。
両国とも欧州にあったドイツとの戦争のために軍を動員していたので、極東に転移してしまったドイツにすぐに攻め込むことはできませんでした。
フランスとしては隣国の仮想敵国だったドイツが遥か遠くに行ってしまったので万々歳でした。
ロシアとしては極東の領土を失ったことは痛恨でしたが、代わりに軍事的には空白地帯となった元のドイツの位置に転移した満州を手に入れようとしました。
フランスも満州を手に入れようとしました。
両国政府が協議した結果、満州の東半分をロシアの領土とし、西半分がフランス領土となりました。
転移はもう一ヶ所でも起きていました。
イタリアが極東の朝鮮半島の位置に転移し、入れ替わりに朝鮮半島が欧州のイタリアの位置に転移しました。
1910年に併合したばかりの朝鮮半島が遥か遠く欧州に行ってしまったことに対して日本政府は、「距離がありすぎて維持することは不可能」と判断しました。
日本政府はフランスに朝鮮半島を売却することにしました。
朝鮮半島に住んでいた日本人はほとんどが不動産をフランスに売却して、日本本土に戻りました。
余談ですが、もともとの朝鮮人は、かつて「中華文化」を「至高」としたように、「フランス文化」を「至高」のものとして、上流階級ほどフランス語で会話し、フランス料理を食べるようになりました。
そのため現在では、朝鮮半島では漢字・ハングルはほとんど絶滅しており、「朝鮮文化で残っているのはキムチだけ」と言われています。
話を戻します。
日本政府は大陸への進出を諦めるしかありませんでした。
大陸への足掛かりだった朝鮮半島はイタリアになり、その北には極東のロシア領を併合して、強大になったドイツが存在することになりました。
ドイツ大海艦隊が健在であれば、ドイツによる日本征服も可能な状況でした。
しかし、ドイツ大海艦隊は失われました。
ドイツ大海艦隊はドイツ本土が転移した時、欧州の海に取り残されてしまったのです。
補給のあてがない艦隊は強大でも無力なため、フランス海軍に拿捕されることをおそれたドイツ政府により「自沈命令」が出されました。
自沈作業をして、乗組員は全員が退艦して極東のドイツ本土に向かうことになりました。
日本は陸軍は本土防衛、海軍はイギリス本土・植民地との海上交通線の確保が目的となりました。
日本・イギリス両政府の思惑により、日英同盟は強化されることになりました。
ドイツは極東のロシア領土を併合したことで、一応満足したようでした。
あっ!言い忘れていましたが、1914年に起きた戦争は、「転移戦争」と呼ばれています。
イギリスから見ればドイツは極東の自分たちの権益を侵そうとしているのは明らかでした。
しかし、満州西半分と朝鮮半島を併合して強大化したフランス、極東の領土は失いましたが満州東半分を併合したロシアに対応しなければならないので、大兵力を極東には送れませんでした。
それで、イギリス政府は日本軍を強化することにしました。
日本が軍事予算を確保するために外貨が必要なので、イギリスは自らの領域の日本製品への市場開放までしました。
最初は「安かろう、悪かろう」が日本製品のイメージでしたが、だんだんと改善され、最初は軽工業製品で後には重工業製品で高い評価を受けるようになりました。
さて、極東の朝鮮半島の位置に転移してしまったイタリアについて話します。
イタリアは北をドイツ、南を日本に挟まれた形となり、武力による新たな領土の獲得は不可能となりました。
それで「武装中立」を選択しました。
ローマにカトリックの総本山たるバチカンがあることを利用して、欧州からの観光客を呼び込みました。
欧州からローマに至る交通路としては二つあり、一つはシベリア鉄道を利用して、バイカル湖でドイツ鉄道に乗り換え、イタリアに向かうルート。
もう一つは、大西洋を横断して、アメリカ大陸横断鉄道を利用して、さらに太平洋を横断してイタリアに向かうルートです。
シベリア鉄道とドイツ鉄道の乗り換えでは、国境での検査が厳しいため、大西洋・アメリカ大陸・太平洋横断ルートの方が好まれました。
欧州からの観光客は、イタリアだけでなく日本も訪れました。
太平洋を横断する大型豪華客船を日本もアメリカも建造するようになり、戦時には高速大型兵員輸送船や改装して空母として使われるようになりました。
さて、「転移戦争」その物は一年弱で終わりましたが、その後の戦後処理の方が大変でした。
まず、戦争の始まりだったオーストリア=ハンガリー帝国はドイツによる支援は受けられず。
ロシアは極東に転移したドイツへの対応と東満州の併合に手一杯だったため、オーストリアは本土の防衛はできましたが、新たな領土は獲得できず。多民族国家であったオーストリアは国内で民族主義が激しくなり、各民族は独立してオーストリア帝国は解体されることになりました。
転移戦争で一番広大な領土を手に入れたドイツは、南洋にあるドイツ領は失いました。
大海艦隊を失ったドイツは、日本とイギリスが共同占領した南洋領土の奪還を諦めるしかありませんでした。
南洋領土はイギリスの領土となりましたが、イギリスは日本からの移民を受け入れ、日本海軍が軍事施設を利用することも認めました。
ロシア領だった北サハリンですが、ロシアが遠隔地になってしまったため維持が困難と判断して日本に売却しました。
そのため、樺太全体が日本の領土となりました。
ああ、アメリカ合衆国についても話して欲しいですか?
アメリカは転移戦争にはまったく関わっていません。
モンロー主義のため、北米大陸に閉じ籠っていました。
戦後、和平の仲介者として当時のアメリカ大統領は積極的に関わろうとしましたが、どこの国からも相手にされませんでした。
当時のアメリカの欧州からの評価は「成金の田舎者」だったので、誰も仲介者とは認めなかったのです。
戦争に参加したり、各国の国債をアメリカが大量に購入したりしていれば、国際的な評価は違ったかもしれませんが、戦争は短期間で終わったので、アメリカはどちらもしませんでした。
国際政治に参加しようとして恥をかいたアメリカは、ますます北米大陸に閉じ籠り、自国の周辺以外のことには関わろうとしなくなりました。
転移戦争後の極東では、大海艦隊を再建し、太平洋への進出を目論むドイツ、それを阻止しようとする日本、極東の領土を奪還しようとするロシアがにらみ合ったまま、表向きは平穏なまま、1930年代を迎えます。
1922年にはイギリス主導により、イギリス・ドイツ・ロシア・フランス・日本でロンドン海軍軍縮条約が結ばれました。
ドイツの大海艦隊再建に対応するために、各国の海軍への財政負担が大きくなったため結ばれた軍縮条約でした。
ドイツ自身も財前負担に苦しんでいたため、軍縮条約に参加しました。
当時の主力艦であった戦艦の保有を制限する条約で、英独露仏日で比率は、10・10・6・6・6でした。
日本は条約が有効な間、10隻の戦艦の保有が許されることになりました。
1929年にアメリカで株価の大暴落が起きましたが、世界経済とほとんど繋がっていなかったので、他国に影響はほとんどありませんでした。
さて、ドイツには国防方針として「西進論」と「南進論」がありました。
バイカル湖以西のロシアに攻め込み、ウラル山脈を突破して、モスクワ・サンクトペテルブルクなどロシア中枢まで攻め込むのが、西進論です。
南進論は、再建した大海艦隊で日本の連合艦隊に決戦を挑み、日本海軍を壊滅させた後、日本を併合し、大海艦隊が太平洋への自由な出口を得ることを目的としています。
西進論は陸軍が、南進論は海軍が主導していました。
ドイツ陸海軍は国防方針がバラバラで、互いに何をしているかも分からず。統帥権はドイツ皇帝にあるため、ドイツ首相も軍に介入するのは難しかったのです。
この統帥権の問題は、ドイツ憲法を参考にした日本帝国憲法も同様でした。
しかし、日本がドイツを明確な仮想敵国としたため、「ドイツ憲法を参考にした憲法をそのままにするのは変ではないか?」という議論が沸き起こりました。
もともと天皇がイギリス流の「君臨すれど統治せず」を志向していたため、イギリス式に憲法は改正されました。
憲法で内閣総理大臣の地位・権限は明確化され、軍に対する統帥権を天皇から委託されたという形で、内閣総理大臣は軍に対して強権を持つことができるようになりました。
陸軍省・海軍省を合同し、兵部省が復活し、陸軍参謀本部・海軍軍令部の上位組織として合同作戦本部が設立されました。
ドイツより少ない兵力で、日本本土を防衛しなければならなかったので、陸海軍の連携は必須でした。
ここでいったん解散して自由行動にします。
続きはお昼に話しますので時間までに集まってください。
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中編は、本日昼の12時。後編は午後6時に予約投稿してあります。