時計の音
勝英が起き、千晶はその物音に目を覚ました。
「トイレ?」
「うん」
千晶は布団から体を出し、勝英とトイレに向かった。そろそろ暖かくなってきているのだが、まだ夜は寒く、その温度差に体調を崩しそうだと思った。
自分よりも勝英が風邪を引いたりしたらと思うと心配になってしまった。こんな時に旦那がいればと思うことが最近は多くなっていった。せめて、兄弟達にはこんな思いをしてほしくない。亜弓は二十歳を過ぎても処女のような美しさを持っている。自分と同じようになったら自殺を考えてしまうかもしれない。
そんな事を思っていると勝英はトイレを済まし、再び二人は寝床へと戻った。
次の日、千晶は勝英と公園へ遊びに行っていた。家は夕子と優斗は仕事にでて、亜弓は休みだが、後藤に会いに出掛けていた。
千晶は家にいてもやることがなくなったので、勝英と遊びに出掛けた。春の陽気は既に顔を出し、肩からは冬への錘が取れたように感じられた。
この時期は去年までは毎年のように兄弟達の卒業や入学。社会へ出る瞬間などを見ていた。それが羨ましくも思えてしまっていた。千晶は自由と引き換えに青春のような楽しみを捨てているような心持ちにさせられていた。この時期が好きなようで嫌なようにも思えるくすぐったいような季節であった。
「山がよく見える場所に行きましょう」
千晶は勝英に語りかけるように言った。
・
楽山園では人がまばらにいた。これが花見の季節であったら、もっと人がいるのだろう。
池には小さな風でも漣が立ち、揺れてぼやけた池の鏡は山や空すらも寝ぼけたような景色に映っていた。
「これは綺麗な所だね。かっちゃん」
勝英にはまだ早過ぎた場所かと千晶は思いながら言った。勝英が飽きたらすぐにでも後にしようと思った。
勝英は母の手を握り、そして引っ張りながら走り出していた。
「あまり走ると転ぶよ」
足元は小山のところにおり、本当に転んでしまいそうにもなる。
楽山園は群馬に一つしかない大名庭園であり、その美しさに千晶は子供の頃からここが好きであった。
静けさが去り際に残したようなもの、とでも言うべきか、千晶はこの場所をそう思っていた。全てが上品な天国のような場所。
そんな時に勝英が千晶に呼びかけた。
「お母さん。姉ちゃんがいる」
勝英の指の先には亜弓が歩いていた。隣には男がおり、恐らく恋人の後藤だろうと千晶は思った。
千晶は邪魔をしては悪いから隠れようかと思ったが、亜弓は千晶と勝英に気がつき、こちらまで来た。
「姉さん。まさかここで会えるとは」
「偶然ね」
千晶はここで後藤と目があった。
「後藤さんです」
亜弓はそう言って後藤を紹介した。後藤は千晶に挨拶をし、千晶も後藤に挨拶をした。千晶が持った後藤への印象は真面目というところだった。年も三十二には見えなかった。実際歳の差がなければ結婚に反対する者はいなかっただろう。
「今日はお仕事はお休みで?」
千晶はそんな事を聞いた。後藤がどんな人か単純に知りたかったのだ。
「父の仕事を手伝っているのですが、今日は休みをもらいまして」
後藤は父親が経営している会社に勤めているのを前に亜弓から聞いたのを千晶は思い出した。
後藤からは人の良さがしっかりと伝わっていた。これは優斗も実際に会えば二人の関係について考え直してくれるのではないかと思った。
勝英はどこかへ行きたそうにしていた。千晶はここで話を切り上げて、勝英とどこかへ行った。
千晶は亜弓と後藤に会釈をして、その場を後にした。
・
家へ帰り、夕ご飯の支度をしていると、電話が鳴った。電話に出ると、それは亜弓からであった。
「姉さんですか?今日は私、ご飯はいりません」
「そう、残して置こうか?」
「いえ、大丈夫です」
「そう、わかったわ」
電話を切ると、再び、台所へ戻った。
亜弓の結婚は秒読みのような気がした。誰が反対してもあの二人はしっかりと愛し合えると千晶は思った。
それは千晶が一度でも離婚を経験したとはいえ、愛し合い結婚をしたからであるのか、それともただの勘なのかはわからなかった。
暖かい風が窓から小さく吹き刺し、千晶は例のくすぐったい感覚に襲われた。
そして夜遅くなる亜弓は帰宅をした。その物音に千晶は目を覚まし、玄関まで亜弓を迎えに行った。
「おかえりなさい」
千晶がそう言っても亜弓は何も言わず、そのまま玄関に腰を掛けた。
「どうかした?」
千晶は亜弓の背中越しに肩に手を掛けた。
「姉さん」
亜弓はそう言うと、言いづらそうにしていたが、千晶の耳元に口を近づけた。
「プロポーズをさっきされました」
「今日の夜?」
亜弓は何も言わずに頷いた。
「そう」
どう感情を出していいか、千晶にもわからなかった。単純に喜んでいいものか、それとも年長者らしくこれから周りの人への報告などの事などの手伝いなど、一つのことに沢山のことが含まれているものにはどうすればいいのかわかりかねた。
「亜弓、おめでとう。幸せになりなさい」
だが、それでも亜弓への幸せは願い、その言葉だけは偽りなく言うことにした。
「ありがとう姉さん」
亜弓にもこれからの方が幸せだけではないことはわかっていたのだろう。
恐らくは優斗のように反対する人が沢山いるのだろう。だがそれも亜弓を思ってのことではある。千晶はなんとしてでも亜弓を守らなければと思った。そして両手を亜弓の肩越しに伸ばし、この喜ばしい気持ちを言葉言わずに抱きしめた。
・
翌日に亜弓は夕子と優斗にその事を伝えた。
夕子は落ち着き払っていたが、優斗はやはりと言うか、声を荒げはせずとも、亜弓を顔をじっと見つめていた。
「こんな事、親戚は反対するに決まっている将来のことをしっかり考えろ」
「しっかり考えています。兄さんは周りのことばかり気にして、私のことを考えずに言っているだけじゃないですか」
亜弓は優斗にそう言って、今にも飛びかかるように千晶には見えた。
「優斗、亜弓はもう子供じゃないのよ。しっかりと将来の事を考え、後藤さんと二人で進む事を思っているの。亜弓はもう一人前の大人よ。昔ではないわ」
「そんな事言ったって、姉さんは....」
優斗はそこで口籠った。言わんとしていることはわかる。そこで思いとどまれたことと優斗の表情に千晶は優しさを感じられた。
「それに亜弓の恋人の後藤さんはしっかりと亜弓を愛していたわ。亜弓を守っていける人よ」
「お会いしたの?」と夕子は言った。
「ええ、勝英と楽山園に行った時にね」
それを昨日のこととは敢えて言わないで置いた。
優斗の表情はそれでも変わらなかった。自分が言っても説得力はないのだろうと千晶は深いため息を心の中でついた。
優斗は不貞腐れにも似た様子でいそいそと家を出て行った。夕子も後に続き、玄関に来た時に千晶に亜弓の話をし始めた。
「姉さんから見て、後藤さんという人はどんな人だった?」
夕子からその話が出るのは意外なように思えた。
「良い人よ。なんというか、私よりも年上のはずなのにそう感じさせない人ね。顔が若いのもあるけれど、亜弓と同い年に見えるわ。仲が良さそうだった。新米夫婦にも遠目からはそう思えたわ」
「姉さんがそういうならきっとそうよね」
「私の考えが当てになるの?」と千晶は不思議そうに言った。
「私は姉さんを尊敬しているから、当てにしているわ。でも、話を聞くからに亜弓は本当にその人が好きなのね。姉さん。亜弓のことは私に任せて、姉さんは優斗をお願い。あの子だって、亜弓のことは思ってなんだわ。ただ男だからね....」
「ええ、わかっているわ。優斗だってきっとそうでしょう。兄弟の幸せを願わない者はいないはずだもの」
夕子はその言葉を聞いて、外へ出て行った。
しばらくして、亜弓も仕事に出掛けてた。
家に残った千晶は一通りの仕事を済ませると、勝英を連れて、家を後にした。
先日昔からの友人から入院をしているという手紙が届き、その見舞いに出掛けた。
しかし、なんとも変な運命である。二人して、結婚をしたのも束の間すぐに別れ、それでいて友人は病気になってしまったのだから、千晶は彼女をかわいそうに思えてならなかった。
病院に着くと、受付で友人の名前を言うと部屋まで通してもらった。
「あら、蜂須さん久しぶり」
ベッドで横になっていた友人はそう言っていた。顔は明らかに痩せ細っており、元気そうには見えなかった。
「かわいい子ね。名前は」
友人は勝英の方を見て言った。
「勝英です」
勝英はそう答えて、少し恥ずかしそうにしていた。
「子育ては大変?」
「まあね、旦那はもういないから」
「そう」と友人は寂しそうに言った。
「お母様も先日亡くなったわよね。お葬式に行かなくてごめんなさい」
「いいのよ。あなたも大変なんだから。今は兄弟と暮らしているの。だから一人ぼっちじゃないし、末の妹が面倒を見てくれているわ」
「ああ、そうなの。もう大きくなったわよね?」
「二十二歳ね。カフェで働いているわ。今度結婚するらしい」
「おめでとう」
友人と千晶の間には言わずとも考えていることはわかった。
「でも、なかなかね。歳が十も離れていて、私や二つ目の妹は反対はしていないのだけど、弟がね。今は父親代わりになろうと必死になってて、妹の結婚を認めてないそうよ。それに親戚もあまり良い顔はしないでしょうね」
「確かにね。私は結婚した直後にすぐ亡くなった旦那との結婚も色々な人に反対されたわ。二十歳も歳が離れていたからかしら。だから歳で亡くなったのね。すぐに未亡人よ。でも、あの頃は楽しかったわ。結婚ということが幸せだった。反対している人なんかいたかしらと言うように思えたわ。妹さんもきっとそうだと思うわ」
友人の顔色は不思議と良くなったように見えた。果たしてそれが千晶の幻覚かはわからなかった。
病院を後にした時、ふと優斗の所まで行ってみようと思った。
電車を乗り継ぎ、優斗の働く会社まで着いた頃はもう昼前になっていた。
病院と同じように受付で優斗の名前を言うと、しばらくして、優斗は姿を見せた。
椅子に座っていた千晶は勝英を抱き抱えたまま、優斗にこう言った。
「お昼に行きましょう。お金は私が出すわ」
・
近くに店で千晶は勝英を隣に座らせながら優斗と対面していた。
「急にどうしたの?」
「亜弓の事に関してね。優斗は本当の気持ちはどうなんだろうと思って」
「本当の気持ちってどういうこと?」
「亜弓の結婚を反対しているけれど、それはお父さんならそうしただろうからって事に私は思えるわ。本当はどう思ってるのかしら?」と千晶は言うと、水を一口飲んだ。冷たさが、体の中を行き渡ったように思えた。
「本当の事を言えば結婚を祝ってやりたいさ。本人の気持ち次第だろうし。だけど、そんな事を言ったら俺達は後ろ指を指されて生活することになるんだ。俺だけでも冷静に物を考えなければならない。
だから姉さん。そういうことだ。亜弓には嫌われても構わない。だけど、今は良くてもいつかは後悔するなんて俺は嫌だ」
優斗の思いは千晶の想像通りであった。
「優斗、時代は常に変わっていくわ。もし後悔しても二人が結婚をしたことは二人の中で永遠に思い出として生き続けていくの。それが尊い日々だったって思える日がずっと続くのよ。先程、昔からの友人に会って来たわ。彼女は親戚の反対に会いながら二十歳年上の人と結婚をしたけれど、旦那はすぐに病死。今は彼女も入院生活をしていて、辛いように思えるけれど、あの子はあの時は幸せだったって言ってて、それが生きる糧になっているそうよ。それはわかってほしいわ」
二人の幸せを願うならば、今の幸せを叶えてあげなければと千晶はその言葉を敢えて言わずにいた。そしてその後、優斗とは別れ、千晶は家へと勝英を連れて帰って行った。
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夕方になり、家の近くの桜も桃色から朱色に変わっていく様が目にあざあざと浮かび上がっていた。
「まあ、眩しいほどに....」と千晶はそれ以上は何も言わないで置いた。
川はまだ散った桜はあまり見えないが、来週か再来週もすればそれはもう川の姿を消すほどに美しく、散った桜が流れる流れ星のような川になる。
散り際のささやく音は時計のようにも聞こえた。