風と囁き
風が窓を叩く音に夕子は目を覚ました。かつての母の部屋でもあったこの部屋は確かに昔、母が風や雨の音で窓が叩かれるって言っていたのを思い出した。
一瞬、人が叩いてるようにも聞こえた。夕子は驚きながら、窓に寄った。ぼやけて見える外はまだ暗く、夜明け前なのであった。
寝ようにも夕子はなかなか寝付くのが難しかった。そのまま廊下へ出て、台所へ向かった。
台所に着くと暗い場所で影が動き出し、足音が聞こえたのがわかった。
体に鳥肌を立たせ、冷たいものが身体中を走り出した。
「姉さん」
その声を聞いて、夕子は亜弓がそこにいることを知った。
「何してるのそんなところで」
「風の音で目を覚まして、水を飲みにきました」
亜弓の顔はよく見えないが、匂いや雰囲気で亜弓だと思った。
「私と同じね。今夜は風が強すぎて嫌だわ。お母さんの部屋は。せっかく休みだと言うのに、出掛けられるかわからないわ」
「確かにそうですね」
亜弓はそう言って、その場を後にしようとした。夕子はその時、亜弓の顔がはっきりと見えた。そして自分でも無意識のうちに亜弓の肩を掴んでいた。
「姉さん⁉︎」
夕子は自分は何をしたのだろうと思った。亜弓は少し不安な顔つきになっていた。だが、それでも亜弓の目は涙ぐんでいた。
「何があったの?」
「何がです?」
亜弓は顔は見えないとでも思っていたのだろうか。声色だけはいつも通りだった。
「泣いていたでしょ?辛いことでもあったの?」
「泣いていません」
「嘘よ。暗いけれど、目の前を通ったらあなたの目がしっかりと見えたわ。ねえ、そこの椅子に座って」
夕子は亜弓を椅子へ座るよう促した。亜弓は諦めたのか素直に椅子に座った。
夕子は電気をつけて、何か飲めるものを探した。牛乳が冷蔵庫の中にあったので、それを温めて亜弓に出した。
亜弓は少しずつ口に入れ、落ち着きも取り戻したようだった。
「落ち着いた?」
「はい」
「起きたら仕事だっけ?」
「はい」
「そう、じゃあ、早いうちに寝なさい」
夕子はそう言って、一人廊下へ出て行った。部屋に戻り、風の音を聞きながら、亜弓の流した涙を想像した。
そしてそのことを考えると不甲斐ない自分を情けなく思った。
その後、横になるも夕子はやはり寝付けずにいた。もうそろそろ千晶が物音を出し始める頃のことだった。扉から音が聞こえ、まさか風じゃあるまいと夕子が扉を開くと亜弓が立ちすくんでいた。
「どうしたの?」
冷静を装っていたが夕子は内心は驚いていた。
「すみません。どうしても眠れなくて、姉さんは起きてるかなと思って」
「その通りね。一緒に寝たいとでも言うの?」
冗談で言ったつもりだが、どうやら本当だったらしい。夕子は亜弓を部屋に入れた。何も言わずに布団で横になると、後を追って亜弓も布団の中へと入って行った。狭かったが、自然と子供の頃を思い出した。
亜弓の手が夕子の背中にさらりと当たり、そこにやんわりとした強い暖かさが感じられた。
「姉さん、私、とても不安なんです。結婚は私と後藤さんだけの問題ではないんですね。私のわがままのせいで姉さん達にも迷惑をかけるし、親戚の方達も世間からの目に耐えかねてしまうかもしれない。結婚を真剣に考えた時、私達の結婚がどれだけの人に影響をするか、私達だけの問題なんて甘いことは言ってられないと自覚した時、悲しみと申し訳なさに涙が止まらなくなってしまいました」
夕子は振り向き、亜弓の顔を見た。亜弓は再び涙を流していた。
「いいのよ。あなたは私のかわいい妹なのだから。たくさん迷惑をかけなさい。どんなことをしようとあなたの人生でしょ?私達には亜弓の幸せを願わないことはないわ。迷惑だなんて思ったら自分勝手じゃない。私はあなたが幸せになることが嬉しく思うわ」
夕子はそう言って目を閉じた。亜弓のことは考えず、そのまま眠りにつこうと思い、眠りについた。
朝起きると、亜弓はもうそこにはいなかった。まさか、本当に眠りにつくとは自分でも思わなかった。眠りになんかつけるものではないと思っていたが、疲れからか、夢も見ずに朝を迎えてしまった。
着替えをし、部屋を出ると、千晶と合わせた。
「おはよう。姉さん。亜弓はまだ家にいる?」
「茶の間にいるわよ」
「そう、ありがとう」
千晶はそのまま夕子に笑顔を向けて、どこかへ行った。
夕子はこっそりと茶の間から顔を覗かせた。
亜弓はそこで朝食を食べていたが、明け方の前に流していた涙の跡は見られなかった。彼女のそこはかとなく力強い女らしさがそこにはあった。
まるで昨日の弱音が嘘のように思えてならなかった。
隠すのがうまいと夕子は思った。亜弓はもう子供ではないのだ。
尊敬をしてしまう程に夕子は亜弓を大人として見るようになった。
「おはよう」
「おはようございます。姉さん」
亜弓は何も言いはしなかった。またそれは夕子もそうであった。亜弓がそのことを言うものなら自分も言おうとは思ったが、亜弓の中では触れてはいけないものなのか、口にはせずにいた。夕子はタブーだと思い、墓場まで持っていくものができたと思った。
風は止まず、夕子の部屋の窓を叩く音が茶の間にまで聞こえてくるようであった。