殿下は空気が読めない人でした
待ち望んだ話し合いに「やっとか」と思ったが、忙しい身の上を思えば文句など言えるはずもない。
前回と同じように人払いをした後、殿下はソファに深く腰掛けると躊躇うように私を見た。
「……体調に問題はないか?」
「はい。ゆっくり休ませていただきましたので大丈夫です」
「そうか…」
言いながら殿下は口元に左手を当て、意味もなく顎を擦る。
私に再び負荷をかけてしまうのではないかと気にしているのがその顔から読み取れた。
そんな細やかな気遣いさえ嬉しく感じてしまう。
そういえばファビアン殿下から気を遣われていると感じたことなど一度もなかった。
すでにこの時点で6年婚約していた彼よりも、出会ってひと月も経っていない目の前の殿下の方が好ましい。
「では先日の続きなんだが」
殿下は顎にあった左手を膝へと移動させる。
膝の上で右手と組まれたそれを何とはなしに眺めていると、殿下は息を吐いた。
「マリシティ国王が聡明と認めた君だ。恐らく君が2回目の生と思っている人生が先日話した人生の次であることには気がついているだろう」
「はい」
殿下の言葉に視線を上げて答える。
自然と合った殿下の目の上の眉が、困ったように緩やかに下がっていった。
「だから今回からは俺から見た君のことだけでなく、君が体験したことも教えてほしいのだが」
いいだろうか?と声には出さずに私に問う。
そうか、今までは記憶になかったから聞くばかりだったが、今回からは私も覚えているのだから情報の共有ができるのだ。
「承知いたしました」
私は頷き、まずは殿下の話を聞こうと姿勢を正す。
それを見て殿下は「すまない」と呟いてあの夜のように優しく目を細めると、私たちの7度目の人生について語り出した。
「あの後、すぐに君の後を追った私はつい先ほども聞いたファビアン殿の声にうんざりしながらも君の方を見た」
「……え?」
「すると君は初めての繰り返しの時のように自分が若返っていることに驚いていて、俺は君が今までの繰り返しの記憶を失ったのではないかと考えた。ならば君はきっと別室に連れて行かれるだろうから、今度こそ会いに行こうと思っていたんだ。しかし」
殿下の言葉に何かとんでもない情報が入っていた気がするが、殿下はそこに触れないまま話を進めていく。
そして私に会いに来ようとしたと言ったが、そこで私はどうしのだったかと自分の行動を思い出してみた。
「君は令嬢の身でありながら夜道を一人で帰る道を選んだんだ。迎えの馬車が来るにはまだ時間があり、かと言って辻馬車を拾える時間でもない夜に」
はぁ、と深い息を吐き出した殿下は呆れているようにも疲れているようにも見える。
その時の心情に引っ張られているのだろう。
「俺は側近に命じて君の家を探して先回りしようとした。運がよければ道すがら君を見つけられるだろうとも思って。だが君は道にもいなければ家にも帰っては来なかった」
お手上げだったよ、と苦笑する殿下は私に問う。
「あの時、君はどうしたんだ?」
私は2度目(だと思っている)人生を振り返り、思い出した自分の行動を殿下に告げるべく口を開いた。
ここで勿体ぶったり誤魔化すつもりはない。
「王城を出たところで偶然通りがかったジャスパルへ向かう旅の一座の馬車と出会いまして、事情を話して乗せていただきました」
だから事実を包み隠さずに告げたのだが、殿下は「……旅の、一座?」と繰り返すと、がっくりと項垂れてしまった。
小さな声で「それは予想外過ぎる」「あんな時間に偶然通るか?」「というか令嬢が身一つで見知らぬ集団に身を預けるなんて、思えるわけがない」などと呟いているのが漏れ聞こえてくる。
私は「まあ、そうなんですけど」と殿下の気持ちを理解しながらも、どうしても思ってしまう。
だってその前の人生では10年ほど平民として生活していましたもの、今更だわ、と。
「それで、君はその後どうしたんだ?」
殿下はようやく落ち着きを取り戻したのか顔を上げ、私に再度問うた。
「ええと、彼らと意気投合したので結局そのまま一座の雑用係として働きましたが、3年ほどで野盗に襲われて死にました」
馬車が倒木に阻まれて進めない中いきなり大量の矢を射かけられたから、あれは罠だったのだろう。
多分一座の全員がほぼ同時に亡くなったはずだ。
嬉しくはないが、皆が苦しむ姿を長々と見ることにならなくてよかったとは思う。
「そうか…」
それでもそれを知らない殿下は痛ましい顔をした。
それを見ても、やっぱりこの人は優しい人なのだろうと思える。
本人は他人への配慮に欠けていると自称していたが、絶対にそんなことはない。
本当に他者への配慮が欠けている人間は、他人の話でこんな顔をしない。
そうして思い浮かべようとしたかつての婚約者の顔はすでに朧気になっていた。
「では次だな。その次の君、つまり前回の君だが」
気分を変えるように軽く頭を振った殿下は、しかし眉を顰めた。
「君はまたも城を出たところで消えてしまった。今度は逃がさないようすぐに側近に追わせたのにも関わらずだ。一体どんな手品を使ったんだ?」
だがそれは怒っているわけではなく不可解だと訝しんでいるだけだと伝わったので、私は種明かしをする。
「えーと、前回はですね…」
と言い差して私ははたと思いとどまった。
前回の自分が取った行動は、流石に令嬢としてはしたな過ぎる。
今更結婚をやめようとは言われないだろうが、殿下に恥ずかしい自分を知られたくないと思った。
「前回は?」
けれど殿下は身を乗り出して聞いてくる。
まさか私がそんなことをしていただなんて夢にも思わないだろうから、それは仕方ないけれど。
正直恥ずかしいし、何よりいたたまれない。
「どうした?まさかなにか、酷い目に?」
私が言い淀んでいると殿下はハッと目を瞠り、悪い方へと発想を飛ばしてしまったようだ。
心なしか拙いことを聞いてしまったと顔を青くしている気がする。
これは早く否定しなければ殿下の中で私が悲惨な目に遭ったことが確定されてしまう。
「いえ、違うんです!ただ…」
「ただ?」
「ただ、令嬢としてどうかと思う行動を取りましたので、その、は、恥ずかしくて…」
だから私は意を決して殿下に言った。
言外に「恥ずかしいから言いたくない」という気持ちも滲ませて。
なのに。
「なんだ、そんなことなら俺は気にしないぞ?」
殿下は杞憂が晴れたからかにっこりと今まで見た中で一番の笑顔で私に言った。
それを見て私は「もしかしたら殿下は配慮に欠けているんじゃなくて、空気が読めないのでは?」という疑念を抱いてしまった。
「それで、君はどうやって城を抜け出したんだ?」
私の醸し出している言いたくないという空気にも気づかず、殿下は再度私に同じことを問うた。
そうまで言われて口を噤んでいられるほど私は殿下の身分を軽く見てはいない。
諦めて言うしかないようだ。
「…マリシティ王城にある中庭を抜けると厩舎があるのですが、その裏手にある大きな木を登りますと、使用人用の小さな裏門の近くに出るのです」
「……ん?」
「私はそこから脱出してジャスパルを目指しましたが、国境の手前で野犬に襲われて死にました」
私は殿下の疑問の声に、しかし明確に問われたわけではないからと聞こえないふりをして言葉を続けた。
反応したら負けだ、絶対に突っ込まれる。
それにすでに自分の行動を自分でどう思っているかは伝えている。
一国の王太子であるような人がそれでもなおそこに言及するようなことはしないはずだ。
「そうか、君は令嬢なのに木登りもできるのだな」
「ぅぐふっ」
そう思ったのに殿下は遠慮なく抉ってきた。
やっぱりこの人、空気が読めないんじゃないかしら。
いくらなんでも今の言葉が追いうちになることくらいはわかるはずだもの。
私は殿下の言葉で負った胸の傷を押さえるように心臓に手を当てながら殿下を見た。
「ならば、逃げられないように明日にでも城中の木を切らねばならんなぁ」
けれど目にしたのは呆れる殿下ではなく、とても楽しそうに笑う殿下で。
私はまたドクリと音を立てた心臓に当てた手をきゅっと握り込んだ。
読了ありがとうございました。