たとえ食前酒であっても
その日は何となく離れ難くてルード様のベッドにお邪魔させてもらって夜を明かした。
やんわりと包んでくれるような腕は温かくて、安心した私はその腕に身を委ねてすぐに寝てしまったけれど、夜明けと同時にルード様が起こしてくれたので内扉を使って自分の部屋へと戻った。
「まだ早い時間だから、もう少し眠るといい」
扉の前で私を抱きしめ額にそっと唇を落としたルード様の言いつけに従ってベッドに入ったものの、当然ながらそこには先ほどまでの温もりなどなく、シーツの冷たさが逆に覚醒を促してきた。
とはいえこんな時間に起きていてもやれることはない。
私は朝日に照らされ始めた窓に背を向けてそっと目を閉じた。
「おはようございますアンネローゼ様、お目覚めでいらっしゃいますか?」
「……あれ?」
外からエルの声が聞こえる。
私はいつの間にか眠っていたらしい。
「入っていいわ」
エルに入室の許可を出しながら上半身を起こしてぐいっと腕を伸ばす。
背骨からコキンと小気味よい音が聞こえてきた。
「失礼します」
「失礼します!」
入室の許可をもらったエルがリリと共に部屋に入ってくる。
エルは盆を乗せたワゴンと共に私の横に、リリは通り過ぎてカーテンを開け、そのまま空気を入れ替えるために窓を開け放つ。
いつもと同じ光景。
昨日はルード様とあんなことがあったのに、朝になれば変わらない日常が始まることがなんだかおかしかった。
「アンネローゼ様、ご準備を……」
ふふ、と小さく笑っていると、私を見たエルが突然笑顔のままピシリと固まった。
心なしか顔が青い。
「ん?どうしたの?」
不審に思って声をかけるが「あ、あぁ…」とエルは小さく声を漏らすだけだ。
「エルー?」
名前を呼びながら顔の前でひらひらと手を振ってみるが、エルはまだ動かない。
しかし「え?エルさんどうかしたんですか?」とリリが近づいてくると、エルは突然硬直が解けたようにビクンと動き、手に持っていた盆を高速でワゴンに戻して昨日着たまま横に置いてあった上掛けを勢いよく私にかけた。
何故か頭からすっぽりと。
「え、える…?」
「エルさん?」
私は滅多に慌てない穏やかなエルの常にない行動に戸惑っていたが、遮られた視界の外でリリが同じように困惑しているのを感じる。
先ほどからなんだかエルが変だ。
「あ、ああいえ、あの、そう!今日は冷えますから!お風邪を召されては大変かと思いまして!!」
一方のエルもなんだか戸惑ったような、どうしたらいいかわからないという雰囲気でそんなことを言う。
なんとも意味のわからない沈黙が一瞬部屋に訪れたが、
「リリ、こちらへいらっしゃい」
どこからともなく現れた、普段ならこの時間は殿下の身支度を手伝っているはずのマイラがその沈黙を破り、リリを連れて部屋から出て行った。
するとエルは「すみませんアンネローゼ様、すぐに取りますから!」と私から上掛けを取る。
自由になった視界に映ったエルは酷く慌てていて、私を見る顔が少し赤らんでいるようだった。
「いいけれど、どうしたの?」
「あの、えっと、その、ですね…」
「……ん?」
そう言って私の方をちらっと見るエル。
もの言いたげなその視線の先を追えば、私の左の胸元に行き着いて、
「……んんんんっ!?」
そこにある身に覚えのない赤い点に目が釘付けになった。
「殿下、寝ている女性を襲うなんて見損ないました」
「ぶっ!!」
「ふぐぇっ!?」
「……ふむ」
その日、偶然すれ違ったルード様に私はわざわざ上着を捲って赤い点を見せつけながら簡潔に文句を言った。
身に覚えのない胸元の赤い点、所謂キスマークはどう考えても私が寝ている間にルード様が付けたに違いないものだったから。
当然その抗議は一緒に歩いていた護衛のジスと側近のリチャード様にも聞こえ、ジスは潰れた森蛙のような声を出し、リチャード様は顎に手を当てて小さく頷いた。
そして「殿下、据え膳だったのに前菜どころか食前酒にしか手を付けなかったわけですか、何と情けない」と額に手を当てて首を振っていた。
確かに状況的にはその通りだったかもしれない。
むしろここで止めてくれたルード様の理性に感謝するべきだろうか。
……そんなわけないわね。
頼んでもいない料理なら目の前に運ばれてきたからと言って手を付けてはいけないわ。
私はすぐにその場を離れたためそれ以降の彼らを見ていない。
だが、ルード様がなにやら後ろで「ローゼ、誤解だ」「違うんだ」「その、出来心で…」などと叫んでいたのは聞こえていた。
でも私はそれを全部無視してやったわ。
きっとリチャード様が上手く収めてくれるだろうと思うから。
最初の生で最後までルード様を守ってくれたという彼のことを私はとても信頼しているのよ。
色んな意味で、ね。
読了ありがとうございました。




