後悔しないために
「殿下、あの、近いです…」
私はようやく自分の両手の存在を思い出し、そっと殿下の胸を押し返した。
なのに殿下はそれ以上の力で私に近づいてくる。
「殿下!!」
だから近いって、近い近い、ちーかーいー!!
ただでさえ今は睡眠時用の薄化粧しかしていないのに、素顔でそんなにも美しい殿下の顔を近づけないでほしい。
しかも月明かりのせいで私の赤く染まっているであろう顔は殿下に丸見えだ。
二重の意味で恥ずかしい。
「殿下!今はそんな話をしに来たのではありませんわ!」
私は無我夢中で殿下に言う。
別に名前くらいと思うが、今更気恥ずかしいという思いのせいか「ジェラルド様」という一言がどうしても口から出て行かないのだ。
けれどそんな私の思いは、アゼリアならともかく殿下に伝わるはずもない。
なんとか有耶無耶にしようとする私に殿下は「やはり…」と呟いた。
「やはり君は、自分を殺した男の名前など呼びたくもないということか」
そして何故かそんな結論を出していた。
「……は?」
思わず不敬極まりない言葉が口から出る。
名前の音はどうやっても出ないのに。
「追い詰めるような真似をしてすまないな。忘れてくれ」
「え、ちょ、え、え、殿下?」
言うや否や殿下はパッと私を放し、距離を空ける。
そして消沈したようにソファに項垂れた。
「あの、どうなさったんですか?」
いくら何でも急に情緒が不安定過ぎる。
だってさっきまで全然関係ない話をしていたじゃない。
なんで急に、こんな…。
「…その本を読んでいて気づいたんだ。俺は今まで何の疑いもなく死ねばまた繰り返しが起きると考えていたことに」
慌てる私に殿下がぽつりと呟く。
その声は酷く淋し気で、なんだか私の胸まできゅっと苦しくなった。
「けれどそれは違うのだと、9回起きたことが10回起きるのだとは限らないのだと、唐突に気がついた」
「え?」
「だってそうだろう?あの騎士は言っていたじゃないか、『俺たちの一族はそうやって家長の危機を乗り越えてきた』って。つまりあの短剣は今までにも使われていたということだ」
殿下は気を落ち着けるように大きく息を吸って吐く。
そしてまた大きく吸うと、その空気を使って話を続けた。
「なのに今がある。時が動いている。それ即ち彼らは原因を回避して生き、天命を全うして亡くなったと考えられる。そして天命によって命を終えたから時は巻き戻ることなくそのまま流れている」
ここでまた殿下は大きく息を吸ったが、私は口を挟まなかった。
殿下が言わんとしていることがわかるようでわからなかったから、何も言えなかったのだ。
「何度も本を読んでいる内に、その『天命』が何を指すのか、俺はわからなくなった」
「…天命」
「そうだ。俺は今までの人生で戦死、事故死、自死を経験した。なのに時が巻き戻ったのは何故だ。それが天命ではなかったからではないか。そう考えた時、俺は恐ろしくなった。ではいつ起こるどんな死が俺の天命なのかと。そしてその時がいつ来るのかと」
殿下の言葉に私は目を見開く。
同時に雷に打たれたような衝撃を感じた。
そうだ、なんで今まで気がつかなかったのだろう。
私たちは自分たちの手でこの繰り返しを終わらせる方法を探っている。
けれどそれはあくまでも私たちの考えであって『時戻しの短剣』の効果とは全く関係がない。
原因がわからないまま死んだとして、いつでもまたあの婚約破棄の場に戻れるとは限らないのだ。
今まで戻っていた原因がわからないのだから、気づかないうちにそれが解決されていたら、私たちは戻れない。
皆と同じようにただ人生が終わるのだ。
そんな当たり前のことが今急に目の前に現れたように思える。
思わず両肩を抱けば、自分の手が震えていた。
繰り返しは当たり前じゃない、どころかいつ終わるかもわからない。
それが『原因を解決するまで終わらない』から『ある時唐突に終わるかもしれない』に変わるだけでこんなにも怖いものなのか。
人生が一度きりしかないなんて、皆には当たり前で、自分にとっても当たり前だったのに。
いつから私は『死ぬ』ということを軽く見ていたんだろう。
「そう思った時、俺は後悔がないようにしようと思った。今がダメでも後でなら、が通じなくなる時がいつか来る。君の心が落ち着くまで俺を名で呼ばないのも仕方がないと思っていたが、今この時天命が尽きてしまえば、俺は一生君に名を呼んでもらえなかったことになる。そんなのは嫌なんだ」
「殿下…」
「だから強引に迫ってしまった。すまない」
申し訳なさそうに目を細める殿下に「いえ」と返してから、私は思った。
たかが気恥ずかしいからという理由で愛する人の望みを叶えないまま死んでしまった時、自分は後悔しないだろうかと。
そして思ったと同時に答えは出た。
奇しくもその答えは殿下と同じ。
そんなのは、嫌よ!!
「殿下、私決めました」
私はソファの上でお尻をずりっと横に滑らせた。
そうすると体半分ほどの距離分殿下に近づく。
「うん?」
顔を上げた殿下が首を傾げる。
その間にまたずりっと横に滑る。
「これからは殿下のこと、ルード様って呼びます」
言いながらまた横に滑る。
近づいた私の肩が殿下の腕に触れた。
「…んっ!?」
殿下はハッとしたように私の肩が当たったところを見て、思いの外近くなっていた距離に焦ったように軽く身を引いた。
でも私は引かない。
先ほどとは逆に殿下に近寄って、少し伸びあがって首に腕を回す。
「だから私のこともローゼと、愛称で呼んでくださいませんか?」
そうして引き寄せた殿下の頬にそっと自分の頬を擦りあてた。
色恋の経験がないからどうすればいいのかわからないなら、自分がしたいようにすればいいのだと開き直れば、怖いものなどもうなにもなかった。
読了ありがとうございました。




