10、朝、森にて
「それで……これからどうする手筈になっているんです?」
とりあえず焚き火跡まで戻り、一呼吸置いたところで今後の予定について聞く。
「この後城下町の酒場、『砂滑亭』でルコウと落ち合うことになっています」
「『砂滑亭』……ああ、あそこは確か……」
「彼女曰く、裏稼業の斡旋を行っている場所でもあるそうですね」
裏稼業斡旋をしているとはいえ、あの店では暗殺といった闇の住人が依頼するようなものよりか、ワケアリで正式に依頼を出せないような、グレーゾーンのものを扱っている印象だ。そして何より、あそこの酒と共につまむリムチーズと言ったらもう、筆舌に尽くしがたい。
「そこなら、秘密が外部に漏れる心配は無いでしょう。道中見つからない限りは、ですけど」
「そうですね……」
それにしても、さっきからずっとフォーセの表情が明るくない。
「どうしました?体調が優れないとか?」
「いえ……体調は万全ですが……」
釈然としない返答。
「?どうしたんです?」
「ちょっと、どんな場所なのか少し不安で……」
「ああ……別にそこまで変な雰囲気の店じゃないです。見た目も内装も、普通の酒場ですよ」
「いや、それはそうなのしょうけど……」
フォーセがこちらの顔を見る、と思ったら逸らす。なんだか顔が紅潮しているようにも見える。
「わ、私はあの……公務以外では外を出歩いたことが無くて、その、酒場と言ったら、怖い感じの人が沢山いるのかと思うと……」
「ああ、そういう事……」
酒場といえば確かに、荒くれ者が多く集まるイメージはある。ろくに外の常識も分からずに、自分が襲われるかもしれないような場所に行くのが怖い、というのは当たり前に抱く感情だろう。
「教科書とかには載ってなかったかもしれませんが、こんな朝から酒を飲む輩なんて居ませんよ」
「そういうものなんですか?」
「そういうものですし……仮に襲われそうになったら、俺がお守りいたしますよ」
もちろん将来的に報酬を貰うためであって、あなたが大事だからではない……というのは心に仕舞う。
「そうですか……それではお願いしますよ、ボディガードさん?」
「あ、ハイ……」
こちらを下から、上目遣い気味に覗き込むフォーセ。純粋に嬉しそうにしている彼女を見て、気恥ずかしさと申し訳なさ浮かんでくる。
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木々が生い茂る森を歩く。焚き火をしていたところが特別開けていただけで、今歩いている場所は日の光すら殆ど届いていない。
「しっかし、これは薄暗い森だな……」
「ここは常に日が差さない森、『陽光隠しの森』とも言われていますね」
「それぐらいは知っていますよ……」
フォーセは少し自慢げに話すが、自分はこれでも兵士団入団試験に合格した身ではあるので、一般常識位は持ち合わせている。
「では、この森はどれ位の面積か分かりますか?」
「え?えーっとたしか、150平方キロメートルくらい……?」
「残念、外れです」
してやったり顔で、こちらを見る。しかし、いやにテンションが高い……あまり外のモノに直接触れる機会が無かったというのもあるだろうが、妙に信頼されている感がある。
「正解は……50平方キロメートル。正確には53平方キロメートルですね」
「100も違ったか……最近はあまり勉強してなかったかもなぁ」
腕を後ろで交差させて上機嫌に歩みを進めるフォーセは、そのままどんどんと突き進む。
「あの、殿下……本当にこちらで合っているのでしょうか……?」
「あれ……そういえば私たち、今どの方向に向かっているのでしょう……」
小鳥のさえずりに風で木の葉同士が擦れあうざわめきが、より一層二人の間の静寂を引き立てた。
「あ……じゃあもしかして……」
「迷った……?」
互いに目を合わせ、唾を飲み込んだ。
「……方位磁石くらいは用意してるものだと、てっきり……」
「ですよね……方位磁石は必需品でしたね……」
それほど重要なものを忘れるなんて、本当に大丈夫なのかこの人……
「「はあ……」」
二人してその場に座り込み、同じタイミングで溜息をつく。
「闇雲に歩いてもしょうがないが、だからと言ってこのままでも埒が明かない。殿下、何か案は無いんですか」
「あるならとっくに出しています……」
昨日からの疲れもあり沈黙が続く中、ぐうと腹の虫が鳴る。
「腹も減ったな……殿下はどうなんです?」
「そうですね……さすがに―――」
ぐぅううー、と自分のものよりも大きい音が鳴る。
「あ、これはそのっ……」
恥ずかしさのあまり顔から火が噴き出たように赤くしたのを慌てて両手で覆い隠す。
「まあ、人間生きてれば皆腹は空きます。そんな恥ずかしがることでもないですよ」
「それはそうですが……」
恥ずかしいものは恥ずかしいようだ。年頃の女の子らしいといえばらしいが。
「そうだ、私が何か食べれそうなものを、取ってきますね!」
いや、危険な生き物がいる可能性もあるから、
「あ、おい!一人で行くな!」
気恥ずかしさを紛らわすために、何か行動を起こしたかったのだろうが……
「軽率な行動過ぎる全く……」
これには頭を抱えるしかなかった。
『陽光隠しの森』とはよく言ったもので、日中でもとても視界が悪い。何とか足跡は追えるが、じっくり見ないと簡単に見失うため、なかなか追いつけそうも無い。
(まだ離れてはいないはず……でも)
今までは特に野生の動物に襲われることも無かった。仮に襲われても自分が居れば難なく対処できただろう。
(あのお姫様が1人になった今、これは向こうさんからしたら絶好のチャンスだろう)
焦燥感が心を満たすが、焦りはかえって判断を鈍らせる。朝も勝手に水浴びしていて平気だったから、この不安も杞憂に終わることを願う、が……
「!これは……」
足跡が伸びている先の木の幹に、とても大きい動物の爪痕が付いている。
(さすがの『智』の妹君もこれは知らなかったのか……)
緊張感が一気に高まり、自分の心拍音が聞こえるほどの焦りを覚える。
(くっそ、頼むから餌になる前に見つかってくれ……!)
足跡を見逃さない程度に駆け出し、一刻も早くフォーセを見つけ出さんとするカンナ。
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「うーん、あまり食べられるようなものはこの森にはないようですね」
人差し指を下顎に当てながら、どうしようかと辺りを見回すフォーセ。
「それにしても……ここは薄気味悪い森ですね……」
日の届かぬ薄暗い森で、一人。
(カンナと一緒に来るべきでした……)
軽はずみな行動を取ってしまったと、心底後悔する。自分でもなぜ飛び出してしまったか分からない。ただ、堪らなく恥ずかしくて、目の前にいる事が出来なかった。
(何を……しているんでしょうね本当に……)
単独行動時に野生動物に襲われてしまったら、恐らく何も出来ずに餌食となるのは自明の理。それも今朝の泉の時とは違い、カンナから大分離れてしまっている。助けを呼んでも聞こえないかもしれない。
(暗い、そしてなんだか寒い……)
この暗さが余計に不安を煽る。風も今のフォーセには冷たく当たる。先程まで二人の時とは違い、心の底から心細さが込み上げる。城から外出するときは決まって護衛が付いていたし、城内では当たり前だが、単独で歩いていても怖さなど感じなかった。
(知らない場所で一人になるのが、これほど恐ろしいなんて……)
一度「怖い」と感じてしまえば、それを拭うのはとても難しく、精神的にはまだ発展途上のフォーセではこの感情を抑え込んで周りの様子を窺うのは不可能に近かった。
森のざわめきがまるで、恐怖に怯えている少女を取り囲みあざ笑っているような、とてもおぞましいものの様に蠢いている。
(怖い……カンナ、早く来て……)
ただただ、力のない少女はうずくまり、待つことしか出来なかった。
そんな彼女の背後の暗がりから大きな影が、どす、どすと重い足音を立てて接近してくる。
「えっ……!?」
フォーセが、振り返る。恐怖から周りの情報をシャットアウトしていた為、接近に気付くのが遅れた。
グガァァァア!
「あ、ああ……」
巨大な体に黒い剛毛を全身に生やし、両手足には鋭く大きな爪。口には金属さえも噛砕けそうな強靭な牙。この森の主、『陽光を隠せし者』と呼ばれるグリズリーが後ろで仁王立ちしている。両腕を広げ雄叫びをあげ、大木すらなぎ倒せそうな勢いでフォーセに向かって腕を振り下ろす。
「きゃあっ!」
この一撃を何とか身を捻って間一髪で直撃は免れるが、振り下ろされた腕の勢いで木に背中を激突させる。
「っかはッ!」
衝撃で肺の空気が抜け、内臓が揺れる。
(い、息が……)
思うように出来ず、立ち上がることもままならない。それを知ってか知らずかじわじわと、獲物を追い詰めるが如くグリズリーが迫ってくる。
(イヤ……このままだと私……)
死、という言葉が頭をかき乱す。しかし、圧倒的な力を前に、フォーセは抗う手段を持っていない。
(私、成し遂げなければいけない事があるのに……ここで、終わりなの……?)
目には涙が浮かび、悔しさ、恐怖、絶望に押し潰されそうになる。
しかし諦めかけたその時、視線のずっと先に、青い雷が瞬いた。
(あれは、たしか決闘の時にも……!)
砂煙の中で青い光が迸り、かの騎士団員レッドリー・フォン・アイギスを吹き飛ばした時と同じ、輝き。
グリズリーはそれを意に返す事もなくフォーセの目の前に立ちはだかり、またもや右腕を振り下ろさんと高い位置に持っていく。
(私、信じますよ。ボディガードさん)
目を閉じる。最早彼女の心に恐怖は無く、数瞬先に希望を抱く。
グワァァァァ!!と振り下ろされる右腕が彼女の脇腹を引き裂こうと迫った刹那、目の前が眩く青い閃光に包まれる。
グリズリーはその青雷を纏ったものに弾き飛ばされ、木を何本もなぎ倒したところでその勢いがやっと止む。
「おい、生きてるか?お姫様」
目を開けるとそこには、青い稲妻を体に纏わせた黒髪で唐紅色の瞳の青年が、立っていた。
「カンナ……!私、あなたが助けに来てくれると信じていましたよ!」
「全く、心配しましたよ……」
こちらを心配した面持ちで膝を突き、こちらの顔を覗き込んでいるカンナの表情が心配から、呆れと安心を程よくブレンドした笑みになる。
「私、怖かった。一人じゃ食べ物を探すどころか、あなたのところに戻れたかもわからない」
地面でうつ伏せになりながら、自分の弱さを吐露するフォーセ。
「ああ分かった、わかりましたよ。ここを切り抜けたら沢山聞きますから、そこで待っていてください」
樹木がなぎ倒されている先で、先程飛ばされたグリズリーが雄叫びを上げている。
「まだ、倒れないのですね……」
「あれはしぶとい。でも、すぐに終わりますよ」
カンナが数歩、自身より前に出て基本的な格闘の構えを取り、全身に稲妻を走らせる。
(詠唱も、魔法陣も無く雷を精製してる……まるで雷神の様……)
本来魔法とは、《起文節―創文節―発文節》を言霊として世界に伝え、属性という形で力を貸し与えて貰うものだが、カンナのそれはこの概念に当てはまっているようには見えない。
グリズリーが四足の全速力でこちらに向かってくる。
「さて、巻き込まれないように気を付けてくださいよ?」
消えた、と思ったら既にグリズリーの目の前に移動、そのまま顎を直上に蹴り上げ、がら空きになった腹部に正拳突きをお見舞する。
「まだ耐えるか……」
倒れず二本足で踏みとどまっている。相手がすかさず左腕を下から振り上げ反撃を食らわせようとするが、
「そんなの食らうかよッ!」
すぐさま姿勢を下げこれを躱し、足を払う。これにはたまらず、グリズリーはそのまま転倒し仰向けになる。
「じゃあこれで終わりだッ!」
カンナが上空高くに飛び、そのまま自然落下を利用し急降下、胴体に強烈な踵落としを決める。
(主をこうもあっさりと……)
グリズリーは電撃にやられ、体を痙攣させているが起き上がってくる様子は無い。
「よし、終わったな」
手をぱんぱんと払い、フォーセの元に歩いて戻る。電撃もいつの間にか収まっているようだ。
「はい、手を貸しな」
「あ、ありがとう」
カンナの手を借り、立ち上がる。
「その……助けに来てくれて、ありがとうございます」
お礼を言う……が申し訳なさもあり、目を合わせられずに俯く。
「襲われたら助けるって言ってしまった手前、来るしかなかった、ただそれだけですよ」
頭を掻きながら視線を宙に向けながら話すその仕草が、表向きは皮肉の籠った、しかし素直に言いたくない心が見え隠れしている。
「ごめんなさい。私の所為であなたに迷惑を掛けてしまいました」
自分の恥ずかしさを紛らわす等という、しょうもない理由でこうも負担を強いてしまった。真に恥じるべきは、先の事を考えずに行動を起こしてしまうことだと分かっていたはずなのに……
「確かに、勝手に俺の制止も聞かず森の奥に入っていくから……今後は無いようにしてくださいよ」
「わかりました……以後気を付けます」
しゅんとしてしまったフォーセに、
「結果として俺もお姫様も無事。それなら別に気に病むこともないでしょう」
フォローを入れるカンナだったが、
「グッ!ああッ……!くそッ」
「カンナ!どうしたのです!」
急に膝を突き、全身に走る痛みに耐える。額や首筋に、脂汗をびっしゃりと掻いている。
「はあ……なにも、さっきのヤツ、全開だったわけじゃないから……大丈夫」
「そう、ですか……」
そういえば先の決闘の後、気を失っていた。これを使いすぎたりすると、そうなってしまうのだろうか。
「立てますか?」
今度は自分が手を差し出すが、
「お姫様の手を借りなきゃいけないほど、弱っちゃいないよ」
この手を払いのけ、自力で立ち上がる。
「そう……それならそれでも良いのですが……しかし、どうやって私の場所をみつけたのですか?」
あの稲妻が空を翔けてから一瞬で助けに来た。場所も分からず突っ込むなんてできるわけがない。
「それは、あの熊が大声出して騒いでるから、すぐここだとわかったよ」
「ああ、なるほど……」
「それはともかく、」
宙ぶらりんだったカンナの視線がフォーセに向けられる。
「その……あんたは怪我とかないのか?」
仮にあったとしても治癒はできないけど、と小声で付け加える。
「いえ、おかげさまでほぼ無傷です」
「そうか……クライアントに怪我をされちゃこっちが困る」
肩を竦めながら続ける。
「まあそれなら、さっさとこの陰湿な森を抜けちゃいましょう。腹は『砂滑亭』で満たせばいい」
「ええ、そうですね」
共に旅をする人が彼で良かった、そう前を歩くカンナの背中を見て、実感した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「それでだ、結局どうこの森を抜ければいいんだ……」
「た、たしかに……」
一難を逃れることは出来たが、結局森を出る算段は付いていない。
「なんとか方角さえ分かればいいのですが……」
「それがわかればこんなに苦労はしていませんよ……」
ぐぅぎゅるる、と腹の虫が盛大に鳴く。
「あーあ……今朝見かけたあの変な鳥、捕まえて食べれば良かった……」
そうすれば、胃に穴が開く一歩手前位の現在の空腹が、三歩手前位になるかもしれない。
「え……!その鳥、どんな鳥でしたか!?」
「お、おお……」
余程お姫様も空腹なのか、凄い勢いで食いついてくる。
「あれだな……たしかすんごい変な鳴き声の、そうそう……」
「もしかして『徹夜鳥』ですか?」
「ああそうそれ。なんだあんたも食べたい――――」
「それです!」
フォーセの謎の勢いに気圧される。彼女の顔が希望に満ち溢れる。
「なにが『それです!』なんだ……?」
全く意図が読み取れない。
「『徹夜鳥』の習性をご存じ無いのですか?」
「ええ?さすがに知らないな。変な鳴き声なぐらいしか」
「『徹夜鳥』は鳴く時必ず東を向く習性があるのです」
必ず東を向く……つまりは、
「そいつの向いてる方向とは真逆に進めば、西側の城下町側に出られるのか……!」
これでやっとこの『陽光隠しの森』を抜けられる。
「ではあの特徴的な鳴き声を頼りに見つけましょう。あの鳥は図太い性格をしているので、近づいても逃げたりはしませんよ」
「それにしても、良くそんなこと知ってるな……」
「私、鳥が好きなので、良く図鑑などは見ていたのですよ」
「へえ、そうなのか……それはどうして?」
思いがけずそんな質問をしてしまった。ただの雇われ傭兵、そんな下らない事をわざわざ訊いても何も意味をなさない。それは分かっていたが、つい彼女の純朴な笑みを見て心が緩んでしまった。
「昔、家族で海に行ったことがありまして……その時に見た、カモメが自由に空を飛ぶ姿がとても可愛らしくて、以来は色々な鳥類について調べていますね」
「家族……ねぇ」
家族。自分には縁も無い、いや、知らないだけかもしれないが。
「母上がご存命されているときは、良く外に遊びに行ったものですが……亡くなってからはそんなこともしなくなりましたね」
「母上……ねぇ」
「ねえ、カンナのご家族はどうされているのですか?」
心の中で、質問しなければ良かったと、舌を打つ。
「家族なんて知らないし、あんたには関係のない事だろう」
露骨に不機嫌な返しをするカンナ。
「あ……そ、そうですよね。ごめんなさい、気が利きませんでした」
「もうこの話はいい。さっさとその鳥を見つけるぞ」
これだから、一個人と深い関係にはなろうと思えない。自分を掘り起こされるし、どうせ心の底から気を許せる関係になれたとしても……
心の隙間に、いやに赤黒い粘液が流れ込んだ気がした。
俯き加減のまま歩くフォーセに、明後日の方向を向くカンナ。二人の間には決して簡単には埋まらない、大きな溝がある。